閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

1311 知らぬ樂み

 饂飩。

 蕎麦。

 ラーメン。

 甘から仕立ての牛肉。

 にうめん。

 牛丼。

 カレーライス。

 或はお味噌汁に溶き卵を用意すれば、何と云ふか、贅沢の階段がひとつ、あがりさうな気がする。我ながら単純といふか安つぽいといふか、とは思ふんだが、さういふ気になるんだから仕方がない。

 時と場合と気分、何にあはすか次第ではあるが、多くの場合、私は卵を粗く溶くのを好む。白身と黄身が混ざりきらないまま、固まりかけたところがうまい。更にその溶き卵、満遍なくかけることを私は好まない。たとへば牛丼なら、ごはんの眞ん中に穴を開け、そこにざつくり溶いた卵を、そうつと流し込む。さうしたら、白身と黄身と牛肉の濃淡が出來るでせう。その濃淡、或は変化が、溶き卵の樂みである。

 ところで溶き卵は何に似合ふのか。

 上に挙げた幾つかの食べものでは、熱さの一点だけが共通してゐる。濃厚と淡泊や辛さと甘み、堅さと軟らかさといつた條件に、法則性があるとして、それを見つければ、溶き卵界の大發見になるのではなからうか。

 但し溶き卵の使ひすぎには、用心が必要である。無邪気な濫用は、折角の熱さを抑へすぎ、味をも平坦にしてしまふ。私は溺死するなら、樽一杯の溶き卵に沈むのを望む男だが、食べもの相手にさうはゆかない。

 過ギタルハ及バザルガ如シと云ひたくなるが…偉大な王撰手は、過ギタルハ及バザルヨリ良シ、と喝破した。尤もそれは練習に就てである。實際の發言かどうかはどうでもよく、何と云ふか、野球に対するあのひとの考へ方を、簡潔端的に象徴してゐると思ふ。以上、溶き卵には関はらない余談。

 本題に戻りますよ…本題と云つたつて(例の如く)、大した話ではないんだけれど。

 詰り炊きたての、白いごはんと、溶き卵の組合せ。ごはんは完全食にたいへん近い食べものだし、何を加へなくても、十分にうまい。溶き卵でわざわざ、贅沢の階段を上げなくたつて、よささうでもあるんだが、この組合せは、冒頭に挙げたどれよりも(もしかして)うまい。

 そのごはんと合はす場合に限れば、卵は小鉢で先に、丹念に溶く方がいいと思ふ。調味は当り前に醤油。溶いてから、まはし入れる。明治頃の愛好家は、胡椒と唐辛子で、味を調へたさうだ。うまいのかどうか、試したことがないから、論評は控へる。

 丼にかるくよそつたごはんの眞ん中に、淺い窪みをつくるか、穴を開ける。溶いた卵を窪みなら流し入れ、穴だつたら流し込み、混ぜずに木匙で掬ひ食べる。かう書くと、令和の愛好家諸嬢諸氏は、首を傾げ、疑念を呈してくるかも知れない。

 卵は直かに割り入れ、混ぜつつ味を調へるとか。

 そもそも用ゐるのは、卵黄のみにしませうとか。

 醤油より麺つゆを、重んじるべきだとか。

 味つけは何種類の佃煮で、変化させるのですとか。

 まあこの辺りは経験則が大きいから、讀者諸嬢諸氏に強制する積りは無い。“個人の感想です”と念を押しつつ云ふなら、醤油を基本に、生姜や大蒜のすりおろし、叩いた梅干しや葱、唐辛子や胡椒を加へ、徐々に幅を広げてゆくのが望ましからうと思ふ。

 溶き卵でかういふ工夫…樂みが許されるのは多分、ごはんと共演する場合に限られる。カレーライスでも牛丼でも、溶き卵はそのままでこそ、本領を發揮する。そのままでも、手を加へても、柔軟に対応出來るのは、溶き卵の底力とも云へる。

 そこで気になるのは、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏が、溶き卵に何を加へ、どんな食べ方で樂んでゐるかといふこと。食べものの味つけには保守的…といふより、臆病な男である私に、知らぬ樂みを教へてもらへたら、これに過る嬉しさはない、といふものなのだが。