閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

1267 不意の酢豚

 買ひもの帰り、詰り陋屋から歩いて行ける程度の近さに、中華料理屋がある。入口が道路から半段、下つたところにあつて、ちよいと入りにくい(入つたことはある)この日は偶さか、その入口ちかくにゐたお店のひとがこつちを見つけて

 「ドゾ。いらつしやい」

聲を掛けてきた(中華系のひとに共通する發音だつたのは、確かである)からで、けふはここで、お晝を決め込むとしませうか、と思つた。

 お晝休みの時間帯が終つた所為もあつてか、店内は閑散としてゐる。奥の方から賑かな聲がする。ご近所さんの晝食會だらうか。まあ気にはすまい。こつちは何を食べませうか。

 品書きを見て、少し考へた。

 青椒肉絲

 回鍋肉。

 ニラレバ。

 どれも魅力的で宜しい。ことにニラレバに何とも惹かれる気がする。さう思つて、店員さんを呼んで

 「酢豚定食を、お願ひします」

えーと、ニラレバに何とも惹かれてゐた筈の私は、どこにゐるのか知ら。併し不意に口をついたのだから、身体のどこかが、酢豚を求めてゐたにちがひない。

 待つこと暫し。

 ごはん、ソップ、搾菜、杏仁豆腐。

 そして我がお晝の主役である酢豚。

 お皿とお碗と小鉢を乗せた大振りのお盆が、お待ち遠さまと運ばれた。酢豚のお皿から立ち上る湯気が、ちやんと酸つぱい匂ひだつたから、安心した。

 ほら、ケチャップで甘つたるくした酢豚があるでせう。私は食べものの味つけに、比較的寛容な男だけれど、ケチャップ味の酢豚といふ矛盾は、どうしても我慢ならない。ケチャップにはケチャップの果すべき役割があると思ふ。

 肝腎の酢豚である。

 玉葱、ピーマン、人参、筍…"酢豚なんだもの、かうでなくちやあ、ね"、と手を拍ちたくなる具が好もしい。酸つぱさは控へめ。酢豚単獨で食べるとしたら、多少物足りないかも知れない。定食のごはん向けの味つけと考へておかう。

 玉葱の切れ端を匙代りに、甘酢あんをごはんに乗せ、綺麗に平らげた。御行儀が惡いのは、重々承知してゐるが、洋食の場合、ソースが上出來なら、麺麭で拭つて、綺麗にするでせう。ああいふ習慣は、中華料理でも眞似ていいと思ふ。

 杏仁豆腐(正直、感心出來る味ではない)で口の中も拭つてから、御勘定を済ませた。短い階段を上りながら、次の註文はニラレバだと考へたけれど、席に着いて不意に、回鍋肉叉は青椒肉絲と口走らない保證はない。