眞面目を気取つてゐると云はれるやも知れず、いや多少なり、恰好をつけてゐる自覚は無くもないが、その辺は曖昧にしておく。といふより、自覚そのものが曖昧だからで、何の話かと云へば、心筋梗塞の後、自分が死ぬことに就て、考へる時間が長くなつた。思ひかへすと私は、私の周囲でたれかの死を、殆ど経験してゐない。親族のたれそれが亡くなつたとかはあるけれど、それらは天寿であり、實感を伴ふ死ではなかつた。
「煙草を喫しては、いけません」
「ステント詰りは、命取りです」
緊急で入院して以來、小沼先生からは、何度も忠告…御達しを受けてゐて、それはこの[胸痛碌]で、何度も書きもしてゐる。反論の余地は、まつたく無い。その点は改めて強く云ひつつ、併し
「おれは死ぬことが、怖いのか知ら」
と考へる時がある、考へてしまふと、白状しなくてはならない。半世紀以上、生きてきたけれど、今のところ、死んだ経験は持たないから、それが本当に怖いことなのかどうか、判らないし、想像も出來ないんである。
「生きることが、なンやよお判らンのに、死ぬことなンて、判るモンかいな」
と仰有つたのは孔子さまだつたと思ふが、私もその域に達したのか…と云つたら、世界中の儒者から、全力で咤りとばされるのは間違ひない。それに達してゐないのは紛れもない事實でもある。その辺りは横に措いて、どう足掻いても、死の瞬間はやつてくるのは確實で
「その瞬間を、痛いのでのたうちながら、迎へるのだけは、断じて御免蒙りたい」
のも叉、確實に云へる。私が發症した心筋梗塞は、胸の眞ん中に、ピンポン玉くらゐの大きさ、硬い護謨の塊のやうな痛みが、ねぢ込まれるやうな痛さを伴つてゐた。死ぬのは逃げられないから仕方がないとして、あれをもう一ぺん感じながらなのは、しつつこいの承知して云ふと、断乎として御免蒙る。かう書いて思ふ。紫煙と手を切つたのは、死ぬことではなく、過呼吸を起しながら
「どこのたれでもいいし、何をしたつてかまはないから、今すぐ何とかしてくれ」
としか考へられなかつた苦痛への厭惡、恐怖感が基にある。もしかして、死そのものは、一ぱい引つ掛けて眠つて、そのまま目が覚めなければ、それでかまふまいとも思はれる。冒頭、“自分が死ぬことに就て、考へる時間が長くなつた”など、如何にも哲學ふうの、思はせぶりな書き方をして、行き着いたのがこの程度なのは、淺學菲才ゆゑに過ぎない。馴れない眞似は、するものぢやあないね。勿論せめて、これを書いてゐる現在、幸ひにして健在な親より、長く生きねばならないけれど、この点に限つては、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏だって、おんなしにちがひない。