閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

1323 ばらける山葵

 初めて本山葵を口にしたのは、廿臺前半の大坂、当時勤めてゐた小さな會社の社長に聯れて行つてもらつた、小料理屋でだつた。最初に出たお刺身に添へられてゐたのだ。おろしたのが鮫皮だつたか、おろし金だつたかは覚えてゐない。最初はほのあまく、そこからすつきりした辛みを感じた。その山葵は最後まで置いてあり、天麩羅だの何だのを摘む途中、惜しみながらすつて、ちびりちびり、摘んだ。うまかつたのは、よく覚えてゐる。

 ところで北大路魯山人といふひとがゐた。藝術家、食通で知られるあの魯山人。『魯山人味道』だつたか、一著をあらはしてゐる。讀んだけれど、なんとも厭みな爺がゐるものかと思つた。池波正太郎にも随筆では、東京人の厭らしさが滲みでる惡癖を持つてゐたが、魯山人爺さんには、とても及ばない。第一池波は本業が小説であつたし、その本業では東京振りの厭みの抑制が、十分に出來てゐた。厭みの比較ではなかつた。

 その味道でひとつ、山葵醤油に就て、感心出來ない山葵は最初に溶く方が、醤油がうまくなると書いてあるのは、印象に残つた。残つてゐる。ほら、通人振るひとが

 「お刺身(やお蕎麦)の山葵は、溶いては駄目で、乗せないと美味くない」

とか、云つてゐるでせう。魯山人は必ずやさうとも限らない。時と場合で、醤油の味つけに用ゐる手立てもあるし、寧ろその方が望ましいと云つてゐて、このくだりだけは、妙に説得力を感じた。確かに本山葵は知らず、私程度が普段、口にする…出來るのは、からくて刺戟的なだけの山葵擬きである。これなら通人振りに逆らつてでも、醤油に溶いた方が好もしいと思はれる。

 

 尤も私は山葵じたいを然程まで喜ぶ男ではない。だから小皿に醤油を入れたら、縁に(贋)山葵を置き、少しづつ混ぜ溶くことにしてゐる。

 「それだと、味がばらけるぢやあないか」

眉を吊り上げるひとが出るかも知れないが、私が狙ひはまさにその、“ばらけること”にあるのだから、それは寧ろ望むところ。カレーライスのルーとライスを混ぜないのと同じである。いやさうでもないか。

 安つぽい呑み屋で、安つぽい鮪の赤身のぶつ切りを酒菜に、コップ酒を啜るなら、鮫皮ですりおろす本山葵より、醤油に溶き混ぜる(贋)山葵の方が、相応しからうと思ふ。こんなことを云ふと、魯山人の信奉者から、非難囂々だらうことはよく解るが、安呑み屋と(小)料理屋は異なるのであつて、その意味でも山葵の使ひ方は、ばらけさせるのが、肝要ではあるまいか。