閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

450 技倆めし

 不意に頭に浮ぶと落ち着かなくなる食べもののひとつに炒飯を挙げたい。作るのはさう六づかしくない。但し旨い炒飯となつたら話は別で、旨いオムレツを作るのに並ぶくらゐの困難があるのではないかと思ふ。単に作るのと美味しく作るのはまつたく別である。両者に共通するのは火に掛けたら一ぺんに素早く仕上げる事で、その技術のちがひが、出來のちがひとして露骨に現れるのだらう。

 一方に焼き飯といふ料理がある。炒飯のやうな食べもの。但しどうも炒飯とはちがふ(らしい)食べもの。慌てて念を押すと、焼き飯は"ヤキメシ"と訓む。"ヤキイヒ"と訓むと現代で云ふ焼きおにぎりに当るから、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏には留意願ひたい。

 では炒飯と焼き飯ではどうちがふのか。京都調理師専門学校の[ピラフとチャーハンの違いとは?]には

 

 実は、焼き飯にも明確な定義があります。焼き飯は、日本の関西が発祥の地とされています。フライパンの上で炒めるというよりも、鉄板の上で具材を焼くイメージで混ぜるため、焼き飯と呼ばれています。つまり、焼き飯は鉄板文化の中で生み出された料理であり、ピラフやチャーハンとは鉄板を使用するという点において大きな違いがあります。

 

と書いてある。"明確な定義"とは云ひにくい(何をもつて関西發祥とするのか、裏附けが曖昧)気もするが、確かに焼き飯が鐵板焼きやお好み焼きの変形乃至延長から生れた可能性は否定出來ない。ざつと調べても資料や文献が見当らなかつたのが残念でならない。

 ここで閑文字手帖式の定義を試みるとごく簡単で、家庭で親が休日の晝に作つて呉れるのが焼き飯。お店で食べるのが炒飯と区別したい。なので焼き飯には

 「冷藏庫の残り物を使ふ」

性格が色濃くある。竹輪やハムの切れ端、或は魚肉ソーセイジが入るのはその間接的な證拠であつて、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏の記憶にも、さういふ焼き飯の味があるでせう。妙

に油つぽく、変に味が濃いか極端に薄いか。そのくせお茶碗か何かで半球の姿に仕立てられた午后の焼き飯は、ご馳走とは呼べなくても嬉しいメニュだつた。

 お店で食べるのは炒飯だから、さうであつてはならない。卵と葱と叉焼。ごはんははらりとしてもらひたいし、卵はふはりとなつてゐてもらひたい。海老は要らないし、グリン・ピースは邪魔であり…詰り炒飯は簡潔をもつて最良とする。たださうなると、中華鍋を振るひとの技倆が剥き出しになるわけで、お店としては出しにくからう。炒飯に様々の種類があるのは(たとへば五目や餡かけ)、その辺を考慮した事情にちがひなく、中華鍋のあの重さを思へば同情の余地はある。

 そこは認めてもいいとして、それでも不意に浮ぶのは何とかハムを使つたやつでなければ、豪勢な海鮮を惜しみなく使つたやつでもなく、卵と葱と叉焼の簡潔な…いや寧ろ無愛想な炒飯であつて、それは単に

 「丸太の舌の想像力が貧弱なだけだよ」

と揶揄はれたら、頭を掻いて誤魔化す。誤魔化しながら、絢爛豪華な炒飯つて旨いのかなあと腹の底で呟くけれども。オムレツもさうだが、世の中の食べものには、必要最小限の組合せで完成してゐて、それ以上はあつても惡くはないにしても、無ければ無いで困りはしない。技倆で食べさせるめしはさういふものである。

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 念の為に云ふけれど、竹輪が入つた油つぽい焼き飯は別枠ですよ。あれは別枠だけに週末のわくわくなのである。

 

【参照URL】

・京都調理師専門学校ーピラフとチャーハンの違いとは?

https://www.kyoto-chorishi.ac.jp/blog/19338/

449 縄文の塩焼き

 ふと気になつたので、鯖の塩焼きの作り方を調べてみた。

 

 先づ鯖の切り身に塩を振る。

 暫く置いてから水気を切る。

 もう一ぺん塩を振つて焼く。

 

 煎じ詰めるとたつたこれだけで驚いた。本当かと思つて確めると、本当になのでまた驚いた。そこに大根おろしだの醤油だの酢橘だの薑だのがあればもつと歓ばしいけれど、焼きたてなら無くても特に不満は感じまい。

 なーんだ、簡単ぢやあないか。

 と考へて、いや待てよと自制心が働いた。鯖の具合を見、塩を撰び、振る量を調へ、火の調子を見計らつて焼くとなると、その手順は簡単ではなく簡潔で、簡潔な分だけ六づかしいのではあるまいかと感じたからで、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏よ、この冷静さに手を拍つてもらひたい。

 

 いつでも食べられて、しかも旨い魚といふ一群を想定した時、鯖が鯵鮭と並ぶ重要な地位を占めるのは間違ひはない。鯖料理をいちいち挙げる煩は避ける。詰りそれだけの種類に恵まれてゐるので、鯖料理だけで撰手権を開けもする。また仮に世界鯖料理撰手権があつたとして、鯖の塩焼きが決勝戰まで進むのもまた容易な想像である。

 スウェーデンノルウェイから苦情が出るか知ら。

 「なんてつたつて、あたしのママが作る鯖の燻製が最高なんだから」

さう胸を張られたら、それはまあ、さうなんだらうなあとは思ふ。思ひはするんだが、そんなら

 「おれのばアちやんが炊いた鯖の味噌煮ほど、美味いものは無いさ」

といふ反論も成り立つ。鯖が原因で日本と北欧がいがみ合つては堪らないから、撰手権に家庭料理の出場は遠慮願はざるを得ない。我が北欧の讀者諸嬢諸氏には諒とされたい。燻製や味噌煮も實に旨いのだから。

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  さ。話を鯖の塩焼きに戻しますよ。

 塩を振つて焼くのは、調味と調理の基本…といふより原型であらう。何が最初なのかなんて、勿論解る筈がない。我が國では縄文期から…とは云へざつと一万三千年ほどに渡る期間のどの辺りからなのか…食べられてゐたらしい。生き腐れと云はれるくらゐ足の早い魚なのに、縄文人にとつても旨い魚だつたのだな。

 おそらく最初は海水で煮立てた(大きな貝殻か亀の甲羅が初期の鍋だつたらう)にちがひない。それで

 「塩味とこの魚は適ふのだ」

といふ経験則を得て、塩を精製する技術が出來て、この間に何百年何千年過ぎたか知らないが、我われの遠いご先祖は鯖に執着し續けた…となると、果して旨いだけが執着の理由だつたのかと疑問が浮ぶ。詰り食べ續けられるほど、鯖はありふれた魚だつたのではあるまいか。我が國の鯖食は短く見積つて三千年に及ぶ事を思ふと、俄には信じ難い。尤も縄文期の人口は多くても卅万人まで達さなかつたらしい。仮に卅万人としても、鯖を常食出來たのは限られた漁撈民の更に一部であれば、鯖の生態系を壊すほど獲り尽くせなかつたと考へても筋は通る。我われにとつて、幸運であつた。

 矢張り、ごはんに適ふ。ごくありきたりに、お味噌汁、菠薐草のおひたしか若布と胡瓜の酢のもの、白菜のお漬物があれば満足。鯖は意外と脂がきつく感じられるので、口を洗へるやうな添へものを用意するのが宜しからう。

 「要するに、鯖の塩焼き定食だね」

と笑つてはいけない。食事の型といふやつは長年の経験に裏打ちされてゐる。またこの型は(云ふまでもなく)お酒にも応用出來る。ごはんとお味噌汁を引つ込め、徳利とお猪口、大根おろしにすればそのまま晩酌になるでせう。麦酒や焼酎だつてかまはないが、鯖の脂と渡り合ふ足腰の重いのでも、切れ味のすすどいのでも、好みのお酒を調へる方が、満足の度合ひは高さうである。さうして鯖の塩焼きを平らげながら、我らが縄文の人びとの鯖食に思ひを馳せるのは、惡くない樂みではなからうか。

448 特権マウント

 公式にはElectro Optical Systemの頭文字でEOSだと記憶してゐる。初代機のEOS650は昭和六十二年發賣。旧國鐵が分割され、アンディ・ウォーホルが亡くなり、利根川進博士がノーベル賞を受賞した年でもある。

 わたしが最初に買つたのは初代から三年後に發賣されたEOS1000で、その後同100、同RT、同5と買ひ替へた。手元にあるのは一度友人に譲つたEOS100と、中古を買つたEOS1000の二台。但し後者はシャッター幕が加水分解する持病が出てゐるから使へない。とここまで書いて、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏は

 「デジタルの一眼レフにもEOSはある筈だが」

と首を傾げるかも知れない。その通り。ミラーレス方式の機種にEOSの冠がついてゐるのも知つてゐる。買つてゐないだけの事で、併し何故だらうか。我ながら少々不思議に思ふ。

 ごく単純な理由として、デジタルEOSが發賣された当初、こちらの財布に高額と感じられた事は挙げていい。大きくて重くて分厚い姿が非常に不恰好と思へた事も挙げていい。フヰルムEOSがほぼ完成し、デジタルEOSがのろくさと(さう思へたのだ)出てきた時期は重なつてゐて、前者の軽量と軽快が後者に感じられなかつたと云つてもいい。その印象が頭のどこかに残つてゐるのだらうか。有り得る。一体わたしは保守的を通り越して臆病な男だから。

 ぢやあデジタルEOSは慾しくないのかと訊かれたら、キヤノンには申し訳ないけれども、首肯せざるを得ない。ミラーレス式EOSは鈍重でないから例外と思へるが、わたしにとつてのEOSは(フヰルム)一眼レフを示す記号なので、EOS Mや同Rには違和感がある。これだから老人はたちが惡い。

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 EOSが偉大なブランドなのは間違ひない。フヰルム時代の好敵手だつたニコンのFはデジタル化でDになり、ミノルタのαはソニーに成り下がつた。ブランドと共に基本的なシルエットを残してゐる一眼レフはEOSくらゐである。更に云ふとEFマウントが開發当時から大きな変化をせず、現行機まで引き継がれてゐるのが凄い。その前のFDマウントを(ユーザーと共に)切り捨てたのは思ひ切つた決断であつた。先鞭をつけたミノルタが、αのAマウントからベクティスのVマウントを経て、Eマウントに(事實上)移行したのを思ふと、令和の今も現役のマウントなのは、最初の設計…その前の方向性が正しかつた事を、間接的に證明してゐる。さう考へると敬意を表する意味でEOS、使へるEOSを一台、持つておくのは決して惡くない。

 いやそれより、EOS100を使ふ為のレンズ(EF50ミリ/F1.8はあるけれど、ギアの具合だか何だかがをかしい)の入手が先決だらうか。その辺の中古を買へば直ぐ使へるし、仮にデジタルEOSが手に入つても(ざつとした使ひ方は変らないだらう)、そのまま流用出來もする。さういふ可能性ー先の樂みも持てるのは、EOSオウナーの特権ではあるまいか。

447 たかがと云ふなかれ

 東都人がミンチカツをメンチカツと呼ぶのには未だ馴れないくせに、茹で玉子だとうで玉子…厳密には聲に出すなら"ゆで"で、文字の時は"うで"…と云ひたくなる。何故と訊かれても、好みに属する部分なので、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏にはご容赦願ひます。

 一体わたしはうで玉子を悦ぶたちである。それも堅茹でがいい。生卵や半熟卵がきらひなわけではなく、はつきり順位をつけられるわけでもないが、堅うで玉子ならいつでも歓迎したい。朝の麺麭に添へてよく、晝の饂飩に乗せてもよく、晩酌の豚の角煮にうで玉子が無いなぞ、想像が及ばない。

 そのままを塩かマヨネィーズで食べる。

 ホークで崩してツナ罐と混ぜあはせる。

 醤油と煮切り酒や味噌に漬け込む。

 さういふ簡素な食べ方で美味しいのは勿論だが、輪切りにしてトマトやチーズやハムとサンドウィッチにしたり、鰯の罐詰やベーコン、レタース、胡瓜と賑やかなサラドに仕立てるのもうまい。

 いつだつたか、あるお店でトーストに崩したマヨネィーズ和へうで玉子のサンドウィッチに刻んだたくわん(こちらは内田百閒の眞似)の小皿を出してきて、一緒に食べると旨かつたから感心した。思ひ出し序でに、別のお店では"ばくだん"といふ名前で串揚げにしてゐた。鶉卵より重々しくて豪勢で、ウスター・ソースをどつぷりかけて喰つた。手を拍つほど旨いとは思はなかつたけれど、百円とか百五十円くらゐの値段だつたから、十分に及第点を出していい。

 尤もわたしが一ばん好むのはおでんのうで玉子である。厚揚げや大根、結び蒟蒻、牛すぢでお酒…麦酒でも焼酎でも葡萄酒でも一向かまはない…をやつつけた後に入れる。白身をつまみながら、黄身をつゆに溶いて、ごはんをほんの少し。匙でかき混ぜながら食べると、所謂卵かけごはんより旨くつて、まつたく堪へられない。見た目は綺麗と云へないし(だから画像は載せられない)、お行儀が惡いのは難点だが、見た目やお行儀とうまいのを較べれば、うまいのを撰ぶのが正しい人情の筈で、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏よ、家で試してみ玉へ。この手帖にも偶には眞實があるのだと納得してもらへるにちがひない。

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 ここまで書けばたかがうで玉子。と決めつけるのは、誤りなのだなと解るでせう。わたしも書きながら解つた。文字にするのは大切なのである。

446 崩す

 この手帖で使ふ画像は殆ど呑み喰ひの際に撮つてある。それについて過日、某氏から

 「段々と藝の域に近づいてゐるのではないかね」

と云はれた。お世辞の成分が濃ささうだし、或はふと思つた程度ではないかとも(何しろ具体的な指摘が無かつたから)考へられるが、何せわたしは他愛ない男である。他愛なく喜んだ。尤も藝を意識してゐたわけではく、今だつて意識してはゐない。思ひ出して気がつくのは、撮り方が毎度ほぼ一定な事で、構図もまたほぼ一定。それで冩つてゐるのが鯖の塩焼きや野菜炒め(肉入り)やミンチカツだから、傍目に

 「何かしら意図するところがあるのではないか」

と思ふのか知ら。だつたらわたしの型に誤魔化されてゐる事になる。まことに他愛がない。その型を(ある程度にしても)作れてゐるなら、そこは褒めてもらつてもいいと書けば、自惚れが過ぎると叱られるだらうか。

 型を作る、持つてゐる、或は型があるのは、有り体に云ふと、ワン・パターンを示してゐる。『水戸黄門』や『遠山の金さん』を連想すれば間違ひない。云つておくとわたしはそれを非難する積りは無い。惡代官と惡徳商人が手を組み、やくざ者を使つて暴利を貪らうとするところを、水戸のご隠居や遊び人の金さんが成敗する…のは、幾らでも転用や応用が出來るフォーマットである。それをどこまで残し、また捻るかがいはば作り手の腕の見せ所で、『水戸黄門』で云へば葵の紋所を見せず、惡代官の上司または殿さまが駆けつけ、御老公さまと平伏するのは、その一例。もう少し複雑な構成を組めば『鬼平犯科帳』、俳優のあくの強さに寄せれば、一連の"座頭市"になる。詰り定型乃至ワン・パターンと、それが面白いかどうかは、丸で別ものといふ結論(遠慮して推測と云つてもいいけれど)が成り立つ。わたしの撮る画像が、そのワン・パターンを得てゐる、でなければ得る可能性があるとして、それを少し崩したらどう受け止められるだらうか。

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