閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

1268 かけスパ

 コンビニエンス・ストアやマーケットで賣つてゐるお辨當の隅つこに、スパゲッティ…のケチャップ炒め、ケチャップ和へを見掛ける機會が、少からずある。

 ほんの一口か、二口くらゐ。

 イタリー人が目にしたら、激怒するか、絶望するか、はたまた茫然自失となるか。どうあつても、日伊の友好に資さないことは、まあ間違ひあるまい。

 うでて炒めたスパゲッティを、ケチャップでどうかうするのは、私の知る限り、アメリカ發の手法である。日本式のナポレターノは、アメリカン・ケチャップ・スパゲッティを食べた横濱のホテルの料理長(だつたと記憶する)が、トマトソースで作りなほし…改良したのが最初だつた。

 伊丹十三の若書きのエセーに、スパゲッティ・アル・ブーロ(英語風に意訳すると、バタ・スパゲッティ)といふのが紹介されてゐた。アル・デンテに湯がいたスパゲッティに、たつぷりのバタを溶かし混ぜ、チーズを山ほど削つた一皿。伊丹の言を信じれば、蕎麦なら"もり"くらゐの地位らしい。

 そのスパゲッティ・アル・ブーロに、バタとオリーヴ油で大蒜、葱を炒め、トマトを加へ、とろ火で煮詰めたソースを掛ければ、ポミドーリ…詰りスパゲッティ・ナポレターノが出來上り

 「トマト・ビュレ、トマト・ケチャップなんて死んでも使う気がしなくなるのでした」

いや手厳しいなあ。併しこれは正しい意味の"原理原則的な態度"ですからね、好きに樂めばいいといふ異論に、とても成り立つ余地は…いやこの稿で、そつちに踏み込むのは控へませう。話がややこしくなる。

 それより令和の今、"昔懐かし"だの、"喫茶店の味"だのと謳はれるナポリタンは、アメリカンで貧相なケチャップ炒めを、トマトソースに改良したジャパニーズ・スタイルを、更に再改惡(!)した結果で…待てよ、本当に改惡なのか知ら。

 伊丹流の原理原則に基づけば、問答は無用である。何しろかれは、ジャパニーズ・スパゲッティを、"大半は炒め饂飩の域を出ない"とまで痛罵したもの。併し。これをスパゲッティでなく、"イタリーの小麦麺を使つた麺料理の一種"と考へれば、伊丹にも云ひわけが立つ。かも知れない。

 うーむ。無理筋なのは、間違ひありませんねえ。まあさういふ屁理窟を捏ねたくなる程度、私はスパゲッティのケチャップ炒め(和へ)-それもマーケットで賣つてゐるお辨當の、白身魚のフライかハンバーグの下、ほんの少し隠された-に、好感を抱いてゐる…と察してもらひたい。

 ちよと摘めば、なくなる。

 だから何とも物足りない。

 尤も仮に、大皿に盛られたあれが、目の前に出たら、喜ぶ前に困惑するのも疑ひない。合挽き肉や赤ウインナや玉葱やピーマンが入り、粉末チーズも振りかかつてゐたら、心持ちも異ならうが、そこまでゆくとただのナポリタン・スパゲッティであつて、ケチャップ炒め(和へ)とは呼べなくなる…と考へを進めるに

 「うで過ぎたスパゲッティを炒め、ケチャップで味つける"ひと皿が、蕎麦で云ふ、"もり乃至かけ"に近しい」

のは、どうやら確からしい。伊丹の言とはちがふ方向ではあるけれど。

 マーケットで、少量のお惣菜を詰めるくらゐのパックに入れて、賣り出さないものだらうか。名附けて、かけスパ。百二十八円(消費税別)、特賣価格九十八円なら、實は割高だけれど、何となく紛れて買つてしまひさうな気がする。

 近所のマーケットで贖つた、"昔ながらの濃厚味ナポリタン"を食べながら、漠然とさう思つた。イタリー人と伊丹十三は、索然とするだらうな、きつと。