さう云へば、ミノルタのカメラには、とんと縁がない。
ライツ・ミノルタ銘のCLが、殆ど唯一の例外で、コシナのカラースコパー(ねぢマウントのやつ)を附け、短期間使つた。短期間に終つたのは、造りが余りに安つぽく、直ぐ飽きてしまつた所為である。もしかすると他にも何機種か、手にしたかも知れないけれど、記憶に残つてゐないのだから、数に入らない。
そのミノルタを思ひだしたのは、偶さか『ガメラ 大怪獣空中決戦』を観たからで、少し説明が要るでせう。この映画で中山忍が演じた長峰女史が、序盤に怪獸ギャオスを撮影したのが、ミノルタだつたんです。具体的にはα-9xi…当時のフラグシップ機。女性が持つのはをかしくないか、と云ひたくなるが、長峰さんは鳥類學者だから、超高速シャッターを切れるα-9xiを手にしても、不自然ではない。だつたらキヤノンのEOS1N RSの方が、と思つて確めると、キヤノンの發賣は映画公開と同年だつた。すりやあ無理な話であつた。
思ひだした。私が初めて贖つたのは、EOS1000 QDで、その時最後まで候補に残つたのがα-3xiだつた。最終的にキヤノンを撰んだのは、友人が先にキヤノンを使つてゐたからといふ理由。まことに主体性のない態度だなあ。
まあ正直なところ、その頃のミノルタは、迷走気味だつたと思ふ。挙動の自動化を極端に推し進めてゐて、アイスタートだとか、オートスタンバイ・ズームだとか、カタカナ言葉をずらずら並べたて(同じ時期、ペンタックスも似た路線に進み、矢張り訳の判らない状態に陥つてゐましたねえ)、私より上の世代から、猛烈な反發をくらつてゐた記憶がある。その所為だらう、ミノルタはxiの後の707siで、クラッシックなスタイルへの回帰を計つたんだが…冩眞機史は私の手に余る。踏み込むのは控へ、α-9xi近辺の話に戻りませうか。
xiのフラグシップが登場したのは平成四年。同年のカメラは面白くつて、キヤノンから視線入力を謳つたEOS5が、ニコンからは水中でのオートフォーカスを實現さしたニコノスRSが出てゐる。どちらも世界初。銀塩の一眼レフにまだ、進歩の余地があると信じられてゐた、或は實際に進歩の余地が残つてゐた時代で、α-9xiが例外である道理はなく、それが偶々、自動化の徹底といふ間違つた方向に進んでしまつた。今にして思へば、あれを先づコンパクトカメラに載せ、洗練さしてから一眼レフに採用してゐたら、(技術的な)勢力図は多少なり、変化してゐたんではないかとも思ふ
更にガメラまで戻ると、長峰さんがα-9xiを使ふのは、冒頭に書いた序盤に限られる。ギャオスの撮影は、外附けのフラッシュを使つてゐて、その時に"あの鳥(とその時点では考へられてゐた)は、光に弱い"と判明するのだ。その撮影はヘリコプターに乗つての、薄暮の時間帯だつた。従つて彼女の相棒が、超高速シャッターを使へるミノルタなのは勿論、フラッシュを用ゐたのも、理窟が通つてゐる。ライツ・ミノルタでは、かうはゆかなかつた。
裏事情を考へれば、小道具にミノルタが協力してゐたのだから、α-9xiが撰ばれたに違ひないんだが、その小道具を使ふ場面に説得力を持たせたのだ。大したものぢやあないか。大したもの序でに思ひだしたことを書くと、たれの本だつたか、α-9xiを使ふ際、サブとして、"同じ機種を用意するのが本來だけれど、似て少しちがふ機種の方が、気分が変る"といふ理由で、(わざわざ)(一世代前の)α-8700iを用意したくだりがあつた。その頃は惡い意味で無邪気だつたから、えらく感心した。中山忍…ではなく、長峰女史が二台のミノルタを持たなかつたのは、演出として意味がなかつたからだらう。
ここまで書けば、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏はきつと、丸太はミノルタを慾しがつてゐるのだな、と考へるにちがひない。御説御尤も。併し話はさう簡単ではない。ミノルタはコニカとカメラ事業で合併してコニカミノルタとなり、そのコニカミノルタも僅かな年数で、ソニーに事業を譲つた。ソニーは当初、ミノルタ/コニカミノルタのAマウントを引き継いだが、いつの間にか、終らせてしまつた。そして私は、ソニー銘のカメラを好まない。
好まない事情が、機能性能の話でないのは、念を押すまでもないでせう。ことにAマウントから、獨自のEマウントに移してから(この時、所謂フルサイズと、APSフォーマットを兼ねさせたのは、ソニーの慧眼だつた)の機種は、私なんぞには持ち重りくらゐ贅沢な機能と性能を備へてゐる。
併しどうもNEX(といふEマウントAPSの機種群があつたのだ)の中頃以降から顕著となつた、板つきれに握り手を附けた(だけの)スタイリングが、気に喰はないんである。一聯のサイバーショットは、惡くなかつたのになあ。序でにAマウントではない機種に、αを冠したことも気に喰はない。更に云ふなら、ミノルタのロッコールや、コニカのヘキサノン/ヘキサーを無視してゐることも。
それはふるいオーソドックスに、好みが冒されてゐるからだ。さう咜られる可能性は十分にある。實際、Eマウントαは賣れてゐるさうだから、あのスタイリングも含めて、受け容れられてゐると考へるのが、妥当な態度である。
だからと云つて、それがEマウントαに対する物慾の下顎を擽るかと訊かれたら、それは別問題ですと応じざるを得ない。詰り仮にミノルタを慾するなら、銀塩機から撰ばなくてはならないことになる。冒頭に挙げたCLや、後継のCLE(因みに云ふと、ライカ以外で唯一のMマウント機)や、一眼レフのXにSRもあるけれど、矢張りαの系譜が好もしい。
αには、番號の階層があつた。7が中核。5/3とグレードが下がり、フラグシップには9が割り当てられ…ところでその9系は、最初のα-9000、最後のα-9、そしてα-9xiの三機種しかない。半ランク落ちる8系を含めても五機種。α銘の数を考へれば、随分と少くて、ミノルタはフラグシップを余程に重く視てゐたのだと想像出來る。であれば、仮にミノルタを慾するとして、αの系譜、それも9の系列を撰ぶのが、敬意を示す(今さらではあるけれど)態度だらう。
さてその9系三機種から撰ぶとすれば、矢張りα-9xiになりさうな気がする。
初代は使へる個体が少さうだといふ現實的な理由で除外。
最終機は思ひ入れを感じないといふ抽象的な理由で除外。
対してα-9xiは、現實的な点で云へば、使ふのに問題のない個体の入手に困りさうではなく、ギャオスの撮影に成功してもゐる(CLでは疑念の余地なく無理だつたらう)のだから、優れたカメラぢやあないかといふ気分も上乗せ出來る。附け加へて云ふなら、α-9xiに二百ミリくらゐの望遠(ズーム)レンズと、外附けのフラッシュを用意すれば、私だつて怪獸を冩せさうだと勘違ひ出來る。莫迦ばかしいと笑ふひとの方が、きつと多いに決つてゐるが、これまで縁のうすい銘の、銀塩でそれも電子制禦のカメラを、更に今から手に入れると仮定した場合、さういふ気分の有無は、かなり大きな比重を占めるのではなからうか。
ああ、念の為に云ふと、α-9xiで長峰女史が撮影したのはギャオスだけで、ガメラは(その姿を茫然と)見つめるだけだつた。だからこの稿の外題は些か、不正確である。