閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

1315 寒くなれ

 この稿を手掛けてゐる時点では、まだ日々の気温と湿度は高いものだから、たいへん、うんざりしてゐる。

 (明日から、晩秋を飛ばして、初冬になつたつて、かまはないのに)

 いや私は本気で云つてゐるのだが、親愛なる讀者諸嬢諸氏には如何だらうか。

 肌寒くなつたら、めしも酒もうまくなる。殊に樂みなのは、おでんと温めたお酒の組合せで、これは晩秋から厳冬でないと、喜ばしくない。

 念を押すと私が云ふのは、お燗酒でなく、“温めた”お酒ですよ。ぶくぶく沸騰させたやうなお酒は、殆どの場合、冷しすぎと同じく、その極端な温度で美味い不味いを誤魔化せる。精々が人肌燗がよろしい。

 この場合だと、コップ酒だらうな。出來れば、表面張力を活かし、縁のぎりぎりまで注いでほしい。口から迎へるのも叉、樂しからずや。

 おでんである。

 樂みとは云つたものの、私はこの年齢になつても、偏食の気が残つてゐて…ひと先づ一覧にしてみませうか。

 玉子。

 大根。

 厚揚げ。

 牛すぢ。

 結び蒟蒻。

 焼き豆腐。

 飯蛸。

 平天。

 餅巾着。

 ごぼ天。

 雁擬き。

 面白みに欠けるなあと思ふでせう。とは云つても、おでん種の好みは、保守的、臆病な態度を保つくらゐで、丁度よからうとも思ふ。

 勿論これらは一ぺんに食べない、食べられない。註文は二種か三種。それでコップ酒を一杯。余力があれば、更に二種ほど追加して、お酒もお代り。まあ、そんなところで、満足出來るだらう。

 「それでお腹が膨れますか」

と訊かれたら、さうはなりませんねと応じざるを得ないけれど、おでんはおでんだけで満腹にする食べものではなからうから、これで十分なのだ。

 ところで尊敬する吉田健一は、ある著書の中、安くてうまい酒…安いだけの紛ひものではなく…を呑ます場所で呑み、他に何か慾しくなるなら、おでんくらゐだと書いてある。

 ただあの呑み助兼食ひしん坊(批評家であり小説家でもあつた筈だが、そつちはまあ措く)は、肴よりお酒を重く視る傾向がつよい。なので“おでんくらゐ”の“くらゐ”が、どの程度の品数だつたものか。どうも見当をつけかねる。

 もうひとり、敬愛する田辺聖子の、『浜辺先生、街をゆく』の作中、自身の投影らしい浜辺先生が、夫に引つ張り出され、おでん屋に足を運ぶ場面があつた。大はしやぎする隣で、背広を着た老人が、“たツたツ”と舌を打ちながら、おでんを一品一品、味はふ姿があり、浜辺先生は我が身を顧みて、反省するのだ。

 因みに云ふ。このユモアたつぷりの短篇聯作は、私小説とエセーの中間辺りに位置してゐる。浜辺先生の言行が、作者のそれと一致するとは限らないが、おでん種の品書きを目にし、あれもこれも美味しさうだと浮き足立つ心境など、“田辺聖子”名では書きにくいことを、浜辺先生に託したのではないかとも思へる。

 その浜辺先生の気持ちは、よく理解出來る。上に挙げた種でなく、竹輪や(黑)はんぺん、昆布に板蒟蒻、或は信太やウインナやトマトといつた変り種まで、賑々しいお品書きを目にしたら、私だつて昂奮するし、浮き足立ちつ。間違ひない。それで浮き足立つたまま、二杯のコップ酒に、四つ五つのおでんで

 「うむ。今夜はこれで、よろし」

と思へるかどうか、甚だ怪しい。

 おでんの不思議さ…少くとも私にとつての…は、“おでんで呑みたい”気分が前に出るのではなく、もつ煮と麦酒を先にやつつけ、焼酎ハイで鶏皮やハラミやネギマや獅子唐の串焼きを囓つた後、玉葱のフライ、或はハムカツ、鶏の唐揚げ、鮪や蛸のぶつ切りなぞの前に、ふと

 (ここでちよいと、差し挟みたい)

と思はされる点にある。その“ふと”はいつ、やつて來るか判らないし、それがやつて來たら、どうしたつて註文しないと、落ち着かない。前半に書いたことと、色々矛盾してゐる気もしなくはないが、ここではその曖昧さ、いい加減さも叉、おでんの不思議と居直つておく。但しもしも明日の空が、晩秋を飛ばした初冬なら、おでんが恋しくなるし、きつと摘みに行つてしまふだらう。

 

 寒くならないかな、はやく。