閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

1258 胸痛碌(−1)胸の痛む話

 憂歌団に『胸が痛い』といふ唄がある。片想ひの唄。片想ひの切なさは、それ自体が時に、甘美と感じられるから、さういふ胸の痛みに、快さ…と呼ぶしかない、何らかの感情…が含まれても、不思議ではない。併し譬喩ではなく胸が痛むのは、話がまつたくちがふ。色々とたいへんだつた。片想ひの甘美には、丸で縁は無いが、書いてゆかうと思ふ。

 

 某日の夜中、肋の眞ん中辺り、硬い護謨のやうな塊が、体の内側に潜り落ち、捻ぢ込まれるやうな痛みに突然、苛まれ、のたうつたのだ。習慣で鳴らしてゐたラヂオの音聲で、十分余り過ぎたかと(辛うじて)思つてゐると、痛みはすうと姿を消し、そのまま眠ることが出來た。

 と思つたら、翌早朝、同じやうな痛みで叉目が覚めた。矢張り十分かそこらで落ち着いたので、さてと考へた。かういふ痛み…うんと小規模な違和感が、これまでなかつたわけではない。とは云へ二度も、眠りを覚まさす痛みは初めてである。不安になつた。調べてみたら #7119 の番號で、相談を受け付けてゐると判つた。

 

 電話口の女性は、こつちの話をたいへん丁寧に聞きとり

 「症状が繰り返し、起きてゐるのですね。安静が大切と思ふですから、119にお繋ぎしませうか」

と提案してくれた。本來ならお願ひしますと云ふべきだつたのに、その場ではもごもご、誤魔化してしまつた。話してゐたその場では、症状が落ち着いたと勘違ひし、119に繋がれるのを耻づかしく思つたらしい。

 「それぢやあ無理には繋ぎませんが、苦しいと思つたら、躊躇しないで、119に聯絡してくださいね」

實に親切な言葉遣ひに、少し安心した。

 今だから云ふと、その安心とやらは、大まちがひである。くだんの女性は、聲の調子からも、医療の現場にゐるひとであり、この朝が偶々、#7119 の当番なのだと判つた。詰り 119に繋ぎませうとは、プロフェッショナルの助言。一体私はプロの助言を、素直に受けとるのに、この時に限つて、我が身の耻づかしさを先立たせた。阿房としか云へない。

 

 数時間後。それから間歇的に起きた、二度の發作的な痛みを堪へかね、結局 119 に電話をした。落ち着きを感じた間に、保険証や鍵、タオルや下着を、ざつと纏めておいたのだけは、ましな対処だつたと思ふ。

 救急隊のひとは、十分も経たずに來てくれた筈だが、はつきりしない。それまでより大きな痛みの塊の所為で、感じた時間はもつと長かつた。隊員諸氏の責でないのは、当然のことである。

 

 玄関口まで辛うじて這ひ出てゐた私を、引つ張り出して、かるがる車椅子(だと思ふ)に乗せ、叉固定してから、名前や生年月日、今日の日附けを確めてきた。バイタルがどうかう云ふのが聞こえた。意識のチェックかとぼんやり考へた。曖昧なままストレッチャーに乗せかへられ、救急車内のひとになつた。この辺で痛みは、相応に穏やかになつたが、同乗の看護師さんから

 「不安をつよく感じてゐた所為でせう、過呼吸気味でしたよ。ゆつくり息を吐けば、すこし樂になりますからね」

さう云つてもらへて、たいへん安心した。詰り痛みが落ち着く方向に感じたのは

 (プロフェッショナルが、傍にゐてくれるからだ)

といふことである。繰り返される質問…おそらく意識を確認する目的で…に応へながら、さう思ひ、痛いのから逃げられるなら、何もかも投げ出し、任せてしまひたいとも思つた。

 

 某病院の救急処置室に運ばれた。

 救急隊のひとから、お医者さま…循環器内科のO医師が受け持つてくれるらしい…へ引き継ぎがされる中、心電図を取る為のコード(だと思ふ)が附けられた。痛み止めだらう点滴も附けられた。O医師は患部といふのか、かろく押して感じる痛みを確め、この段階での推測と念を押し

 「まづは肋間神経痛の可能性を考へてゐます」

採血の結果などを見ながら、判断していきますね。成る程、筋が通つてゐるし、聲の調子のやはらかさが、不安を削つてくれる。いいお医者さまだと思つた。

 

 レントゲンを撮り(処置室に持ち込めるサイズの機材があることを、初めて知つた)、血圧その他の数値の変化をチェックしてゐたO医師が、採血の結果を見て

 「血の様子がよくないですねえ」

と云つた。何の意味なのか、掴みかねてゐると、どうやら血管に問題があつて、このままだと

 「心臓が壊死する恐れも、あります」

さらつと怖い一言をつけ加へた。それから対処として

 

・先づ右手首に局所痲醉をする。

・そこからカテーテルをとほす。

・血管の状態を確認し、適宜の処置を講じる。

 

と順序立てて、説明してくれた。"適宜の処置"は血管の状態で変るが、大体はカテーテル経由で出來るから

 「処置が必要と判つたら、そのまま進めます。どちらにせよ、今日は帰れません。最短で一泊、或は一週間くらゐの入院になります」

判りました。こちらは要するに、痛みとその原因を、どこかにやつてもらへればいい。大坂の家と仕事場に現状の聯絡を入れさせてもらつた私は、ストレッチャー上のまま、処置室へ運ばれた。

 

 その処置が具体的にどうだつたかは、判らない。兎に角局所痲醉後のカテーテル挿入に、何とも云へない違和感…太い護謨棒を突きこまれたやうな…があつたのは、確かである。

 内側から血管を見たO医師が、説明してくれるには

 「心臓に血液を送る血管が三本あつて、その中の一本が詰つてゐます。その血管の詰りを拡げたいと思ひます」

原因が見え、対処法が判つた、の意味らしい。續けてもらつたのは、云ふまでもない。ちらちら目にした時計だと、検査から処置が終るまで、一時間か一時間半か、掛つたと思ふ。

 

 処置室からICU室に運ばれた。右手首にカテーテルを抜いた後の違和感…鈍痛があり、左手には点滴が刺さつてゐて、落ち着かないこと、甚だしかつたが、ひどい睡気もあつた。

 

・一通りの処置が終つたこと。

・お医者さまや看護師さんがゐる安心感。

・何より痛みがなくなつてゐる實際。

 

 この三つが重なり、疲労と緊張が溶けた所為と思ふ。ICU室に入つたのは、確か午后七時前。O医師からは、早くて数日程度の入院ですと云はれ…話を聞きながら、翌早朝まで、うつらうつら、或はぐつすり眠りこみまでした。その晩の担当だつたH看護師さんには、迷惑を掛けた。

 翌日の午前中、一般病棟に移り、数日かけて幾つかの検査を経た後、退院となつた。T看護師さんをはじめ、晝夜間の担当さんに、お世話になつた。右手首には今も、カテーテルを挿れた時に出來た内出血が、黑く残つてゐる。ね、色気も何も、あつたものぢやあない、そんな話だつたでせう。

 

 ここからは少し、余談を。

 私の病名はNSTEMI…非ST上昇型心筋梗塞。STが何を略してゐて、どんな意味なのか、よく判らない。心臓の動きに関係する値なのは確實で、非の附かない、STが上昇する心筋梗塞も間違ひなくあるが、専門的な面には目を瞑る。

 対処を改めて纏めると、心臓周りの血管の一本に、ステント…血管を拡げる筒…が入つた。O医師いはく、ステントは異物でもあり、塞がつたら非常に危険、ださうで、それくらゐは私も判る。予後の為に血栓予防の藥が処方された。

 藥の説明をしてくれたS藥剤師さんによると、血栓予防藥は要するに

 「血をさらさらにして、詰らせない」

ことが目的なので、一旦出血すると、止まりにくくなるなどの、副作用があり得るといふ。処方された全四種(血栓防止の他に、コレステロール及び高血圧対策)にはそれぞれ、副作用があ(り得)るけれど、どれもステントが詰つた挙げ句、心臓が動かなくなるより、ましといふものだ。

 後は定期的に検査を受け、藥の処方をもらひ、我が心臓と気長につき合ふことになる。どうしたつて停まる日は來るけれど、その日まで手入れをしない法はない。服藥以外の手入れとして、この先の(残り少い)人生から、煙草が姿を消す。こんな目にあつた後だし、O医師によると、煙草がトリガーだらうとのことだから、惜しいとは思はない。それに禁酒令は幸ひ、お医者さまから出されてゐない。

 ところで。提供された食事の一部が、上の画像。

 減塩メニューとのことだが、口に適ふ味つけだつた。麦酒が慾しくならなかつたのも、栄養士さん調理師さんの技倆と云つていい。