尊敬する吉田健一の『酒肴酒』(光文社文庫)に、こんなくだりがある。
[酒飲みにとって、うまい酒さえあればほかに何も欲しいものはない。もしあれば、おでん位なものである。飲みたいから飲み、食べたくなれば、豆腐の一つも頼んで、別に懐と相談する程のことはなかったから、夜は長々と更けていった]
うまいことを、云ふものだなあ。呑み助の鑑とは、かういふ態度と呼ぶべきか。尤も私なんぞは、未だうまい酒があればいい、と云へる域まで達してゐないから(喜んでいいのか、耻ぢるべきか)、“豆腐の一つ”だけでは、残念ながら物足りない。
厚揚げ。
大根。
牛すぢ。
うで玉子。
結び蒟蒻。
餅巾着。
さらに幾種もある練りものーはんぺんや棒天やごぼ天や竹輪、或は蛸や鯨や手羽、また吉田が好んだ(と思へる)焼き豆腐と、挙げてゆけばきりがない。ほかにも地域特有だつたり、風変りなおでん種もある筈で、さう考へると、おでんの世界は實にひろい。
さてここで。敬愛する田辺聖子女史の『浜辺先生、町をゆく』の一篇に、草臥れた風情の老紳士が、二品ほどのおでんを前に、舌を“たツた”と鳴らし、呑んでゐる場面を思ひだした。その姿を目にした浜辺先生は、おでんで呑むのは、かうでなくちやあと、我が身を振り返るのだが、その草臥れた老紳士の心境は、“うまい酒があれば、ほかに何も欲しいものはなく、あるならそれは、おでんくらゐ”ではなかつたか。女史が『酒肴酒』を讀んでゐても不思議ではなく…文學は繋がるものなのだ。
感嘆はさて措き。
あの愉快な短篇聯作を思ひだしたのは詰り、老紳士のくだりが、印象的だつたからで、どうやら私が
「おでんは山盛りにして、食べるものではない」
さう思ひこむに到つた事情は、この辺に隠れてゐるらしい。文學は繋がるだけでなく、食べものの嗜好にも影響を与へるらしい。
とは云へ、おでんは焼き鳥に似て、出されたら熱いうちに、素早く平らげないと、味がぐつと落ちる。詰りおでんを註文する時は、うで玉子に厚揚げ、大根と牛すぢのやうに、順を追ふのが望ましい。それで舌を“たツた”と鳴らしながら摘み、お燗酒をちびちび含めば、肌寒い秋の夜に、こんな嬉しい時間はないといふものだ。懐と相談する程のこともなく、夜は長々と更けゆくだらう。さうさう、おでんの望ましい順序は讀者諸嬢諸氏よ、ご自身で試し撰び玉へ。
