閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

1266 安心した夜

 久し振りに近所の呑み屋へ、足を運んだ。

 外食自体は、そこまで久しいわけではなかつたが、外で呑むのは、何ヵ月振りくらゐだつたかと思ふ。

 入つてみると厨房のひとが、馴染んだ大将ではなかつた。ここはチェーン店のひとつだから、時と場合で別店舗からのヘルプが、厨房に立つことはある。そこはいいんだが、その日のひとを見るのは初めてで

 (ちよと、こまつたな)

と思つた。これは、こつちの我が儘から出た"こまつた"…焼き具合だの、客あしらひだのが、(私にとつて)好もしいかどうか判らない"こまつた"であつて、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏にも、そんな瞬間はきつとあるでせう。

 

 先づは、生麦酒-黒ラベル

 赤星もあるけれど、久し振りの外麦酒なんだから、生中が矢張り、トラッドといふものだ。併せて串焼きのおまかせ六本盛りを註文した。

 「今日ハ少シ、寒イデスネ」

焼きの用意をしながら、聲を掛けてくれた。發音がやや覚束ない。へえと思つた。それで厨房を任されてゐるのだから、大したものぢやあないか。焼きあがりを待つてゐたら、ホールを担当する顔馴染みのN澤さんが出勤してきた。御無沙汰ですねえと挨拶した。

 六本盛りが出た。

 全部、塩で仕立ててあつたから、少し驚いた。馴染みの大将は、塩三本たれ三本で焼くのが基本で、全部を塩乃至たれで焼いてもらひたければ、さう頼む必要があつたから。

 (申し送りがあつたとは思へないしなあ)

そもそも私は、そんな上客でもない。他のお客がゐない時、小さな我が儘を云へる程度、お金を遣つたとは思ふけれど、他のお客だつて、それくらゐのお金は遣つてゐるだらう。

 「貴方とは、初めてですよね」

 「ハイ。サウデスネ」

 「私が塩好みなのを、知つてはゐなかつたですよね」

 「たれと塩で焼くのはね」とN澤さんが言葉を挟んで「K林さん(大将のことである)式で、本当は塩だけが基本なの」

 さういふことなのね。納得した。囓つた。好みの焼き具合で嬉しくなつた。生中のお代りをした。かういふ場合のお代りは美味い。嬉しくなり序でに、鶏皮ぽん酢を追加した。

 その鶏皮ぽん酢、K林さん…大将の流儀と少し異なつてゐた。だから駄目なのではない。この店ではどうも、厨房を任すひとに、(ある程度)料り方の裁量を認めてゐるらしい。黙認の可能性もあるが、それで色々なちがひを樂めれば、こちらとしては有難いから、内側の事情には目を瞑る。

 生中が空になつたから、ハイボールを頼んだ。それで串盛りの残りと、鶏皮ぽん酢を平らげ、御勘定を済ました。これなら大将が不在の夜も、安心して顔を出せると思ひながら、ゆつくりゆつくり歩いた。醉ひも叉、ゆつくりゆつくり、お腹の底から立ち上つてきた。