閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

1284 たれと塩の議論

 串焼きを話題にすると、必ず顔を出すのが、たれか塩といふ議論で、あれはいい娯樂だと思ふ。どこかの茸と筍の対立が聯想されるが…お菓子はさて措き。

 

 ジェンダーだかセクシュアリティだか知らないが、議論は併し、男だけが樂める酒席のお摘みであらう。念を押すと、女性を蔑む積りなのではなく、さういふ点も、女と男のちがひのひとつなんです。

 

 原則として私は、たれ派に属する。

 原則と云ふのは、たれなら初見の呑み屋でもまあ、外す恐れが(少)ないからで、消極的と云はれれば、確かにその通りである。一方で安心して呑まうと考へた時、たれは有用な撰択肢になる。

 更に云へば、たれは呑み屋によつて、微妙に味はひが異なるのが面白い。甘みがつよい、辛さが立つてゐる、濃厚叉淡泊、さらりとした、或はとろみのある仕立て。さういふちがひも、呑み屋の樂みではないか。

 併し馴染んだ…焼き方に信用をおける呑み屋なら話は別で、塩を撰ぶことが多くなる。

 その方が口に適ふ。

 素材の味が判るからとか、御大層な理由ではありませんよ。私がしげく足を運ぶのは、ごく大衆的な呑み屋だから、当り前に気を遣つた仕入れはしてゐても

 「当店では厳撰した鶏と豚の肉と臓物を、毎朝捌き、備長炭で焼き上げて提供してをります」

などの謳ひ文句とは縁がない。その当り前に仕入れた肉や臓物を、当り前の炭で、ちやんと焼けるかどうかは、焼き手の技倆に頼る部分が大きく、信用に値する呑み屋なら、口に適はない恐れは随分と小さくなる。

 ぢやあ改めて丸太は、結局のところ、たれ派と塩派、どつちに属する…どつちを支持するのか知ら。

 さう訊かれたら、議論…娯樂の種にする為には、塩派なのですよと称したい。それで塩の串焼きを頬張りながら、たれ派と實のない、結論の出ない議論を摘みに、焼酎ハイを呑めれば、きつと愉快だと思ふ。

 ここで本音の部分を云ふなら、上に挙げた事情や、何を焼くか、そもそも何を呑み、更に空腹の気分で、塩とたれを食べ分けたいわけで、それは親愛なる讀者諸嬢諸氏も同じに決つてゐる。

 とは云ふものの、娯樂…議論の為の議論で

 「さういふのはまあ、ひとそれぞれですからねえ」

といふしたり顔ほど、やつてはならない態度も無い。そんなのは皆んな知つてゐる。判つてゐて、どちらかの肩を持ち、時に掌を引つ繰り返すから、酒席が空虚に盛りあがるんである。

 この“空虚”が、宿醉はない為のポイントだと思ふ。女性の議論は常に、實用の大地、即ち台所から、足が離れない…離せない。たとへばたれなら、醤油や味醂の撰び方や、調合の配分、味が締らない時に調へる工夫…尊敬する辰己浜子女史によると、使つたのが分らないやうに使ふのが、隠し味なのださうな。成る程なあ…、或は肉につける量や回数、焼け具合の見極めといつた辺りに論点が集り

 「あら、その工夫は美味しさうね。今度、一ぺん、試してみませう」

みつちり實用的、台所的で、まつたく虚ろではない。そしてさういふ方向に話が進むと、調理に縁の薄い男衆では、とても嘴を差し挟めるものではない。

 

 ね。かういふ話がきつと、女と男の間では成り立たないと、解つてもらへたでせう。貴女とは、たれと塩の串が盛られたお皿を挟んで、別の話題に花を咲かせたいと思ふのだ。