閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

230 富士

 この手帖では原則的に画像の説明をしない。見れば判つてもらへることを、わざわざ文字にしても仕方がないといふのが理由。素人の寫眞展辺りで、さういふ例は幾らでもあるでせう。富士山を撮つて、“富士の情景”なんてつけて仕舞ふ。ああいふのは勿体無いなあと思ふ。但し例外はあつて然るべきだし、さうしておかないと、この稿が成り立たない。要するに見せびらかし、また説明をしたいので、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏には寛容をもつてご一讀を願ふ。

 では何を見せびらかし、また説明をしたいのかと云へば、ひとまづ画像をご覧頂きたい。カメラのやうな物体である。併しカメラではない。レンズに相当する部分には

「FILM WITH LENS UTURUNDESU」

「SIMPLE ACE f=32mm F=10 1m~∞」

と印刷されてゐるでせう。ああ成る程、富士フイルムの“写ルンです”なのか…と思つてはいけない。いや間違ひとも云ひにくくはあるのだが、正確なところは、“写ルンです シンプルエース”専用のカヴァなんである。

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 1,800円。

 参考までに“Black Edition”は2,000円。

 どちらもストラップとシールがついてゐる。更にシンプルエースもセットになった“Premiumセット”もあつて、そちらは2,700円。別々に買ふよりやや廉価な値段になつてゐる。勿論完全なプラスチック製。そのくせストラップは割りと眞面目で肩首に当る部分には裏布をあててある。高いのか安いのか、よく判らない。1,000円分くらゐはストラップ代ではないだらうか。

 遠目だと同社のX100が連想されなくもない。当然その辺は意識、といふより狙つてゐたらう。上から見ると電源を兼ねた絞り値のダイヤル…を模したパーツがあつて(勿論動かせない)、ちやんとF10が撰択されてゐる。手にすると自然に右手の親指が巻き上げノブに当る。カヴァの分で大きさが寧ろ適正になつた感じがされる。しつかり考へた結果なのか、そもそもX100の設計がよかつたのか。後者だらうな、きつと。

 さて。かういふジョーク品に文句をつけるのはをかしいのだが、それでも云ふ。

①三脚穴がない。底蓋が薄いから穴を開けるのも無理さうである。

②アクセサリシューがない。何かしら飾りになりさうなものを乗せたいのだが。

③レンズ鏡胴部分の径が中途半端で、被せ式のキャップをつけられない。

改めるまでもなく、どれも實際の使用にまつたく支障は出ない。寧ろ

「たかが1,800円の玩具に、一体何を求めてゐるんだらうね、このひとは」

さう呆れられても反論の余地はない。なので云ひわけをすると、これを買ふ積りになつたのは、先づ莫迦ばかしさに笑つたからだが、シールや何やで(惡趣味に)飾りたいと思つたからでもある。上に挙げたのはそれがあると具合がいいといふ事情。かうして文字にすると、どうにも具合が惡い。そられにかう書くと富士フイルムから、そんな閑があるなら、我が社のX100を買つて下さいよと云はれさうで、その気持ちは解る。

 併しまつたく工夫出來ないかと云ふと、さうとも云ひにくい。たとへば粘着テイプで貼るグリップ、たとへばディフューザー、或はケイス。がらくた箱から掘り出せば、それらしい恰好になりさうな気がする。構造の問題を別とすれば、コンパクト・デジタルカメラを中に隠す方法も考へられなくはなくて(手元にあつたアグファ銘のは駄目だつた)、色々と…但し廉価にだけれど…遊べさうである。これひとつだけを持ち出し、富士フイルム謹製の眞面目なカメラを使ふひとの横に立ち、とぼけた顔で寫眞を撮りたいものだが、果してたれから叱られるか知ら。

229 スタイル

 先づ[224 オートフォーカス]にざつと、目を通して頂くのがいいと思ふ。そこではミノルタα‐70でフヰルム一眼レフの小さなシステムを組まうかなと書いた。實行に移すかどうかは別…半ば以上は冗談である。一ぺん書いたことを(冗談ではあるけれど)短期間で引つ繰り返すのは、我ながらどんな態度かとも思はれるのだが、さういふことを気にしてまた点検を始めると、カメラに限らず、この手帖のひよつとして半分近くの話題を削る必要に迫られかねない。なので笑つて誤魔化すとする。

 大坂の本棚に『季刊 クラシックカメラ』の第8号(2000年)があつた。特集はペンタックス。中身はよくある“クラッシックなペンタックス”の紹介やレンズについての蘊蓄で、何と云ふこともないのだが、52ページから53ページに、植田正治へのインタヴューが載つてゐた。植田が当時使つてゐたのがペンタックスのMZ‐3だつた。發賣は1997年。このカメラは2005年頃に販賣が終つてゐるから、インタヴュー当時は現行機種。これだけならふーんで済ませてもいいが、この寫眞家は1913年…大正2年生れである。同年にロバート・キャパも生れ、また徳川慶喜(元征夷大将軍は寫眞好きでもあつたらしい)が死去してもゐる。序でに獨逸の片田舎で映画用35ミリ・フヰルムを転用したごく小さなカメラが試作されたのも同じ年。この試作品…“バルナックのカメラ”は12年後、ライカの名前で製品化される。

 大雑把に云ふと、後年Ⅰ型と呼ばれるこのライカが世に出た1925年…大正14年が、21世紀初頭まで續く35ミリ・フヰルムを使ふカメラの始りと考へてよく、ペンタックスも例外ではない。尤もその登場は1952年(昭和27年)で、随分と遅い。國産カメラ(この場合は寫眞機の方がしつくりくるだらうか)の歴史をいちいち遡るときりがなくなるから、そこは省略する。ペンタックス…当時は旭光學…の立上りが遅くなつた理由は簡単で、ライカ式の距離計連動式カメラに手を出さなかつたからである。以下は伝説なので、その分は差引きしてもらひたいが、カメラ…いや寫眞機を作らうと決めた時、当時の社長が

「併し他所さまがお客を持つてゐるところに、踏み込むわけにはゆかない」

と云つたのだといふ。意既に他社が顧客を持つてゐる、距離計連動式の寫眞機は作れないよ。この逸話を紹介した本の筆者は、りつぱな態度だと褒めてゐた。誤りではないと思ふ。古風な商賣の義理立ての気分がなかつたとは云はない。云ひはしないが、同時に既に市場が出來てゐる距離計連動式の寫眞機に参入しても勝ちみは薄いといふ現實的な判断もあつただらう。

 旭光學が寫眞機製造を目論みだした頃のライカはⅢfで、設計者は

「コピーなら、作れる」

と思つてゐたにちがひない。同時にライカM3の登場…これは1954年…を予見してゐた筈はないとして(だとしたら先發各社の面目は丸潰れである)、苦戰が見えてゐる方向を目指す必要はないと考へたとしても不思議ではない。最初から一眼レフを撰んだのはそれやこれやが積み重なつた博奕だつたと思はれる。結論を云ふと、旭光學はその博奕に勝つた。M3は、眞似をするとかどうとか、考へるのを諦めさせる出來だつた。日本光學が大慌てでSPにミラーを組み込んだ機種を出したのは1959年。詰りFである。同じ年、ペンタックスはS2で最初のヒットを飛ばした。

「最初の判断は、正しかつた」

少なくとも1980年頃までは、さう思つてゐた筈だし、またさう思つて不思議でもなかつた。

 オートフォーカスへの移行に失敗つた。ミノルタのα‐7000が登場したのは1985年。ペンタックスは2年遅れでSFXを出したが、率直なところ、まつたく感心出來ないスタイリング(ことにレンズの出來がひどかつた)で、どうもこれが惡かつたのではないか。この後、高度に電子化を進めたZへと路線を進め…いや有り体に云つて、迷走を續けた。当時はニコンキヤノンミノルタも、フラグシップ機と中級機とエントリー機といふ階層を作つてゐて、その階級制度をキヤノンは巧妙に用ゐ、ミノルタは下手ではなく、ニコンは下手だつたが、ペンタックスは繰返すと迷走であつた。要はα7000を目の当りにした後

「うちはかういふ姿で」

と考への纏まらないままに出したのがSFXで、その後のZも含めた建て増しと改築が10年近く續く。何を考へてゐたのか、よく解らない。

 1995年にMZ‐5といふ機種が出た。S2やMX、或はLXが連想される。その時は、原点回帰を謳つた記憶がある。ただそれはどうも表向きで

「何をどうすればいいのか、判らなくなつた」

結果、先祖返り…クラッシックなスタイルに辿り着いたのではなからうか。少なくともこれが正しいといふ確信を持てなかつたのは、MZ名の最高級機種として出したMZ‐Sのスタイルを思ひ浮べれば、間接的な證拠になる。實際、MZ‐5のスタイルを受け継いだのは、改良したMZ‐5NとMZ‐3だけ(特殊モデルと呼べるMZ‐Mはあるが)であつた。但しその迷つた結果は惡くなかつたとも云はなくては、ペンタックスに気の毒でもあらう。シャッター速度と絞り値を共にダイヤルで制禦出來るオートフォーカス一眼レフは意外なほどに数が少ない。わたしのやうな素人なら、カメラ任せが(露光としては)好もしからうと思はれるが、プロフェッショナルはカメラ任せと自分の判断をシームレスに使へる方が寧ろ便利な筈で、植田正治がMZ‐3を撰んだのは、その辺りが理由なのではないか。

 ここで少し念を押すと、デジタルカメラでさかんに云はれる“タッチパネルで直感的な操作が出來ます”は嘘である。パネルをぽちぽちしなくても、自分のカメラが今、どんな設定になつてゐるかが解る…目に見える方が遥かに“直感的”なんである。MZ‐3だと上から見た瞬間に、シャッター速度がどうで、絞り値がどうだと直ぐに解る。マニュアルフォーカスにしておけば、何メートルになつてゐるかも解つて、かう書けば、“直感的な”とはさういふことだと納得してもらへるだらう。植田くらゐの寫眞家には、非常に使ひ易いカメラだつたにちがひない。

 尤もかれがプロフェッショナルの寫眞家だつたかには、些か以上の疑念を感じる。寧ろ凝り性の数奇者…詰りアマチュアである…の撮つた寫眞が偶々、または結果的に商ひに転じたといつた印象がつよい。[閑文字手帖]がいつの間にやら本になつて、またそれなりに賣れてゐるやうなもので、判りにくい譬へになつたか知ら。譬へは兎も角、植田正治の寫眞をわたしは大きに好む。話がやうやく元に戻つてきた。

 ところでわたしの惡い癖は“形から入りたがる”ことで、中でも尊敬するたれかの眞似事は得意とするところでもある。この手帖でも多くの先達の眞似をしてゐるから、どこがたれの眞似か、閑でひまで仕方ない讀者諸嬢諸氏は、確かめてご覧なさい。そこで“形から入りたがる”惡癖に戻すと、今回の場合、植田正治のMZ‐3に痺れたんである。ペンタックスのMZ‐3でなく、“植田正治の”が大切。前出のインタヴューでは、77ミリをつけてゐると話し、レンズの交換は面倒だからあまりしないと續けてゐた。恰好いい。何がどう恰好いいと訊かれても、説明するのは六づかしいが、痺れるとはさういふ気分の筈で、わたしの頭からαはどこかに失せた。ミノルタには申し訳ない。

 以前にも触れた記憶があるのだが、気にせずに云ふと、手元にはペンタックスのレンズが2本、ある。SMC‐M28ミリF2.8と同50ミリF1.7で、外にトキナー28-105ミリもある。リコーの一眼レフ用に買つたので、いづれもマニュアルフォーカス。どのレンズもAポジションが無く、プログラム露光とシャッター速度優先露光は使へない。とは云へ絞り優先露光とマニュアル露光は出來るから、致命的な難点とは云ひにくい。詰りMZ‐3だけを入手すれば、直ぐに使へるわけで、中々具合が宜しい。流石に77ミリといふ妙な画角を使ひこなす自信はないから、そこはまあねと曖昧にして、同系列の43ミリなら、つけたままでもかまふまい。カメラ任せで撮る為に、ズームレンズの1本でも(廉価なので十分)考へる方法もあるだらうし、28ミリのオートフォーカス・レンズを探してもいい。勿論かういふスナップをする積りはなく、1枚1枚を考へながら惜しみながら撮る。どれだけ“形から入る”と云つたつて、名高いUeda-Chouは無理だけれど(あれは寫眞といふより絵画のセンスで撮られてゐると思ふ)、同じカメラを持てば、ひよつとしてと勘違ひくらゐはさしてもらひたい。

228 下る

 起き出して時計を見ると8時半くらゐだつた。ちよいと寝過したかと思ひながら、ネスカフェに牛乳を入れて2はい。トーストとうで玉子。それからマカロニ・サラドとハム(2枚)で朝めしをしたためてから、エコーを吹かす。吹かしながら、取り散らかした本を棚にしまふ。

 とんかつ(大根おろし檸檬醤油)と焼賣(辛子醤油)をつまみに、アサヒスーパードライを少し。寄せ鍋のおだし(前夜がさうだつたのだ)で中華麺を炊いたのを啜り込む。お腹がくちくなつたので、落ち着くまで待つて、家を出る。ヱビス・ビールを1本持たしてくれたのは嬉しいが、母親がそれをビニル袋に入れて

「開ける時はこれを使ひなさい」

と云つたから、苦笑ひした。おれはどこまで子供かねと云ふと

「子供やンか」

あつさりと切り返されたから、有り難くビニル袋入のヱビス・ビールを頂くとした。

 阪急京都線上新庄驛から準急で梅田驛。そこから旧國鐵大阪驛で新幹線のぞみ號の指定席を取らうとしたら悉く満席。ひかり號かこだま號を使ふのも癪なので…何しろ東下は遊びではない…、半時間ほど待てばいいよ、新大阪驛始發ののぞみ號の自由席に乗らうと決めた。中古カメラ屋を覗いて、使ひ捨てカメラ用のカヴァ(消費税込み1,800円)を買ひ、在來線で新大阪驛まで動いて、そこで念の為にサンドウィッチとキリンの一番搾りを買つた。何がどうなつて念の為かは判らない。

 新大阪驛の新幹線27番プラットホームから發車するのぞみ號に乗らうと思つて、上つてみると何だか空いてゐる風に見える。あれと思つたが、そこは指定席の乗車位置なのだから当り前である。自由席の乗車位置まで行くと、そこだけ既に混雑してゐてうんざりした。乗れなければ乗れないで仕方ないから、更に半時間後のに乗ればよいかと考へたが幸ひにうまく坐れた。發車は定刻からざつと2分遅れ。この程度なら遅れとは呼べない。

 混んでゐる。通路やデッキにも立つひとがゐてこちらは坐つてゐるから大変だなあと思ふだけである。車輌の出入口近くにも立つひとがゐて、そちらは手洗ひ側だから、他のひとが通る。その中のおつさんが、ひとが通る度に、迷惑さうな顔つきになつてゐた。そんなら1本遅らせればいいのにと、無責任に考へた。さうしたら京都驛から白人の爺さんが乗つてきた。東京行きの新幹線では京都驛を過ぎてから麦酒を飲むことに決めてゐて、既に一番搾りとサンドウィッチは用意してある。といふか、開けてある。こまつた。

 兎に角麦酒とサンドウィッチに手をつけ、手をつけながら考へた。ここからの停車驛は名古屋に新横浜、そして品川である。名古屋から新横浜はきつと車内が混雑する。こちらとしては坐つて東京まで辿り着きたい。併し相手は年寄りである。外國人である。日本式の敬老の態度を見せるべきではあるまいか。迷ひに迷つた。取敢ず飲食の間は飲食だから、勘弁してもらはう。さう考へると落ち着かない。うまい筈の一番搾りも索然と感じられる。迷惑な爺さんだとも思つたが、文句を云ふわけにもゆかない。

 それで度胸を決めて席を譲らうと思つた。根拠もなく、英語圏ではなからうと感じたから、そつと袖を叩いて、坐りなさいと身振りで示したら、爺さんも大きな身振りでこちらを押し留めて

「No, Thank You」

どこで降りるか知らんが、無理はいけない。坐りなさいよ…とは日本語ならさらさら云へるけれど、英語ですら翻訳して喋るのは無理だつたから、改めておとなしく坐つた。非常に照れ臭くて、また文句を云ひたくなつたが、たれへの文句なのだらうか。但し正直なところ、立たなくてもいいのかと安心もした。それなのでヱビス・ビールを開けた。ビニル袋の中で開けたら、泡が溢れてきたから、母親の判断は正しかつたと感謝した。

 名古屋驛で乗り降りがあつて、爺さんには連れがゐると判つた。おそろしく背の高い男性で、爺さんに“papa”と呼び掛けたから伜だらう。ローマの教皇猊下も“Papa”と呼ばれるさうだが、猊下枢機卿には見えない。伜はジャージを履いてゐるのに不細工でなく、腹立たしい。親子の会話を聞くともなしに聞くと、何を云つてゐるかはさて措いて、明らかに英語ではない。暫くして、どうやらスペインかポルトガルか、イベリア人なのだらうと見当をつけた。確かめてはゐないから、外れでも責任は持てない。

 途中、うつらうつらしてゐると、のぞみ號は浜松を過ぎ、掛川を過ぎ、三島を過ぎ、熱海を過ぎて、この辺りから戻つてきたといふ気分になる。気が早いと云はれさうだが、熱海には友人の勤める会社の保養所があり、何べんか泊りもしてゐる縁で身近に感じられる。尤も熱海の夜はまつたく知らない。温泉地のスナックなんて、面白さうなんだがなあと思つてゐるうち、小田原まで過ぎて車内が何となく、ざはめいた感じになつた。品川驛で降りるひとが多いのだらう。さう云へば窓外に町灯りが目立つてもきて、東京驛への着到はほぼ定刻。降りてから車内では喫へなかつたエコーを1本。中央線の快速に乗り換へて中野驛へ。晩めしを済まさうといふ算段である。どこにするか少し考へ、[海賊船]に決める。

 えらく賑つてゐて、大丈夫か知らと覗くと、ひとり分の席が空いてゐたから潜り込んだ。先客は顔見知り計りで安心する。黒糖焼酎の水割りをお任せで。“まんこい”を出してくれた。つき出しは豆腐と餃子と大根のソップ仕立てで。柚子や辣油、七味唐辛子で食べる。熱くてうまい。たつぷり盛られてゐるから、十分食事になる。お代りは矢張り水割りで“高倉”を駄弁を弄しながら飲む。序でにチーズを註文。どんなわけだか、八ツ橋が添へられてゐた。親と飲む麦酒や旧友と飲むヰスキィも美味いが、ひとりなのかどうなのか判らない場所で飲む焼酎も美味いものだと思ふ。“あじゃ”の水割りを飲み干して…さうだ、かう書くとえらい早さだと誤解されかねないが、莫迦話が忙しかつた所為もあつて、實にゆつくりした飲み方だつた。それで満足した。店を出て、下つたなあと思つた。

227 ゴミホルナ

 古い友人が大腸のポリープを切除したといふ。昨年(平成30年)末の話。その友人から

「切除後の飲食制限が終つた。遊びに行かう」

と誘ひがあつた。誘つてくる以上、体の具合は平気なのだらうと思つて、遊びに出た。何も決めない出た目勝負だが、例の通りである。

 友人は肥つた狐のやうな顔立ちをしてゐるのだが、1年ぶりに見ると、少し計り細くなつてゐる。術後の影響か知らと思つたら、体重を絞つてゐるのだと云つた。それはかまはないとして、色の入つた眼鏡をかけた顔は、やくざ映画に出てゐた大杉漣のやうで、をかしかつた。

 天神橋筋六丁目驛で降りて、歩き始めた。ひとまづ中崎町から扇町を経て、梅田まで。“新製品80円”と書かれた自動販賣機があつて、側面に王さまの顔が描かれてゐる。キャッチ・フレイズにいはく“愛されるKing”ださうで、あの近辺はいつの間にか王國になつたらしい。知らなかつたなあ。

 梅田で中古カメラ屋をひやかした。ニコンのオウナー(FE2NewFM2/TとFM3A)である友人は、モーター・ドライヴMD‐12を買はうかどうか、迷ふふりをした。毎回のことなので、こちらも無責任に買へばいいよと煽つた。店の正面にはフヰルムと一緒に使ひ捨てカメラが並べられ、その使ひ捨てカメラ専用のカヴァが賣られてゐた。その値はたつたの2,000円。カメラ本体にストラップまでついた“プレミアム・セット”ですら2,700円で

「これを買つても、“新品カメラの衝動買ひ”になるもンかね」

大笑ひした。使ひ捨てカメラと書いたが、名目はレンズつきのフヰルムである。そこにカヴァを被せても、それは“カメラのやうな見掛けのフヰルム”に過ぎない。

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 肥後橋まで歩いて、四ツ橋線の四ツ橋驛で降りた。心斎橋から千日前。この間、気が向けば寫眞を撮る。かれは久しぶりに持ち出したといふオリンパスのE‐M10、わたしは例のパナソニックGF1で。ふざけてはゐないが、没入もせず、かういふ感覚は意図して得られるものではない。難波の地下街でホット・サンドウィッチとアイス・コーヒー(大坂風だと“冷コー”)で晝めし。

 日本橋の元電気屋街をぶらぶらしつつ、30年余り前を思ひ出した。正月早々からお年玉や貯めたお小遣ひを突つ込んで、CDプレイヤー(若い讀者諸嬢諸氏には信じ難からうが、当時は50,000円くらゐしたのだ)を値切つて買つたものである。

 「あの頃は、我慢が出來ンやつたなあ」

 「100円単位で値切つたからな。お店のひとにはえらい迷惑な話やつたらうぜ」

笑ひながら灯の燈つた通天閣を眺めた。建物や何かのライトアップは大体の場合、惡趣味に陥るのが常なのだが、新世界といふ土地柄か、その惡趣味が却つて似合ふ。そのままジャンジャン横丁に入ると、矢張り(決して花やかでもきらびやかでもなく)けばけばしい。どて焼きだの寿司だの天麩羅だの串かつだのの暖簾がひどく魅力的で、立ち飲みを何軒か廻りたい気もされたが、何せ相手はポリープを切つた後である。控へるのが宜しからうと思つたら

「飲食の制限は終つとるからな。そつちは気にせンでも、かまンよ」

それで地下鐵の堺筋線に乗り、扇町驛で降りた。

 天神橋筋商店街から筋をひとつ外れたところに[てぃだ]といふ店がある。獨逸麦酒と泡盛、ソーセイジとザワークラウトにちやんぷるーとてぃびちーを同時に樂しめる妙な店なのだが、残念なことに休みだつた。外に開いてゐるお店は幾らでもあるからまあ

「どないにでも、なるやろ」

暫くうろちよろしてゐたら、ヱビス・ビールとギネスの看板が目についた。ヱビスとギネスの看板を出すくらゐだから、間違ひはないだらうと意見の一致を見て、入ることにした。

 [肴や]といふ小さな飲み屋。U字型のカウンタでの立ち飲みと、丸卓子が3つ計り。卓子に坐つたわたしの最初の一ぱいはハーフ・アンド・ハーフ。ヱビスを註文した友人はゆつくりと呑みながら、美味いと呟いてゐる。元々の酒量は少ないが、1週間余り、酒気から離れることを余儀なくされたのだから、尤も感想もである。おれならとても我慢出來ないなと考へた後、椎間板ヘルニアで入院した時は、飲まない…飲めない期間はもつと長かつたのを思ひ出した。わざわざ口に出すほどのことでもない。病気自慢と不幸自慢は老人の惡癖と云つていい。

 セロリのマリネー。

 マッシュト・ポテトの大蒜マヨネィーズ和へ。

 鰤の塩焼き。

 鶏肝の煮つけ。

 この辺りで焼酎に移る。わたしは水割りにしたが、友人は“薄まるのが厭だ”と、割らずに。平気かと思つたが、嘗めるくらゐの速度だつた。ポリープが見つかつてからの検査の話を聞いて、気の毒だなあと思ひつつ、大笑を禁じ得なかつた。些か尾籠な話でもあるから、詳らかには書かないことにするが、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏には、消化器系を大切にしてもらひたい。

 チーズの盛合せ。

 ねぎまの串。

 外の話題は大体くだらなく、また他愛もない。眞面目なことだつて話せなくはないが、眞面目な話は眞面目な時にするべきだらうと思へる。端からすると、いい大人が何を喋つてゐるのか知らと苦笑されさうで、そこはまあ否定しない。否定はしないとしても、さういふ莫迦話だけで、半日余りを過ごせるのは矢張り、贅沢といふものではあるまいか。天満から地元に戻り、もう少し飲んでから、おやすみを云つた。

226 長閑な春

 お屠蘇を一ぱい。

 お雑煮のお餅はふたつ。

 更に醤油でもうひとつ。

 棒鱈、蒲鉾、昆布巻き。

 結び蒟蒻と小芋を焚いたの。


 我が親愛なる讀者諸嬢諸氏に、新年のご挨拶を申し上げる。


 春は長閑。