閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

1403 空間

 『カエアンの聖衣』といふSFがある、あつた。バリントン・J・ベイリーだつたか。手元に本が無いから(ハヤカワSF文庫と思ふ)、訳者は判らない。調べたら判るんだらうが、さうしたら敗けな気がする。私は何と戰つてゐるのだらう。

 曖昧な記憶で書くと、この小説は、“衣服こそひとである”とか、そんな文明が産みだしたスーツ…伝説的なデザイナーの名に因んで、フラショナール・スーツと呼ばれる。現存するのはおそらく五着…を偶然、手に入れた主人公が、酷い目に遭ふ話だつたと思ふ。

 その主人公が初めてフラショナール・スーツを目にした場面が、中々に印象的だつた。だだつ広い空間に、そのスーツがぽつんと吊されてゐて、主人公はその取合せを最初、不釣合ひに感じるのだが、暫く見るうち、ひとにとつて、ある広さの空間が求められるのと同じく、このスーツにも、相応しい広さの空間が必要なのだと気がつくのだ。いはば、スーツに取り憑かれた瞬間。莫迦げてゐると云へば、まつたく莫迦げてゐるのだが、大眞面目な描寫に、説得されてしまつたのは、忘れ難い。

 その見立てを拡げると、“偉大な藝術”が、似つかはしい場所ー空間を求めるのは、理に適つてゐる。たとへば私の大好きなミレーの『眠れるお針子』は、山梨県の県立美術館に収藏されてゐる。逢ひに行く都度、何とか盗めないかと考へるのだが、仮に成功したとして、何処に飾ればいいか。まさか陋屋に飾るわけにもゆくまい。フラショナール・スーツを、ファストファッションの倉庫に吊せないのと同じである。カエアンの作者は、好きで堪らない絵が手に入らないことを嘆き、理由を考へに考へた挙げ句、小説の種に仕立てたのだらうか。

 小説家の事情は兎も角、かう考へた時、スーツ…即ち藝術が、フラショナール…即ち偉大な藝術か否かは、どんな空間を求めるか、求めてゐると感じられるかで、区分出來さうな気がしてくる。これを“カエアン(或はフラショナール)空間”と名附けたら、恰好よからう。思ひつきの域を出ないから、差引きはしてもらひたい。呑み屋の卓にも、求められる空間の広狭はあつて…いやここまで結びつけるのは、流石に無理がある。話が纏らなくなつてきた。そろそろ筆を擱かう。

 

 ああさうだ。

 『カエアンの聖衣』は、ハヤカワでも絶版らしい。