歴史的な何事かを調べ、或は考へる際には、年表を眺めることが多い。その背景を摑みたいのが主な理由。まあ当り前であつて、だからこの稿では、主ではない方の理由に触れてゆかうと思ふ。それで話は、具体的に進める方が、よささうでもある。ここでは私が大きに好む、大蒜を題材にしませう。
日本への傳來は八世紀頃といふが、正確な時期は例によつて、はつきりしない。
原産は中央アジアといふ。五千年余り遡つた、統一王朝が成り立つ前のエジプトでは、既に栽培されてゐたらしい。それが東に進み、前漢期に端つこまで到達した。この少し前、ローマを苦しめに苦しめたカルタゴが、滅亡してゐる。そこからほぼ千年過ぎて、やうやく我われの島國に渡つてきた。歴史区分で云へば、ほぼ奈良朝の時代にあたる。
大寳律令の完成。
藤原四家の成立。
『古事記』と『日本書紀』が編纂されたのは、倭…日本(の一部)に、“歴史への意識”が生れた證だらう。
佛教がはつきり、受け容れられたのもこの頃。
要するに未熟な蕃國の首が、やつとこさ、坐り始めたのが、八世紀だつたと見てもいい。
海を隔てた唐…当時のアジアでは、間違ひなく最大の文明國…は最盛期だつた。李白に杜甫に王維、顔真卿。日本に有縁のひとなら鑑眞を挙げませうか。
そこから更に西へ向ふと、モン・サン・ミシェルの原型が出來たのも、カール大帝の即位も、この世紀であつて、同じ世紀の我が國は、聖武帝と桓武帝の御代。文藝では大伴家持、淡海三船。佛教絡みなら、行基による東大寺の毘盧遮那佛建立に、弓削道鏡と和気清麻呂。何と云ふか、矮さい。辛うじて國際的と思へるのは阿倍仲麻呂くらゐで、西方のあれこれと見較べたら、せせこましさを感じざるを得ませんな。
大蒜はどうやらその時期、唐朝を経て傳來したと思へる。あの当時の日本に、海外と貿易をするだけの國力はなかつたから、十回の遣唐使(但しその内三回は中止)のいづれかと想像するのが、まあ妥当だらう。もしかすると、來日僧が経典と共に、齎したかも知れない。五蘊は厭はれたらうと反論されたら、あの頃の大蒜は、滋養強壮の藥のやうな扱ひだつたと、再反論したい。
尤もそのお寺が、五蘊を好もしく扱はなかつたのは事實である。そもそも肉食の習慣がうすかつた日本の食卓で、大蒜を用ゐるのは如何にも六つかしい。あの匂ひのきつい野菜は、こつてりした調理でこそ、本領を發揮するでせう。未開野蛮ー訂正、簡潔淡泊な調理法しか持たなかつたこの國では当初、香りつけが精々だつたにちがひない。いはゆる食材として扱はれるまでには、余程の時間を要したらう。
そこで不思議なのは、大蒜の受容史…癖がある割に地味だつた筈が、忘れらず、生き残つた理由で、これは叉、別の機會に時間を掛けて調べなくては、判らない。
ここまでが、幾つかの年表を見つつ、書けたこと。
話を膨らますのは、この稿の目的から外れてしまふから、控へたけれど、その気になつたら、たつぷりの分量に出來はする。
たとへばこの時期から僅かに下つた時代に生きた空海は、長安で大蒜をあしらつた料理を口にしただらうか、といふ疑問。当時の長安は世界有数の大都市だつた。(東)ローマや西域から傳はつた、大蒜を使つた食べものがあつても不思議ではなく、空海といふひとは、五蘊の精力剤的な効能を知つたからと云つて、気にしなかつたかと思はれる。こんなことを云つたら、高野山から咤られるかも知れないけれど。
こんな風に想像…妄想を逞しう出來るのも、年表を眺める主ではない樂みと思ふのだが、眞面目な歴史家や研究者は、厭な顔をするだらうか。