どこで目にした…讀んだのか、忘れてしまつた。贅沢に飽きた殿上人が、游びに出た際
「何か珍しい食べものはないか」
と所望をした。するとひとりの下人が、清水で洗つたごはんを、笹の葉にのせて供したさうで、それを見た殿上人はひどく歓んで、褒美を与へたといふ。源氏の風流がどうかうだつたと思ふが、詳しいことは忘れてた。見た目は涼しげだけれど、うまくはなささうな、と感じたのは覚えてゐる。殿上人も涼やかさは褒めながらも、味はふまでは到らなかつたんぢやあなからうか。
ごはんを汁気又は水気で供した例、といふか逸話の時系列で、私が知る一ばん古いのが上の話。それで何の話をしたいのかと云へば、今回はお茶漬けである。
いつ頃、成り立つたものか。
判らう筈は、ありませんな。
お茶が日本に來る前から、水なりお湯なり、何かしらの汁ものなりを、ごはんに打ち掛ける食べ方があつたのは間違ひない。寧ろお茶漬けは、その延長にあるのではなからうか。
日本へのお茶の傳來はふるい。入唐留學僧や遣唐使が持ち帰つたと云はれるから、大体八世紀か九世紀頃には、限られた上流階級が
「お茶といふ植物から得られる飲みもの」
を知つてゐたと思ふ。但し持ち帰られたのは、僅かな茶葉とその淹れ方だけらしく、たいへんに贅沢な飲みものだつたことは、容易に想像出來る。
我が國でお茶の栽培が始つたのは、時代が下つて十二世紀末くらゐ。下層民まで当り前にお茶を喫むに到つたのは、更に下つて十七世紀から十八世紀にかけて。まことに緩かだなあ。その理由は幾つか、浮ぶけれど、この稿では触れない。
話を戻しつつ、進めますよ。
織田信長は湯漬けを好んだといふ。みやこの厭みな料理人との逸話でも判るとほり、美食愛ゆゑとは思へない。
「手早く、腹が膨れて、具合がええわい」
と考へたのだらう。殺風景な男である。
同時代、汁かけごはんを好んだのは、北条氏政。親父の氏康から、一碗のめしに何度も汁を掛けたのを
「目分量も出來んのか」
咜られたか、嘆息されたかで有名である。後北条氏は確かに氏政の代で事実上、滅んだから、氏康の嘆きは先見の明と云ひたくなるが、日の出の勢ひの秀吉が相手では、先代が当主でも、勝ちみは無かつたらう。
その氏政が好んだ汁かけごはんが、どんなだつたかは、よく判らない。相模を領してゐたから、海産物には恵まれた筈と思へば、魚介の出汁で堪能したとも想像出來る。小田原辺りで、"北条名物"とか銘打つて、賣り出せばいいのに。企劃はあつたけれど、縁起が惡いと却下されたのか知ら。
要するに戰國末期、汁かけごはん(お湯でも出汁でも)は既にあつた。芋がらに味噌を染ませ、陣笠にお湯を注いで食すといふ、現代の即席味噌汁に繋がりさうな食べもの…陣中の簡便食…もあり、糒があれば、味噌汁かけごはんにもなる。
「めしに汁を掛ければ、(一応にしても)食事は成り立つ」
殺伐と云へば殺伐で、平和を希む臆病な男(私のことですからね、念の為)としては、ぞつとしない情景なのだが、信長や氏政の時代から四百年近く過ると、事情は異つてくる。
『江戸の食空間』(大久保洋子/講談社学術文庫)に、十九世紀初頭の『寛天見聞記』から、八百善の逸話を紹介した箇所がある。閑文字式の現代語で抄訳しますよ。
或る男が、酒も呑み飽きたと、春の某日、仲間を打ち聯れて八百善に行き、上等の茶漬けを所望したさうだ。
そこで半日計り待たされ、刻み古漬けに醤油をかけたの、瓜茄子の粕漬けと煎茶で茶漬けをしたためたところ、一両二分の勘定になつたといふ。流石に驚いて
「時節には珍しい香の物とは云へ、高かあないか」
不満顔で訊いたところ
「茶葉に適ふ水が近くにありませんでしたもので、水汲みに早飛脚を玉川まで走らしました」
と返事されたといふ。
注意書きのやうに云ふと、八百善は浅草に店を構へてゐたから、玉川まではかなりの距離がある。それを料理屋の生眞面目や誇りと見ればいいのか、俗臭と厭みを感じればいいのかは措いて、半日も待たされ、おそらくはそんならと納得して、一両二分を払つただらう客も客ではある。
併しもつと大事なのは、殺伐とした戰場の簡便食が、粋な一碗まで出世してゐたことではないか。信長に同じ眞似をしたら、半刻も待たず、席を蹴立てたらうと思ふ。いやあの武将は、モダーン好みでもあつたから、それも叉可也と腰を据ゑたとも考へられなくはない。
その信長から秀吉辺りが、肩で風を切つた時代、大完成したのが茶道である。茶道にも懐石といふ食事があるのは、我が喰ひしん坊な讀者諸嬢諸氏には、御存知でせう。お茶の席で出す食べものなのだから、お茶漬けの源流は茶室にあるのではなからうか。さう思つて『料理のお手本』(辻嘉一/中公文庫)の頁を捲ると
「懐石にはお茶漬けというものがなく、その代りに湯斗というものがあります」
と書いてあつた。びつくりした。私の推測は、的外れだつたことになる。序でだから、辻が記した、湯斗の作り方の箇所を引いておきませうか。
「御飯を飯器にうつした後の釜底に、一面に薄く御飯を残しておき、この釜をごく弱火に二十分くらいかけて、御飯がほんのりキツネ色になったところに熱湯をさし、塩で薄味をつけたもの」
のことを云ふさうで、お茶の代りに出すのだといふ。この本は再讀三讀したのに、記憶からすつぽり抜け落ちてゐた。口がさつぱりして、快ささうだなあ。
同じ本では、お茶漬けの色々を紹介してくれてもゐる。焼き鮭を毟つたのと青紫蘇。煎つた揚げ玉と大葉。中でも鯛のお刺身を、擦り胡麻と山葵を混ぜた醤油に漬けてからごはんに乗せ、玉露茶を注ぎ、二分か三分蒸らしてから供する"鯛茶"は、筆の所為もあつて、まことに旨さうである。残念ながら、お茶漬け史に触れた箇所はないけれど、辻は料理人だからね、苦情を云ふのは筋がちがふ。
さて。話はここから、昭和の大料理人を経て、昭和生れの小父さん、即ち私に移る。卅台のある時期、友人たちとの酒席の最後を、お茶漬けで〆てゐたことがある。梅干しが多かつたと思ふ。散々呑んだのを、洗ひ流す気分だつたらしい。
尤も曖昧な記憶の棚を探ると、それは永谷園謹製のお茶漬け海苔に、梅干しをぽんと乗せただけの代物だつた。誤解をされてはこまるから、念を押すのだが、永谷園のお茶漬け海苔は私の好物である。何ならふりかけのやうにしても、うまいと思ふ。呑み屋の品書きには似合はないだけで。序でながら今は、"お酒の後の〆"自体の習慣がなくなつてゐる。
前記『料理のお手本』にも、梅茶漬けは紹介されてゐる。下拵へがちよいと凝つてゐて、裏漉しした梅肉と、削り節をさらに砕いた揉み鰹を同じだけ混ぜ、お酒でのばす。辻曰く
「常備しておけば、重宝です」
成る程。ごはんにその梅鰹を塗り、細切りの海苔をたつぷり乗せ、塩で調味するさうで、洒落てゐるなあ。宿醉ひの朝におすすめしたい、ともある。食べたくなつてから、用意するのは、面倒だけれど、この梅鰹に塩昆布があれば、冷めしでもどうにかなりさうである。
さう云へば、矢張り尊敬する吉田健一の随筆に、新橋茶漬け、といふ食べものが出てゐたのを思ひだした。山葵をあしらひ、出汁で食べる鯛茶漬けに思はれる。辻留式とはすこしちがふ仕立てだが、お酒と焼き鳥を平らげ、この新橋茶漬けをやつつけたら、梅鰹の常備がなくても、宿醉ひの心配はせずによからうと思はれる。
そこまで凝らなくても、白菜や胡瓜の淺漬け、或は野沢菜漬け、梅酢のたくわん("沢庵"でないのは、尊敬する内田百閒の眞似)があつたら、私としては満足出來る。お茶碗にごはん粒を残さず、口の中をすつきりさせ、御馳走さまを云ふのに(両の手は勿論、あはせますよ)、丁度よろしい。
ところで。贅沢を云ふ積りではないんだが、五勺くらゐのお猪口にお漬けもので、ほんの一口、お茶漬けを食べさしてくれる呑み屋が、近所に見当たらない。まつたく残念なことで、こんなことを云つたら
「笹に洗ひごはんほど、風流ぢやあ、ありませんねえ」
などと、大将に苦笑ひされるだらうか。