退院してから、最初に困つたのは煙草だつた。
何しろざつと卅年、ほぼ毎日喫つてゐたもの。
一日十二本くらゐ。
閏年には目を瞑ると、年間四千三百八十本。
その卅年分だから十三万千四百本(一函廿本入りで六千五百七十箱相当)を煙にした計算になる。値段を計算するのは怖いから、そこは目を瞑るけれど、優等納税者聯中の末席くらゐ、与へてもらつても、と思はなくはない。
起き出して淹れた即席珈琲を喫みながら。
朝のトーストを食べた後。
晝めしの前後や、仕事の休憩時にも。
帰宅したら先づ、罐麦酒を引つかけつつ。
灰皿のある呑み屋で喫ふのは当然だつたし、休日なら何となく火を点けもして…詰り日乗のちよつとした動きに、喫煙が組み込まれてゐた。前回に書いたとほり、その煙草は既に止めてゐる。云つてしまへば、突然の禁煙終煙であつて、その結果、日乗のちよつとした動きの中、指が空振りをして戸惑はなければ、寧ろ不思議ではなからうか。
とは云つても、煙草を今から改めて贖ふのは考へられず、第一、主治医のO医師…[胸痛碌]ではここから、小沼先生と呼ばう…に申し開きが立たない。併し指が空振つて、苛立つのも事實である。申し開きは後で考へるとして、陋屋から近い順に、煙草を扱ふセブンイレブンかファミリーマートか100円ローソンに行かうかと、腰が浮きかけたことだつて、何度か(叉は何度も)あつた。ある。
「胸もと過れば痛み忘るる、かね」
「あれだけ酷い目にあつて、すりやあ情けない」
御尤も。ではあるけれどこれは、ニコチン依存から離れる時に出る症状なんです。それに腰は浮きかけても、買つてはゐない。所謂禁断症状に対しての我慢なのだから、褒めてもらつてよささうにも思ふ。
ただ私は正直な男だから白状すると、代用品の利用、或は減煙で(一時的にでも)対処出來ないものか、調べはした。
まあ後者に関しては全滅で、たとへば紙巻煙草を一日一本とか、煙を口の中に含むだけとか
「どうしたつて、無駄です」
「ガムをかむなり、お茶を喫むなり、しなさい」
当り前である。私が見たのは、医療関連の論文(機械翻訳を含めて)や、お医者さまの文章だもの、少量なら差支へなかるべし、なんて書いてある筈がない。素人が書いた、"ぼくはかうして禁煙に成功しました"とかいふ経験談では、段階を踏んで減らし、断煙に到つたなどとも目にするけれど、そんなの当てになるものか。それより、ドクターが
「減らすのなんか、意味ありませんからね。一日一本とかなんとか、あまいことを考へず、すつぱりお止めなさい」
ばつさり切り捨ててゐるのを讀んで、否応なしに喫ふのはいかんのだと納得させられる方が余つ程いい。
なので減煙は、改めて諦めた。
併し前者…代用品に関しては、悩ましかつた。中でもニコレス何やらいふ製品群は、"煙草葉を使つてゐない"といふ惹句で、こちらの下顎を擽つてきた。私の心筋梗塞のトリガーはニコチンだつた。であれば
「ニコチンを含まない、煙草"風"の何かなら、かまはんのでは、あるまいか」
「O医師…ではない、小沼先生から、煙草の禁令は出たけれど、ニコチンレス製品への、言及はなかつた」
我ながら、未練たらしく考へた。
製造會社は当然、健康へ惡影響は及ぼさないと主張してゐる。少くともニコチンによる影響に就ては、誤りとは云へまい。も少し調べると、入手が比較的容易なのは、使ひ捨て式のニコレスVAPEと、IQOS イルマiに対応するカプセルと呼べばいいのか、さういふのがあると判つた。取扱ひが多いのはファミリーマートだといふ。
リハビリテイションと買ひものを兼ねた散歩の序でに、ファミリーマートに立ち寄つて棚を見てみた。ニコレスVAPEといふ製品があつた。値段を見たら千四百円もして、びつくりした。びつくりはしたが、IQOS イルマiだと、一ばん廉価なモデルでも、四千円くらゐする。函を裏返すと
「蒸気を七百回くらゐ、吹かせます」
とある。七百といふ数字は、一応の目安らしいが、その数字が、常用してゐた紙巻煙草に換算して、どの程度にあたるものか、さつぱり判らない。だから千四百円が妥当…IQOS イルマiと比較して…なのか、さうでないのかも判らない。そもそも心筋梗塞後のからだに、使つていいのかどうか。
ざつと調べた限り、非ニコチン煙草の害毒に関する論文は見つからなかつた。但しそれは、吸ひこむ蒸気が安全といふ意味ではない。この辺りは近日中に診察の予約があるから、その時、小沼先生に訊いてみようと思ふ。勿論その場で
「駄目に決つてゐますよ」
切り捨てられる前提である。それならそれではつきり、諦められるだけのことで、私には何の支障も出ない。