閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

1408 和解

 和解出來てゐない。

 だから画像は無い。

 コロッケ蕎麦の話である。

 たれの本で讀んだか、明治期の東都は高田馬場生れらしい。西洋料理に押された蕎麦屋が、苦肉の策で作つたのが、近辺の學生にうけたといふが、本当か知ら。さう云へば齋藤緑雨といふ畸人が、その流行に就て、世の中もいづれ、かうなるのだらうさと、冷やかな厭みを書いてゐたのを思ひだした。

 昭和後期から平成前期にかけて…と区切るのは、私が外食を覚えた時期以上の意味は無い…の大坂では、見掛けなかつた。

 「だつてまあ大坂は、饂飩がつよい土地だから」

との見立ては一応、成り立ちさうではある。併しコロッケが有能な種ものだつたら、コロッケ饂飩が工夫された筈ないのに、それも見当らなかつた。令和の今も、大坂では、コロッケは饂飩は勿論、蕎麦の種ものの地位も得てゐない。詰りコロッケ蕎麦は、東都(の若もの)の食べものと思つていい。

 以前にも触れた記憶があるけれど、明治期は我が國の食卓にとつても、革命的な時期だつた。江戸期は同じ…ちかい文明圏に属する食べものだつたのが…例外を受け入れる針の穴のやうな場所は崎陽にあつたが、わづかな例外の拡大は出來まい…、西洋からそれまでとまつたく異る食べもの、調味料、調理法が次々、流入し、拡散しー混乱した。若ものは新奇と珍奇に飛びつき、従來の蕎麦は、時代遅れの旧式に追ひやられた。

 頑固気質の蕎麦屋は、こちとら爺さんの代から、蕎麦を打つてるんでエ、と突つ張つたらうが、それでは商賣が上がつたりになつてしまふ。

 「仕方ねエ、若エのが喜びさうなのをひとつ、調へてやツか。西洋にやあ、クロッケットとか何とか、天麩羅擬きがあるツてえ話だし」

コロッケ蕎麦史を確かめてゐない、私の勝手な想像だから、蕎麦屋の親仁が、さう考へたかどうかは、保證しない。併し居直りを含め、あの組合せには何と云ふか、自棄が感じられなくもない。

 ところでそのクロッケット…コロッケは、登場した当時、えらく高級な食べものだつたといふ。下拵へに手間が掛かつた所為と思ふが、日本の食卓に馴染む前の洋食でもある、需要そのものも、少かつたにちがひない。それでも蕎麦屋の親仁が手を出せたのは

 (ア)天麩羅(蕎麦)といふ技術的な背景があつたこと。

 (イ)従つて設備にお金を掛けなくともよかつたこと。

があり、更に (ウ)高値をつけても、新しいもの好き相手に、商ひが出來さうな目処の立つたことが重なつたからと、私は睨んでゐる。さう考へると、蕎麦屋の親仁め、いいところに目をつけやがツた、とも云ひたくなる。

 尤も、學生聯中に賣れた…流行つたのは、旨いからといふより、もの珍しさゆゑではなかつたか。確かに蕎麦は旨いし、コロッケも旨い。叉コロッケに醤油の風味が似合ふのも間違ひない。併し、その組合せには、見た目も含めて調和が感じられないでせう。

 「すりやあまあ。併しだね、精々が一世紀程度の歴史しか持たないコロッケ蕎麦に、そこまで求めるのは酷ではないか」

熱烈なコロッケ蕎麦愛好家から、熱烈な口調で、熱烈な辯護が出されるかも知れず、それに対しては一応、御尤もと云つておかう。但しその場合、蕎麦屋にもコロッケ蕎麦を洗錬さす努力は欠かせない筈で、果してそこはどうか知らと、疑念を呈したくもなる。私がこの食べものと和解出來ない事情は、その辺にあるらしい。

 

 そもそも私は、“他國の食べものと融合した(汁ものの)麺料理”中、唯一の成功例は、カレー饂飩と堅く信じてゐるのである。