閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

1229 忘れてゐた御無沙汰

 さういへば、鶏の唐揚げも久しく食べていなかつた。

 實は先刻まで忘れてゐたのだ。

 撮り溜めた飲食の記録を確めると、睦月にコンビニエンスストアでチキン南蛮を贖つてゐるが、チキン南蛮を鶏の唐揚げ…ここからは単に唐揚げと書きますよ…とは呼べない。

 

 何故か知ら。

 如月にはハムカツを食べてゐる。うまかつた。胃袋が揚げものを受けつけなくなつた、わけでもなささうに思ふ。切つ掛けといふか、弾みに恵まれなかつたからだらうか。

 ここでひとつ、念を押すと、私は家で揚げものを作つたことがない。残り少い余命で作ることもないだらう。唐揚げでも天麩羅でもフライでも、お店でプロフェッショナルが揚げたやつの方がうまいに決つてゐる。よつて唐揚げを食べたくなつたら、マーケットまで買ひに行くか、呑み屋に足を運ぶか、しなくてはならない。我ながら、ロジカルだなあ。

 さう思ひつつ、改めて画像の記録を見返すと、ハムカツを平らげた日の他、殆ど呑み屋…所謂居酒屋に行つてゐないと判つた。成る程、すりやあ御無沙汰もするよ。序でながらハムカツを出してくれる呑み屋には、鶏だけでなく蛸の唐揚げがあり、そつちのが好みだから、註文し損ねた事情もあるんぢやあないかと思ふ。

 

 呑み屋で註文するなら序盤、寧ろ最初ですね。

 壜麦酒を呑み、つき出しを摘みながら、待つ。

 小さい店ならカウンタの向ふ側で、"おれの唐揚げ"を揚げてくれる様子を感じられる。いい気分ですよ、これは。但し別のお客さんの註文を捌いてゐるのが目に入ると、そんなのどうだつていいでせうさ、と文句をつけたくもなるけれど、唐揚げの樂みには、その辺りも含まれると云つていい。

 塩、粉山椒、七味唐辛子。

 醤油、マヨネィーズ。

 そのままは勿論、お好みで味を調へるのもいいでせう。私の場合、最初のひとつは何もつけない。後は気分…何を呑んでゐるか、その日の気温や湿気、風の吹き具合…で、その場にある調味料を使ふ。一ばん好もしく思へるのは、粉山椒なんだけれど、置いてある店が少くてねえ。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏の好みに、適はないのだらうか。

 

 壜麦酒と小さなコップ。

 その横に唐揚げのお皿。

 酒席に欠かせない要素が綺麗に揃ふ様は、一篇の詩のやうにも映る。ポテトサラドも慾しいと思はなくはないが、それは詩歌の纏ふレトリックだと思へば、無くたつて不満にはならない。唐揚げと壜麦酒の組合せは、ポテトサラド・レトリックを纏はなくても、ひとつの世界を成り立たせてゐる。

 序でながら、マーケット・唐揚げと罐麦酒なら、平日午后の晴れた公園にしつくりくる。山梨県立美術館に併設されてゐる広い公園(季節に恵まれれば、富士の御山を遠くに眺められる。遠くない将來、足を運んで、お針子とデートしたいものだ)で、何度か試してゐるから、間違ひありません。

 熱い塊を頬張り、火傷しさうなのを、壜乃至罐麦酒で鎮めると、おれは今、唐揚げを喰つてゐると實感出來るし、少々野蛮な自分の気分を味はへるのもいい。さういふ樂みもある唐揚げを、ここ暫く食べてゐないのは、我ながら怠慢と云ふ他にない。