つけつ放しのラヂオで、偶さか流れたのが、耳の隅に入つて、なんだこれはと思つたのだ。
なかむらかほ
そのいのち
といふ二つが辛うじて判つた。それで改めて聴き、もう一ぺん、なんだこれはと思つたのだ。
予備知識を持たずに飛びこんできた唄。
然も自分の中で位置附けが出來ない唄。
かういふのは、いつ以來か知ら。
記憶の棚を探りに探つて、最初に出たのは元ちとせだつたが、どうもしつくりこない。更に探ると(デヴュー間もない)川本真琴が出てきて、元ちとせよりは近さうに思ふけれど、矢張り当てはまらない。
詰り中村佳穂…オリジナルなのだな。
併し唄と云つていいのかどうか。
歌詞はある。あるけれど、耳の感じで云へば、半分くらゐは、詞といふより何かの音、聲のやうに感じられ、それで何年前に聴いたか、川井憲次が作つた『攻殻機動隊』の曲…平安期の日本語を歌詞にしたとか、そんな触れこみだつた…を思ひだした。
歌詞を確めたのは失敗だつた。
どうも中村佳穂は、平成卅年に發表したこの唄の歌詞…ことばそのものに、(靭い)(明瞭な)意味を持たせなかったらしい。
(括弧書きで云ふと、この奇妙な唄を、歌詞カードから讀み解かうとしたひとは、何人かゐるけれど、悉く失敗してゐると思へる)
唄の中のことばの意味は、實に面倒な場合がある。
何を云つてゐるのか、判りにくいと思ふなら、和歌(短歌ではありませんよ)を思ひ浮べればいい。あすこの詞…たとへば“よる”には、直接的な“夜”は勿論、寄る辺の“寄る”があり、糸を撚るの“撚る”もある。このちがひは、文字ではなく、音…或は唄ひ手の調子…を耳にしたひとが、それぞれ(括弧書きで私が“悉く失敗”と断じた理由はこの点にある)感じなくてはならない。思ひきつてこの唄は、咒から社交の道具を経て、技法が成熟し、未だ藝術に成り下る直前の和歌に近しいと云はうか。
いや併し私が知る彼女の唄は、このひとつきりに過ぎない。従つて中村佳穂といふ聲の持ち主の紡ぐ唄とその世界が、どんな広がりを見せてゐるかは、これから知つてゆく樂みとして残されてゐる。