閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

1257 便利の前の不便

 大根おろしは、便利でよろしい。

 天麩羅や玉子焼き、焼き魚の脇を支へるやうに、つんもり盛られてゐると、何とも嬉しくなる。とは云へ、大根(に限らず、山葵や生姜も)をすりおろして食べるのは、我が國獨特の技法らしい。あの中華料理でも採用されてゐないのは意外だが、もしかすると

 「試したけれど、口に適はなかつた」

のかも知れない。大根を栽培出來る地域が、どの程度に広いものか、それは措くとして、日本以外のあの野菜を育て食べる土地で、すりおろす方法を持たない、或は失くしてしまつたのは、大根おろし好きとしては不思議に思ふ。

 

 丸谷才一の随筆のどこかに、ある作家のゴシップが書いてある。毎夜の寝酒に摘むのが、丼一杯の大根おろし。作家氏は夜中、冷藏庫にしまはれてゐる焼き鮭の残りや、しらす干し、ハムの切れ端なぞを、その丼へはふり込んで掻き回し、更に醤油をひと廻し。ナイトキャップを樂むのだといふ。それくらゐなら、ああ成る程で済むんだが、大根おろしを用意するのが奥方で、然もその奥方がピアニストなら、事情はちよいと、異つてきさうでもある。令和の今ならジェンダーがどうかう、詰らない云ひ掛りをつけるひと(大体は嬉しさうな顔つきで)が、出るだらうな。

 

 変な方向に進まうとしてゐるのではない。

 この稿では、大根おろしを褒めたいのだ。

 

 和食に添へて嬉しいのは、冒頭のとほり(他にも生揚げやとんかつを追加したくなる)だし、洋食…ハンバーグやミンチカツに、添へるのもいい。

 もつといいのは、上のゴシップの作家氏のやうに、何でも入れてしまへ、と乱暴な眞似をしても、うまいことで、この辺り、器の広さ深さは實に大したものである。

 更に云へば大根おろしは、温かいの(みぞれ煮を思ひうかべ玉へ)も旨い。甘辛く濃く煮詰めた鶏そぼろと茄子と舞茸を混ぜこめば、"ゴシップ氏流寄せ鍋風温大根おろし"の完成も、無理ではない。丼…深いお皿にどつさり乗せたのを匙で掬へば…ナイトキャップより、寧ろお摘み向けか。

 

 ごちや混ぜにしなくたつて、壜詰の鮭やなめこを混ぜこんだ大根おろしなら、そのままごはんに打掛けるだけで、もう十分にうまい。

 「大根おろしを、ごはんに掛けますかね」

疑念の聲が聞こえなくないが、厚焼き玉子のひと切れに、大根おろしをどんと乗せ、醤油を垂らしたのを、ごはんに乗せて食べるのは、当り前でせう。その大根おろしが、どんではなく、どつさりになるだけで、これは云つてしまへば、汁かけごはんの派生形である。不思議でも何でもない。

 

 大根おろしがえらいのは、さうやつてごはんのお供にした後の余りに、酢のもののお酢、赤身の漬けの残り、天麩羅の欠片なんぞを入れれば、速やかに肴へと変るところにある。

念押しで云ふふのだが、私がお酒を樂むのは、食事をひと通り、済ましてからが基本である。大根おろしを用ゐるのが、食卓の残りもの余りものをさらへる為でないのは当然だが、手間を省ける一面があるのは、認めておかう。

 

 とは云ふものの。手間が省けて旨いなら、旨い方が重要なのは、当然でもある。極端を承知して云へば、大根おろしに醤油を垂らせば、肴として完成はする。そこから先に進むかどうかは、より旨い方向…手間をどこまで許容範囲にするかで、考へ方は変つてくるから、これ以上は踏み込まない。

 

 但し。どちらにしても、大根おろしは断然、たつぷりであつてもらひたい。申し訳程度の大根おろしほど、興醒めするお皿の風景もないでせう。さう考へると、ゴシップ氏に毎夜供された丼一杯とは、ごはんのお供とお酒の友を兼ねさせるのに、適当な量と云へないだらうか。私なら先づ、他のおかずに乗せ、ごはんを平らげ、おもむろにあれやこれや、少しづつ混ぜながら、盃をゆつくり重ねたい。

 

 残るのは、その丼一杯の大根おろしを、たれがおろすのかといふ問題。そこらの呑み屋や定食屋で

 「大根おろしを、丼で、ひとつ」

と註文したところで(普段からよほど、いいお客だつたら、事情はちがふだらうけれど)、通るとは思へない。詰るところ、自分でおろさなくてはならず、それはどうにも面倒だなあといふ気分が、先に立つてしまふ。大根おろしの便利は、おろしてあるから便利なのだ。

 詰りその便利の前の不便から逃れるには、大根をおろすのに抵抗のない女流ピアニストと結婚するか、電動自動大根おろし機を贖ふか、チューブ入りを常備するかの三者択一が迫られ…不毛な上、すべてのピアニストにまつたく、失礼な話におちてしまつた。