閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

1038 表と裏

 令和六年の手帖は、高橋書店のフェルテである。月曜日始まりの両面一週間。例年通り、呑み喰ひの記録と、游びの予定を記してゐる。また別枠で一ヶ月単位の予定表が用意されてゐて、そつちには仕事に関聯することを書いてゐる。

 「個人と會社は分けなくちやあね」

といふ理窟。その切り分けは一応、間違ひとも不合理とも云ひにくい。我が手帖使ひの讀者諸嬢諸氏も、さういふ分け方をしてゐるのではなからうか。

 とは云へ。仕事場で頭を抱へるのが私なら、冩眞を撮るのも、美事な絵画に感嘆するのも、よく出來た肴に舌鼓を打つのも、宿醉ひに後悔するのも私であつて、それらはすつぱり切り分けられるものではない。当り前と笑はれるだらうが、我われは無自覚に、そのグレイゾーン乃至グラデイションに目を瞑る習慣を、身につけてゐさうに思はれる。

 さう考へると、手帖を私用と仕事で書き分けることが、どの程度に有用なのか、さう疑念が浮ぶのは、自然な流れと感じられる。気分の話をすると、仕事は裏…本來の用件や予定ではない、といふ思ひこみが私にはある。仕方がないから記しても、出來るだけ目に触れさせたくない。ゆゑに別枠で扱ふ。有用無用の疑念への答にはなつてゐないね、これは。

 「本來でも、さうでなくても、自分のことぢやあないか」

さう見るのは勿論、正しい。ごく単純に、游びの予定を立てるにしても、仕事とかち合つては如何ともし難い。表裏は兎も角、自分の時間であることに変りはない、と受け容れるのは当然ではなく、(止む事を得ぬ)事實であらう。手帖を、その"表裏一体の時間"の象徴と見立てるのは、無理があるかどうか。機會に恵まれれば、高橋書店に訊ねてみませうか。

1037 気に入りで、呑む

 GRⅢを私が常用してゐるのは、我が数多く少い讀者諸嬢諸氏に、御承知のことと思ふ。云ふまでもなく、小振りでかるく、素早く動いてよく冩る。切り替へなしで、寄つて撮れれば、なほいいと思へて…この場で云ふことではなかつた。

 もうひとつ、このカメラは酒席に似合ふ。酒肴を撮る一面もあるけれど、肴になる面はもつと大きい。おれのGRⅢは恰好いいぞ、と思ひながら呑めば、うまい麦酒(叉はお酒、葡萄酒)が、もつとうまくなるのは当然で、かういふ役目を果せる機種は、存外に少いのではなからうか。

 敢て云へばライカ、ねぢマウントのやつに、沈胴式のレンズを附けたやつは、肴になる。が、きつと気を遣ふ。それにライカで酒肴を撮るのは、些かの無理がある。酒肴を撮り、肴にもするなら、優位なのは我がGRⅢである。

 その気に入りであるところのGRⅢを持ち出し、気が向けば何枚かの冩眞を撮つて、気に入りの呑み屋に入り、気に入りの摘みを舌鼓を打ちながら、一ぱい、叉は二はいをやつつけるのは、たいへんな愉快と云つていい。

 うむ、おれのGRⅢは、恰好いいなあ。

1036 今度はきつと

 不注意でカメラを壊した経験が、一度だけある。タキシに乗つた時、膝に置いてゐて、降りる際に滑り落した。間の惡いことに、落ちたのが水溜りだつた。慌てて拾い上げたけれど、残念な結果になつて仕舞つた。今でも覚えてゐる。それはニコンFEで、ニッコールの五十ミリを附けてあつた。

 FEに就て簡単に云ふと、絞り優先式の自動露光が使へる銀塩の一眼レフ。当時の典型的で地味な中級機であつた。中古カメラ屋の銀塩の棚は、長いこと見てゐないから、今はどうだか知らないが、一万円と少しも出せば、そこそこの程度の個体が手に入つた記憶がある。

 

 偶に慾しくなる。クロム仕上げのやつ。買つてどうすると訊かれたら、応じるのは六つかしい。私の今の視力で、ピントをきちんと合はすのは(事實上)無理だし、そこを何とか出來たとしても、フヰルムと現像とプリントに掛かる費用を鑑みれば、常用は不可能と云つていい。

 第一、面倒は横に置き、改めて入手するなら、FEよりF3を…F3に就ての事情は、別の機會を持つとして、今からFEを入手してどうする。部屋で麦酒を引つ掛け、空シャッターを切るのも、カメラの使ひ道ではあるが、褒められやしない。撮影に使ふひとの手元にある方が、カメラにとつて遥かに正しい在り方なのは、議論の必要もあるまい。

 

 それでもFEが時折り慾しくなるのは、上述のとほり、自分の不注意で駄目にしたからで、あの時は惡かつたなあといふ負ひ目がある。ちとややこしいのは、物慾が絡むからで、かういふ思ひ入れも、叉あるんです。

 手に入れる機會があつたら、附けるのは断然、五十ミリのニッコール。或は五十五ミリのマイクロニッコールにする。卅五ミリでもいいけれど、ライカに日和つた雰囲気になりさうだから、ここでは避ける。どちらにしてもフードは無い方が恰好いい。そこに(手元にある)(ニコン銘の)花やか…派手なストラップ。カメラの純正主義は、好みではないけれど、ねぢれた物慾なんだから、これくらゐは許してもらひませう。今度はきつと、落とさない。

1035 買ひそこねたカメラ

 リコーのGRデジタルは初代からⅣまであつた。

 この四世代は受光素子の大きさで、初代とⅡ、Ⅲ及びⅣに分割出來る。

 これまで何度も触れたとほり、私の手元にあるのはGRデジタルⅡで、最初はⅢが出る直前に入手した。Ⅲを見た時、Ⅱに較べると、アクセサリ・シューがほんの少し、飛び出てゐるのに気が附いて、Ⅱを撰んで正解だつたと思つた。GRデジタルは最初から最後まで、そのスタイリングを殆ど変更しなかつたから、細かな差違が目に留まり易いんである。Ⅳになつて、機能とスタイリングが纏つた。

 

 Ⅳが出た頃の私は、どの世代のGRデジタルも持つてゐなかつた。矢張りレンズ交換が出來なくちやあと、マイクロフォーサーズに嵌り込んだ時期である。この規格も現在、私の主要なカメラ(の一方)だとは、念を押しておかう。どちらにせよ、小さくかるい点に、重きを置いたのは、今に續く嗜好の芽生へであつたと思はれる。それともGRデジタルⅡで、身についた感覚が、マイクロフォーサーズを呼んだものか。

 話を戻しますよ。新發賣のGRデジタルⅣが、慾しくなかつたわけではない。いや率直なところ、慾しいと思つた。間のわるいことに、ニューナンブの頴娃君が、限定色のⅣにコシナフォクトレンダー銘の小型ファインダを乗せ、ヒラノの革ケイスに入れたのを持つてゐて、羨ましかつた。あの男はライカ原理主義者なのに、限定の触れ込みに引つ掛かる癖があつて時折り、さういふ買ひ物をする。あのⅣはまだ、かれの手元にあるのか知ら。仕舞つた叉、話が逸れた。

 

 そのGRデジタルⅣの入手に到らなかつたのは、頴娃君の後追ひになると思つたのがひとつ。詰らない見栄だねえ。もうひとつ、GRデジタルを改めて買ふならⅡからだ、といふ義理立てのやうな感情があつた。手元に(何故か)残してゐたアクセサリ類を、Ⅳに転用出來ない事情もあつたけれど、思ひ入れといふ、公正さに欠ける気分の方が大きかつた。その義理は後年、發賣時期を考へれば、満足出來る調子の中古の個体を入手することで果した。

 これでやうやく、GRデジタルⅣを買へるかと云ふと、ことはさう簡単ではない。GRデジタルの時代は疾うの昔に終り、"デジタル"抜きのGRも既にⅢまで代を重ねてゐて、私の興味と食指はそのGRⅢに向つてゐた。初代GRとGRⅡは、構造か設計か、横幅が広くて気に入らなかつたのが、GRⅢで元の、詰り目と手に馴染んだGRデジタルⅡに近いスタイリングに戻してゐて、どうしても慾しくなり、實際に贖ひもした。結局GRデジタルⅣは、買ひ損ねたまま今に到つてゐる。

1034 買ひそびれたカメラ

 リコーにGXRといふカメラがあつた。

 全体を制禦する本体、受光素子とレンズを組合せたユニットで構成されてゐた。

 単焦点が二種。

 標準ズームが二種。

 高倍率ズームが一種。

 レンズと受光素子を一体にすることで、それぞれに最適なチューニングが出來るとか、確かそんな触れ込みだつた。また本体はあくまでも、操作系のパーツだから、レンズ以外のユニットも取りつけ可能と謳つてゐた。實際、ライカMバヨネットのレンズを附けるユニットを出し、一部の数寄ものが騒いでゐたのを覚えてゐる。

 全体の姿は大振りで、ごつごつしたGRデジタル(当時は未だ、デジタル抜きのGRは出てゐなかつたと思ふ)のやうな感じ。上や背後を見ると、GRデジタルと酷似した部品配置だから、この感想は誤つてゐない筈である。

 

 慾しかつた。

 買ひそびれた。

 何故か知ら。

 

 有り体に云つて、スタイリングは洗練されてゐない。發想は惡くない…といふより、獨創的と呼びたくなるのだが、表に出したい気持ちが先立ち過ぎて、詰めがあまくなつたのだらうか。このカメラが、話題の割に短命に終つた理由は、その辺りに潜んでゐると思はれる。

 併しそれが、買ひそびれの原因かと云へば、どうもちがふ気がする。当時の私はGRデジタルⅡかGX200を使つてゐたから、使ひ勝手に不安があつたわけではない。もつと直接的に値段の問題だつたか。確かにAPSフォーマットのレンズ(ユニット)は、相応の値つけだつたけれど、レンズと受光素子が纏まつてゐるのだから、無体な値段とは云へなかつた。

 かう考へを進めるに、明確な理由なんぞは無く、切つ掛けを掴み損ねただけではあるまいか、と気が附いた。GRデジタルⅡの後は、マイクロフォーサーズに移つた流れを思ひ出すと、そこにGXRの入り込む余地は無かつたし、あつたとしてもそれはごく狭かつた。率直に云ふなら、マイクロフォーサーズを打ち棄てさすに足る魅力を感じなかつた。

 

 リコーファンを公言してゐて、すりやあ、ない。

 と非難されたら、一応は頭を下げるけれど、だからと云つて、すべての機種を無條件で肯定する根拠にはならない。今にして思へばGXRは、意余つて力足らずの典型であつた。とは云へ、意余りではあつても、方向のユニークさは、現在でも通じると思へる。スタイリングを洗練させ、ユニット群の構成を見直せば、GXRⅡは成り立つにちがひないし、さういふ機種が出れば、買ひそびれはしないとも思ふ。

 ここまで書いた結果、値ごろのGXRを見つけたら、手を出しさうな気分になつてきた。自縄自縛の物慾は、たちが惡くつていけない。