前回、つくねを話題にしたから、續きの気分で。
獸肉(或は魚介肉)を刻んで叩いて捏ねて、香草だの香辛料だのをまぶして丸く纏めたのを、この稿では肉団子と呼ぶ。我ながら大雑把な掴み方だとは思う。
つくねに就て、散々好き勝手に書いた直後だから、多少の引け目を感じつつ云うのだが、肉団子は全般、好物である。宮崎駿のルパン三世映画で、ルパンと次元が、肉団子を乗っけた大皿に大盛のスパゲッティを取り合う、胃袋を刺戟する場面があるでしょう。他の映画での麺麭やお辨當もそうで、食事の見せ方に関して、宮崎の藝は名人の域にある。
肉団子に戻りますよ。
たとえば驛辨の端っこに、二つくらい慎ましくあったら、嬉しくなる。或は中華風(いつも"何が中華風なんだろう"と、疑念が沸き上がる)の甘酢あんをたっぷりかけたやつなぞが出た日には、頬が弛むのを抑える自信はない。
併し。併しですね。
思うのだが、肉団子…つくねやつみれも含めて…は、さていつどんな風に食べるのが、最良なんだろうか。つくねの串焼き、つみれ汁はまあ判る。鍋料理の種にするのも判る。どれもうまい。とは云え、日々の食卓には乗せにくい。辛うじてミンチボール…私は未だ、"メンチ"という呼び方と、和解していない…なら、罐麦酒のお供によさそうなくらいか。
肉の下拵えとしては、ありふれているらしい。野菜なんぞでの嵩増しは簡単だし、肉が多少やれていても、大蒜や葱や生姜で誤魔化せもする。であれば、我われの御先祖が、肉団子の羹に舌鼓を打ったとしても不思議ではないのに、どうもその気配はうすい。クラッシックな和風のおかずに、肉団子の姿を見掛けないのがその證拠で、需要が無かったのか、技術的な問題が解消出來なかったのか。
それはそうと、偶に呑みに行くラウンジ(と看板には書いている)がある。そこのママさんは料理好きで、時にちょいと手を掛けたお摘みを出してくれる。混雑していたら、話は別だが、そもそも飯を喰う場所じゃあないのだから、出てこないからと云って、不満を感じることはない。
そのラウンジ(看板にはそう書いてある)で、いつの夜だったか、ママさんが用意してくれたのが上の画像。
ブラウンソースのシチューに、多分サワークリーム。トースト。それからミートボール…ではなく、矢張り肉団子と呼ばなくてはなるまい。これが何というか、(ママさんには失礼ながら)妙にうまかった。ビーフシチューのビーフを肉団子にするだけで、ハイボールに似合うお摘みになるとは、思ってもいなかったから。匙で掬ってトーストで拭って、綺麗に平らげられるくらいのなのも、呑み助には好都合。隣席の定聯さんと、これあまた嬉しいですねえと、褒めそやしながら食べた分、余計に旨く感じたのかも知れない。
さてそこで思うに、肉団子は大皿より、小鉢に向くんではなかろうか。正直に云って、肉団子料理は、我われ…いや私だけか…の食卓や酒席で、堂々の主役を張るほどの實積を持ってはいない。一方、汁椀小鉢に、あのころりとした姿を見ると、何だか得をした気分になる。同じ挽き肉産でも、ハンバーグやミンチカツだと、こうはならないのだから、肉団子はまったく、不思議と云わざるを得ない。