陽が高くなり、風が涼やかになると、苦瓜のちやんぷるーが恋しくなる。玉葱と人参ともやしとポーク・ランチョンミートが入つたやつ。厚く切つた苦瓜と一緒に嚙み、オリオンビールを呑んだら、兎にも角にも、気分がいい。安上りと云へば、安上りな幸せだと思ふ。
併し残念なことに、東都で食べる苦瓜のちやんぷるーは、大してうまくない。沖縄料理を謳ふお店ですら、まづいとまでは云はないにせよ、何だか物足りなくてこまる。理由は幾つか想像出來て
第一に、育つ條件のちがひなのか、苦瓜が"(苦)瓜"くらゐの味はひである。
第二には、その苦瓜を、苦みを抑へる為か、胡瓜のやうに薄く切つてゐる。
第三は、玉子の使ひ方がけちくさひ。
更に味つけがどうにもぼやけてゐる。
これだけ揃つた一皿を、はいお待ち遠さまと出されたら、残念に感じるのも、無理はない。醤油をひと垂し、したくもなつてくる。私が徘徊する呑み屋町は、沖縄に地縁のあるお店が多い筈なのに、不思議だなあ。
尤も實のところ、理由は他にもありさうな気はしてゐる。ある土地の酒精と摘みは、その土地の風土…太陽の照り映えに風の吹き方や湿り気、暖かさや寒さ、農畜海産物に根差すでせう。苦瓜のちやんぷるーが例外になる道理は無い。
さう思ふのは、苦瓜のちやんぷるーの地元である沖縄で食べた時は、どのお店の一皿も旨かつた。といふ経験乃至記憶の所為である。
分厚く切られた苦瓜は、矢張り分厚い刃物のやうな苦みが好もしく、ポーク・ランチョンミートの脂と、明瞭な塩胡椒が嚙みあひ、島豆腐と玉子と車麩が、くどくなりさうなのを巧みに受けとめてゐた。詰りちやんぷるー。それを頬張り、かるいオリオンを呑むのは、何とも幸せな気分だつた。
すりやあ沖縄料理だもの、その場で食べて、幸せな気分になるのも、当然ですよう。
かう云はれたら、確かにその通りである。但しその通りとは思ひつつ、たとへば北陸、たとへば東北の料理を東都で食べた時に、苦瓜のちやんぷるーの場合のやうな感想を抱くか知ら。穫つて獲つて釣つて捥いで、その場で食べないと、であれば兎も角、金沢や仙台の炒めもので、そんな風に感じられるかは、どうも疑はしい。
何故かと考へるに、苦瓜や島豆腐や車麩、何よりちやんぷるーといふ調理法、味つけが、内地…沖縄人に云はせると、沖縄域以北の日本を指すらしい…にはまつたく、馴染んでゐないからではないか。
良し惡しの話をする積りでない。それはあすこの風土や気候が産んだ嗜好の結果であつて、北海道のジンギスカン料理も、羊肉に馴染まない(下準備をちやんとしてゐれば、旨いんだけれど)内地…北海道人に云はせると、本州以南の日本を指すらしい…では、中々お目に掛らないのと、軌を一にしてゐる。羊肉の話ではなかつた。
沖縄といふ土地、気候や風土と強く結びつき、沖縄人の舌に馴染みきつた味なら、内地…沖縄から見ても、北海道から見ても…で註文した一皿に満足を感じなかつたところで(内地の沖縄料理屋には失礼ながら)、奇妙とは云へない。
ここまで書いて不意に、一ヶ月くらゐ掛けて、東都から小田原で蒲鉾、浜松で餃子、名古屋で味噌かつ、岡山でばら寿司、広島で牡蠣、博多でラーメン、熊本で馬刺し、鹿児島で豚骨、奄美で油素麺と(念の為に云ふと、呑むのは大前提である)、ロードムービーのやうに食べながら南下し、陽が高く、風が涼やかな那覇かコザで、苦瓜のちやんぷるーとオリオンビールで〆る旅に出たいものだと思つた。
〆た後は、島辣韮を摘みに残波の水割りで、旅を振り返る時間を持てば、安上りと云へば、安上りな幸せも、極まれりと云ふものではないか。