閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

1230 おにぎりをねだる

 おむすびより、おにぎりと呼ぶ方が、手にした感じがつよいと思ふのは、習慣ゆゑなので、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏にはその辺り、ひとつ、アレしてもらひたい。

 一ばん古い記憶に残つてゐるのは、祖母が作つてくれた、俵型の小さなおにぎり。五つか六つ、纏めて作れる押し型を使ひ、味つけ海苔を巻いていた。煮魚や玉子焼、お味噌汁が一緒だつた。美味しかつた。祖母はもう何年も前、西方浄土へ往つてしまつたが、私もあちらへ行けるのなら、先づあのおにぎりを、ねだりたいと思つてゐる。

 

 マーケットやコンビニエンスストアで賣られ、或は専門を謳ふお店が珍しくなくなつて、どれくらゐが経つたか、おにぎり史には疎いから、そこはよく判らない。とは云へ店頭に旨さうなのも、さうでもなささうなのも、様々に出て、叉姿を消すところを見ると、令和の現代では、賣り叉贖ふのが、おにぎりの当り前になつてゐるらしい。

 私も贖ふ。尤も変り種には殆ど手を出さない。鯖や海老や叉焼のマヨネィーズ和へや、或はバターコーンとか、卵黄とか、味噌かつとか、たれが贖ひ食べるのだらうと思ふ。私が撰ぶのは、梅、鮭、昆布の佃煮、おかか辺りが精々で(気紛れにお赤飯を撰ばなくもない)、一つか二つ買つて、鹿尾菜にお味噌汁があれば(もつと無精を決めるなら、即席麺の類でも)、勘弁な食事代りになる。何なら小腹が空いた時にひとつ摘めば、虫抑へにもなつて、中々に具合が宜しい。

 とは云へ、そのマーケット・おにぎりが旨いかと訊かれたら、首を傾げてしまふ。おにぎりの目的は簡便安直にこそあるのだ、と見立てるのは、誤りではないにしても、同じなら旨い方が喜ばしいことは、念を押すまでもない。

 

 ぢやあ旨いおにぎりはどんなのを指すのだ。

 さういふ疑念が浮ぶのは当然で、明快な定義があるとは思 ない。敢て云ふなら、祖母ちやんが私の為に作つてくれたやうなおにぎりなのだが、これは私にとつてであり、且つ思ひ出が大きく影響してゐるから、萬人の規範にはなるまい。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏だつて、同じやうな規範の筈で、この隙間は埋らない。

 なので前段に就てはひとつ、アレとして、酒席にも少し目を向ける。呑み屋でおにぎりを食べるかね、と疑義を呈するひともゐさうだが、私は喜ぶくちに属する。既に看板は下ろし、迷惑は掛かるまいから名前を出すと、大坂天神橋筋にあつた、[たこ梅]で偶さか出たおにぎりは實に旨かつた。塩だけ。その加減や力の加へ方が巧かつたのだ、きつと。

 もう一軒、こつちは今もあるお店だから名前を伏せるが、東京中野の某立呑屋で出す混ぜごはんのおにぎりも旨い。魚のあらで取つた出汁で、根菜を炊いて混ぜ込むのだ、まづくなる方が寧ろ、不思議ではなからうか。[たこ梅]のは〆に似合ひだつたが、こつちは味つけも心得たもので、詰り肴になる。最初は呑みながら、味を調へたにちがひない。

 考へてみれば、お寿司でお酒は呑める。早鮓は勿論、鯵や鱒の押し寿司も、おにぎりの(遠い)親戚みたいな立場なんだもの、菜めしや炊き込みごはんのおにぎりで呑めない理由は見当らない。今からでも遅くないから、おにぎりとお酒の組合せを試すのは、愉快にちがひない。

 

 そこに気づくのが遅れたのは、私の中に、おにぎりとお祖母ちやんが抜き難く結びついてゐるからである。祖母は奈良漬けの匂ひで醉ふくらゐ、酒精を受けつけない体質のひとだつた。西方浄土の祖母に逢ふ機會に恵まれ、おにぎりをねだつたら、鰈の煮つけにお味噌汁を添へてくれるだらうし、私もころころ喜ぶのは、疑念の余地がない。