閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

1261 吉田のワンタン

 陋屋の近くに中華(風)居酒屋がある。

 お晝は定食やラーメンを食べさせる。

 決つたメニュ(酢豚定食や坦々麺)もあるけれど、定食は週替り、麺類は月替りで、色々と用意してもゐて、私はそちらを好む。

 とは云へ、暫く足が遠のいてもゐた。

 これはごく単純に、開店当初は七百円だつたのが、七百五十、八百五十を経て、一ぺんに千円まで辿り着いた所為。

 まあこの間、武漢發と覚しき感染症の大流行があり、更に原材料費や燃料費の高騰が重なれば

 「すりやあ、止む事を得んわなあ」

さうは思ふ。思ひはするが、足繁く通ひたい値段、とは云ひにくくなつた気分も、一方にはある。そこで

 (旨さうに思へる…ここには千円超でもかまはない、といふ意味も含まれる…、週替り月替りのメニュを目にしたら)

食べることにすればいいと考へた。我ながら、せせこましいと思はなくもないが、どうも呑まないお晝に、千円を超す値段は出し辛い。

 

 こつちのお財布事情も踏まへ、お店の前に出す、ランチメニュを注意深く見る。併し旨さうには思へても、千円を超すくらゐ旨さうとは思ひにくい。そこでは何度か、食べたことはあり、まづいものを出さないのは知つてゐるが、まづいものを出さないことと、千円超の値つけに得心出來るかどうかは、話がちがふ。意地の惡い云ひ方になるが

 「附けたアる値段分、うまアないと、こまるなあ」

などと考へてしまふ。満足を感じる閾値が、高くなると云つてもいい。慌てて念を押すと、別のお店の別のメニュの値つけでも、かういふ気分になることはある。

 さて某日。

 月替りの麺類には、"特製 肉ワンタン麺"とあつた。

 ただのワンタン麺ではない。

 肉入りワンタンではなく肉ワンタン。

 然も特製である。

 尊敬する吉田健一が、上等のワンタンに就て触れた一節があつた。しつかりした皮。はち切れさうに詰められた挽肉。熱い湯気の立ち上る器。一筆書きのやうな描冩だつたと記憶するが、ワンタン乃至雲呑の字を目にすると、何となく思ひだす。"特製 肉ワンタン麺"で、聯想しなかつた筈はない。

 

 暖簾をくぐつて、席に着きながら、"特製 肉ワンタン麺"をお願ひしますと云つた。細打ちか手揉みかを撰べる麺は、何となく手揉みにした。私以外にもお客が入つてゐるのは勿論で、何とか定食とか、何やら麺とか、何々炒飯とか、色々註文が出てゐる。繁昌してゐる様子は、まことに芽出度い。

 待つこと暫し。"私の、特製 肉ワンタン麺"が出來た。

 白髪葱。

 若布。

 鳴門巻…は、些か感心しなかつた。見た目も歯触りも適はないと思ふ。細切りの支那竹では、いけないのか知ら。

 先づソップを一口。

 續いて麺を一啜り。

 このお店獨特の、おつとりした味が好もしく、ソップと麺の相性もよろしい。

 さあそれでは、特製の肉ワンタン…一粒は肉団子くらゐの大きさ、それを薄手の皮を広々と使つて包んだのを囓る。熱い。当り前である。中華料理特有の調味料香が、鼻を擽るけれど、扱ひは控へめ。下拵へがしやんとして、ぼそぼそした感じはまつたくせず、詰り

 「附けたアる値段分、うまいやンか」

聲には出さず(他のお客の迷惑になるからね)、さう思つた。それから蓮華に乗せた麺とソップ、ワンタンに、酢や辣油を滴し、味の変化を確めてみた。酢はソップに、但し酢や辣油に頼らなくても、十分にうまいのは、改めるまでもない。

 主役である特製肉ワンタンが、四つか五つ、入つてゐたことは、まつたくのところ、感心した。麺料理は獨立した一品といふより、他の一品との組合せで成り立つ性格がつよいと思ふんだが、我が"特製 肉ワンタン麺"では、その特製肉ワンタンが、組合せられる何かの役を果してゐる。ソップまで残さず平らげて、御馳走さまを云つた。附けたアる値段より、美味かつた。所謂支那料理の雲呑とは異なるけれど、この味と量なら吉田健一だつて、悦ぶにちがひない。