閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

538 アブラゲの許容範囲

 大坂人が"きつね"と云へば、それはきつね饂飩である。澄んだおつゆに、ふくふくとあまい油揚げ(大坂方言だと"アブラゲ")が浮んでゐて、まことにうまい。天下の美味などと大袈裟な話ではなく、その辺の饂飩屋でも驛構内の立ち喰ひでも旨いし、母ちやんが作つてくれたのも旨い。

 東都にはきつね蕎麦がある。あることは山下洋輔の本で讀んで知つてゐた。初めて啜つたのは東都に棲んで三年くらゐ過ぎてからで、どこだつたらう。神田近辺の立ち喰ひ蕎麦屋だつた気がする。記憶が曖昧といふことは、失敗した母ちやん製のきつね饂飩より、感心しなかつたらしい。

 併しここで神田(だらう)立ち喰ひ蕎麦屋を責めるのは、酷な態度である。当時のわたしは蕎麦じたい、そこまで旨いと思つてゐなかつた。要するに舌の許容範囲が狭かつた。

 何が切つ掛けにだつたか、そこははつきりしない。兎にも角にも、蕎麦をうまいと感じだしたのは東都で何年かを過してからで、我が東都の讀者諸嬢諸氏から

 「すりやあまた、にぶい」

呆れられさうだが、實際さうだつた、見栄を張つても仕方がない。さうかうしてゐると、立ち喰ひ蕎麦も旨いと思へてきて、麺好きに思想があるとしたら、これは転向だらうか。

 ただ神田以來、きつね蕎麦を註文したのは片手の指で佳寿へられる程度だつたから、自分でも頑な態度だと思へる。きつね饂飩にそこまで義理があるわけではないし、きつね蕎麦を積極的にまづいと思ひもしなかつたから不思議である。もしかするとどこかで

 「(きつね饂飩は)大坂の象徴的な食べもの」

とでも感じてゐたのか知ら。その辺の気分を遡つて確かめられないのは残念に思はなくもない。

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 過日きつね蕎麦を喰つてみるかと思つたのはただの偶然、或は気紛れにすぎない。たまに入る(ほぼ)立ち喰ひ蕎麦屋の前を通つた時、きつねそば三百円の品書きを目にして、その積りになつたのだ。椅子に坐ると親仁さんが

 「今日は何にしませうか」

と訊いてきたから、きつね蕎麦を頼みますと云つて、こつそり驚いた。"今日は"とは、顔を覚えたから云へることで、併し覚えられるほど通つた筈はない。註文して、代金を払ひ、平らげたらご馳走さまと店を出るだけだから、有象無象のひとりと思つてゐた。客商賣はすごいものだ。

 東京風のつゆに白葱。

 三角に切られた平つたい油揚げ。

 前に食べたのは何年前だつたか、確かにその時もこんな感じだつたのを思ひ出した。半枚の油揚げを横に寄せ、七味唐辛子を振り、思ひきつて啜ると、その油揚げの歯応へと葱の香りの相性が好もしく、存外なほど旨いから驚いた。

 その好もしさ、気障に云へぱ調和は、つゆの醤油…銚子か野田か、いづれにしても下リものではないやつ…がもたらしてゐるのだらう。大坂流のつゆや青葱では、油揚げが和事の舞台で荒事の役者が見栄を切るやうな感じになる。逆もまた然りで、大坂の油揚げが東都の蕎麦に入ると、荒武者に囲まれる手弱女になつて仕舞つて、どちらでも甚だ不釣合ひなのは変らない。

 啜りながら考へなかつたのは勿論である。そんなことをすると、存外に旨いきつね蕎麦がまづくなる。とは云へ、正直なところ、きつね饂飩から宗旨替へをしたくなるほど旨いとは思はなかつたのも事實で、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏から

 「許容範囲とやらは、まだまだ狭いねえ」

笑われるかも知れない。が、わたしからすると、きつね饂飩ときつね蕎麦ではお馴染みの度合ひがちがふ。見直しはしたつて順位までは変らない。但しこの偶然乃至気紛れは失敗ではなく、次がいつになるかは見当がつかないにせよ、また偶然か気紛れできつね蕎麦を註文する日があるだらう。尤もきつね饂飩は未だ、その気分を感じないけれど。

537 寒い夜、心平かに

 寒くなるとおでんが恋しくなる。

 と書いたのはいいが、わたしが好むおでんの種は精々

 

 大根

 玉子

 厚揚げ

 牛すぢ

 糸蒟蒻を結んだの

 飯蛸

 

 くらゐだから、そんなに多いとは云へない。

 云へないがさうしたら

 

 はんぺんはどうした。

 餅巾着を外すのは如何なものか。

 薩摩揚げを忘れるのは許し難い。

 

 各方面から聲が上がりさうで、ここはもう、おでんといつても色々あるのだから仕方がないと居直りませうか。

 

 田樂といふのがありますな。串に刺した豆腐を温め、味噌で食べるやつ。丸谷才一の『食通知つたかぶり』に、伊勢だつたかで、その豆腐の田樂(小さな塗り箱で供される)を食べるくだりがあつて、旨さうな描冩だつたな。

 味噌田樂なら蒟蒻でせうと抗議するひともゐさうだし、實際蒟蒻の田樂も旨いと思ふが、ざつと調べた限り、豆腐が先らしい。いづれにしても、串に刺して温め、味噌を塗るのが田樂と考へてよく、おでんの呼び名は女房詞による転化…丁寧さを示す御が頭に附き、樂が省略された…である。官女も田樂…訂正、おでんに舌鼓を打つたのか知ら。

 宮中の事情はさて措き、温めるのはこの場合、茹でるか焼くかの筈で、どちらを撰んでも中々贅沢な調理法だと思ふ。何しろ薪をたつぷり用意しなくてはならない。地下人が田樂で一ぱい、呑るべえと気がるに云へるまで、随分と時間が掛つたことだらう。現代人でよかつた。

 

 ところでその現代おでん。

 出汁を張つた大きな鍋に色々の種を入れて煮込む料り方が成り立つたのは、江戸期の終り頃以降かと思へる。

 勝新太郎がおでんを頬張る場面が『座頭市』…あの映画は天保年間、詰り幕末の少し前が舞台…にあつて、その時は串で煮てあつた。但し座頭市は辛子を("喰ふ積り"でたつぷり)つけたから、田樂方式とは呼べない。

 上の場面からは、おでんが流浪のやくざ者がちよいとつまめるくらゐ、ありふれてゐたとも考へられる。映画は根拠にならんよと云はれたら、確かにさうだけれど、時代考證はなされた筈だから、根拠は兎も角、参考程度には出來さうな気がしなくもない。

 

 天保といへば江戸の醤油は、既に関西から運ばれた下リものから、銚子や野田産へと主流が移つてゐたかと思ふ。更に云ふと、鰹節を削つて出汁を引く技法も確立してゐたに相違なく、詰り自前の材料で、つゆとつゆを使ふ料理を用意出來た。きつとそれで頭の切れる親仁が

 「味噌を別に誂へるより、つゆで(豆腐や蒟蒻を)煮けば早いんぢやないか」

と思ひついたのではあるまいか。實際はどうだつたか知らないが、どうせどこかの店で評判になつたのを受けて、あちこちで眞似をしたに決つてゐる。現代の目で云へば権利だの何だの、面倒な話になるにちがひないと思ふと、盗みあひが許される…といふより当り前の時代に、現代おでんの原型が出來てゐてよかつたと思ふ。

 

 その現代おでんを贔屓にした吉田健一曰く、酒呑みは酒があれば満足で、外に何か望むとしたらおでんくらゐだと書いてゐる。酒通が云ふ山葵だの焼き海苔だの塩だのでなく、おでんを求める辺り、あの批評家らしいと思ふのは、わたしの勘違ひか。

 ところで晩年の吉田は珍味佳肴の並んだ卓についても、殆ど箸を伸ばさなかつたらしい。相伴したひとが勧めても

 「見れば旨いのは解ります」

と盃を舐めるに留めたさうで、粋もここまでゆくと、羨ましくない。併し、とここからは想像になる。吉田だつて、獨りで呑む夜には、ちよつとした肴を味はひはしただらう。もしかしておでんの豆腐をつまんだかも知れない。かういふ想像は愉快なもので、こちらも寒い夜、心を平かにして、熱燗を一本、つけてもらひたくなつてくる。

535 盆栽小鉢

 小鉢や小皿に盛られた料理は旨さうに思ふ。三種類くらゐが纏めてお盆に乗つて出されると、贅沢が詰つた感じがして、嬉しくなつてくる。若い胃袋には奨めにくいけれど、それは若い胃袋の所為だから、わたしにはどうにもならない。

 かういつた供し方は外ツ國にもあるのだらうか。点心は近さうに思ふが、焼賣と春巻と海老がそれぞれ小皿に乗つて、同時に出てくるわけではない。西洋に目を向けても、オリーヴの實と無花果とサーディンが、手を取り合つて登場するとは考へにくく、どうもこの盆栽趣味風の手法を悦ぶのは、我が邦のある年齢層以上に限られるのではなからうか。巴里の外れでbonsaiスタイルと銘打つて出したら、ジャポニスムかぶれの佛人から褒められさうな気もする。

 ぢやあ何を出せばいいかと云ふと、格別の決りもなく、塩つ気のきついやつがひと品あれば嬉しいが、無くてもこまらない。ちまちま纏まつた贅沢を一望に眺めることを思へば、色めは異なつてゐる方が好もしいか。たとへば菜つぱの緑に大根の白と鮭の紅いろ。色や姿の取合せを樂みながら呑むのが愉快に感じない道理は無いといふものだ。

 その盆栽…訂正、小鉢小皿で供されるおつまみで何を呑むかと頭を悩ます必要はなくて、矢張りお酒が望ましい。麦酒や焼酎に適はないと云ふのは些か乱暴だから口にしないとして、ああいふ酒精には、ミンチカツや焼き餃子や豚肉の煮込みをどんと出してもらひたい。お酒に次ぐのは葡萄酒だけれど、葡萄酒に適ふおつまみの殆どはお酒にも適ふ。更に小鉢小皿とあはせた時の見た目まで考慮すると、葡萄酒は一歩、いや半歩及ぶまい。

 かうなるとどんな銘を撰べばいいんだと思ふひとが出さうだが、気に病まなくても、当り前のお酒…詰りお米と麹と水で醸してあれば、あまくても辛くても、お好みにあはせればいい。醸造アルコールを添加するのが惡いとは云はない。但しあの技法は、味はひや香りを調へる…ヰスキィで云ふブレンドに近い…のが目的。上手が醸れば、廉でうまい、呑み助が目を離せないお酒になるのけれど、中々六づかしからう。

 なので気に入りの銘柄があれば、それを呑めばいい。無ければ、或は判らなければ、味香の調へよりぐつと簡単で

 「この"おつまみ盛合せ"に似合ふお酒は何ですか」

と訊けば済む。そこで、口当りのかるいやつとか、ずつしりくる感じとか、花やかな香りが好きとか、自分の好みを大まかに伝へられればもつといい。判らなければ教はるのが一ばんで、わたしはさうしてゐる。

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 最近で云へば[天賦](珍しい薩摩の銘柄。訓みは"テンブ")や[手取川](苦手な筈の山廃仕込みなのに)が出色だつた。とは云ふものの、ここでややこしく、または面倒なのは、[天賦]や[手取川]に限らず、近年の佳く出來たお酒には、自身の味で完結する傾向がある。旨いのは悦ばしいとしても、肴から距離のある旨さではこまる。異論があるのは判るけれど、佛人がチーズ抜きの葡萄酒、獨人ならソーセイジ無しの麦酒を赦さない(だらう)のと同じく、倭人はお酒に肴を尊びたい。

 その一方、お酒には豪勢な料理(たとへば満漢全席)を求めない性格がある。侘しい食べものが似合ふと云つては乱暴だが、塩梅を心得た焼き魚や煮物にお漬物で満足出來るのも事實の一面であらう。気に入りのお酒があり、小皿に〆た鯖、小鉢で焚いた厚揚げに酒盗(ソーセイジにチーズ、それからザワークラウトでも)がちまちまと用意されて、頬を緩めない呑み助はゐないだらう。さういふ盆栽(ここはbonsaiか)趣味の呑み屋が様々あれば嬉しいが、意外なくらゐに見当らない。手間の割りに儲けを出しにくいとは考へられるが、その手間がちやんとしたものなら、適切な対価に否やの聲は出ないとも思はれる。それとも盆栽好みを悦ぶのは、わたしのやうな年寄り世代なのだらうか。

534 我儘拉麺

 若い頃…と云へる年齢になつて何年経つたものか…は、呑んだ後にラーメンを啜ることが少からずあつた。夜中に開いてゐるラーメン屋なんて、大してなかつたし、そもそもが醉つてゐるから、旨いもまづいも判らなかつた。味を覚えてゐないのだから、特段に旨くもまづくもなかつたのだらう。

 今ではそんな気分にならない。醉つた帰りに慾しくなるのはもり蕎麦で、それも安つぽい立喰ひがいい。つゆに温泉卵を割り入れて啜りこむ。藥味を使ふなら七味唐辛子。蕎麦の香りだのつゆの味はひだのは、この場合、冷たさの脇役となつて、立喰ひだから出來る暴挙とも云へるか。

 随分と以前に無くなつた串焼き屋で、袋入りの即席麺を出す店があつた。野菜炒めや半熟卵を乗せ、ソップにも少し手を加へ、二百五十円か三百円くらゐだつたと思ふ。二へんほど喰つたが、決して惡くなかつた。流石につまみに出來はしなかつたけれども。

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 周章てて念を押すと、この画像はその袋麺ではない。ラーメンとも呼び…書きにくく、拉麺とここは記す。字の用ゐ方が正しいかどうかは兎も角、わたしの気分に適ふからで、これにはちやんと理由がある。臺灣…臺北風の云はば湯麺だからで、勿論多分に日本人の舌へあはせてはゐるのだらうが、所謂ラーメン屋で食べられるのとは異なる味はひだつた。

 そんなら何がどう異なつたのか、と疑問を感じるのは当然で…正直なところ、出汁の取り方がちがふのか知らと思へる以上は判らない。お店を切盛りする小母さんの話だと、臺北ではトマトで出汁を取つたりもする(我われの考へるトマトのソップに近いと思はれる)さうだから、出汁といふものの捉へ方自体が異なつてゐるのか。

 といふささやかな考察は横に措いて、この拉麺が旨かつたのは確かである。ことに野菜の炒め方が巧妙で、火と油の使ひこなしなのだと思ふ。軟かく煮た豚肉には八角だらうか、わたしには馴染みの薄い香り附けがされてゐる。鼻につくほどではないとしても、中華で用ゐる香草香料が苦手なひとは気になるかも知れない。

 目玉焼きを使つたのには驚いた。画像では見辛いけれど、左下に沈んでゐる。白身に火はしつかり通つてゐるのに黄身は半熟。熱いソップのお蔭で広がらないのが、寧ろ宜しい。率直なところ、奇妙に感じたが、臺灣で生卵を食べる習慣はない筈だから(小母さんに訊かなかつたのは失敗だつた)、麺類に玉子を悦ぶ我われへの気遣ひだつたとも考へられる。

 

 ところで。

 ここからは半分くらゐ自慢話になる。

 なので自慢話がきらひな方々は讀まない方がいい。

 その臺北呑み屋の小母さんに、わたしは顔を覚えてもらつてゐる。なので多少の融通をきかしてもらへる。拉麺に融通も何もと思ふのは間違ひで、詰り旨いのはいいけれど、ここの料理は、こちらの胃袋に些か量が多い。食べきれないのは勿体無いから、ちよいと少な目にしてもらふなんて、出來ますかと頼んでみた。さうしたら

 「いいですよどれくらゐにします」

と云つてくれた。有難いなあと少し考へ、麺を半分ほどにしてもらつた。かういふ我儘を云ふには、それなりに通つて、よいお客だと思つてもらはなくちやあならない。どうです、わたしが紳士といふ、(間接的な)證明でせう。尤も正直なところ、この我儘は失敗だつた。減らさなくても十分に旨い拉麺だつたからで、この辺りの讀みのあまさは大きに反省しなくてはなるまい。