玉子焼きが好物なんです。
厚焼きであまくないやつ。
薄焼きもいい…ハムとレタース、輪切りのトマトとあはして、トーストのサンドウィッチに仕立てたらうまい。
炒り卵やスクランブルド・エグスも、遠縁の筋になるか知ら。ぱらぱらも、とろとろも、私の頤を解かしめる。
念の為に云ふと、オムレツの話ではありませんよ。あの西洋料理が美味しいのはよく知つてゐるけれど、厚焼き玉子とは異なつてゐるでせう。
なにがちがふのか、と詰め寄られたら
バタでやはらかく丸めたのがオムレツ
くるくる巻いて出來るのが厚焼き玉子
なのですと応じたい。料理の場に立つひとが聞いたら、目を剥く可能性は高いけれど、私の印象ではさうなんだから、詰りこの稿の主役は、厚焼き玉子なんである。
固めが好もしい。ほら、時に絹漉しのお豆腐のやうに、ふはふはした仕立てがあるでせう。その技倆は認めつつ、お箸の使ひ方が致命的にへたな私には、扱ひ辛い。こまる。寧ろ少し焦げたくらゐがいい。そこにお醤油をつんと垂らせば、ごはんの素晴しい友が、姿を見せるではないか。ここに刻み揚げのお味噌汁と、野沢菜漬けがあれば、文句はない。
それだけではなく、たつぷりの大根おろし、それから薑を添へれば、お酒の忠實なお供に早変りする。この場合、しらす、葱か韮を刻んだのを混ぜこんだ玉子焼きなら、きつと私は小躍りして、お銚子のお代りを所望する。隣に螢烏賊の小皿…沖漬けでも、焙つたのでも…が鎮座してゐれば、まつたき夜と宿醉ひは、約束されたやうなものだ。
食卓と酒席の双方を、融通無碍に往き來する、数少い玉子料理こそ、厚焼き玉子である…と私は確信してゐる。尤もその作り方が、いつ頃確立したかは、調べてゐない。
池波正太郎の鬼平ものだと、火盗改メの御頭目が、韮入りの玉子焼きで朝めしをしたためてゐる。厚焼きかどうかは措いて、遅くても十八世紀半ば頃には、玉子焼きと呼ばれる料理は出來てゐたと想像していい。あの時代小説家が、その辺の考證を蔑ろにしたとは思へない。
であれば、玉子焼きには、平藏の時代から現在、短くてもざつと二百数十年の歴史があることになり、これは家康の開府から、慶喜による大政奉還までの期間と、ほぼ一致する。かうして俯瞰すると、思つてゐたより古い。
ここであはてて云ふ。我われの御先祖は、鶏卵に深馴染みではなかつた。鶏の格は近世までひくかつたもの。それに佛教が厭ふ殺生に、血を穢レとする神道的な感覚が、色濃かつた時代でもある。歴代の上様が、五鐡の軍鶏鍋に舌鼓を打つ機會は、絶無だつたと思つていい。
上の事情にあはせ、衛生の管理や保管、流通の面倒まで想像すれば、養鶏業の成り立つ余地は無かつたと考へられる。さうなると、令和の現在との物価の比較に、大した意味もなからうが、玉子がたいへんに高価だつたと推測して、間違ひにはなるまい…かう考へを進めると、我が厚焼き玉子は、随分と贅沢な食べものと理解出來る。
卵は二つ…(いや矢つ張り)三つは、慾しい。
下味はうつすらの塩。
胡椒は振らなくても、かまひません。
上に書いた通り、固め…薄焼き玉子を巻き、叉折り畳むやうに、焼いてもらへれば、なほ嬉しい。
焼き上つたら、お菓子賣場の一口羊羹みたいに切り分けてお皿に乗せれば、後はごはんの友でも、お酒のお供でも、勝手自在。頬を綻ばせて、食卓酒席を満喫するたけである。
さうだ。ことの序でに、書いておきたいことがある。厚焼き玉子を乗せるお皿は、ごはんの時は白やベージュといつた明るいいろ、お酒の夜は黑つぽいのが似合ふ。気分のちがひと云はれたら、それまでなんだらうが、色彩に関はる心理學的な要素がありさうにも思はれる。今夜は黑いお皿に乗せた厚焼き玉子で、一ぱい呑りながら、考へを巡らせませうか。