閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

1458 舌を“たツた”と鳴らしながら

 尊敬する吉田健一の『酒肴酒』(光文社文庫)に、こんなくだりがある。

 

 [酒飲みにとって、うまい酒さえあればほかに何も欲しいものはない。もしあれば、おでん位なものである。飲みたいから飲み、食べたくなれば、豆腐の一つも頼んで、別に懐と相談する程のことはなかったから、夜は長々と更けていった]

 

 うまいことを、云ふものだなあ。呑み助の鑑とは、かういふ態度と呼ぶべきか。尤も私なんぞは、未だうまい酒があればいい、と云へる域まで達してゐないから(喜んでいいのか、耻ぢるべきか)、“豆腐の一つ”だけでは、残念ながら物足りない。

 

 厚揚げ。

 大根。

 牛すぢ。

 うで玉子。

 結び蒟蒻。

 餅巾着。

 

 さらに幾種もある練りものーはんぺんや棒天やごぼ天や竹輪、或は蛸や鯨や手羽、また吉田が好んだ(と思へる)焼き豆腐と、挙げてゆけばきりがない。ほかにも地域特有だつたり、風変りなおでん種もある筈で、さう考へると、おでんの世界は實にひろい。

 さてここで。敬愛する田辺聖子女史の『浜辺先生、町をゆく』の一篇に、草臥れた風情の老紳士が、二品ほどのおでんを前に、舌を“たツた”と鳴らし、呑んでゐる場面を思ひだした。その姿を目にした浜辺先生は、おでんで呑むのは、かうでなくちやあと、我が身を振り返るのだが、その草臥れた老紳士の心境は、“うまい酒があれば、ほかに何も欲しいものはなく、あるならそれは、おでんくらゐ”ではなかつたか。女史が『酒肴酒』を讀んでゐても不思議ではなく…文學は繋がるものなのだ。

 

 感嘆はさて措き。

 あの愉快な短篇聯作を思ひだしたのは詰り、老紳士のくだりが、印象的だつたからで、どうやら私が

 「おでんは山盛りにして、食べるものではない」

さう思ひこむに到つた事情は、この辺に隠れてゐるらしい。文學は繋がるだけでなく、食べものの嗜好にも影響を与へるらしい。

 とは云へ、おでんは焼き鳥に似て、出されたら熱いうちに、素早く平らげないと、味がぐつと落ちる。詰りおでんを註文する時は、うで玉子に厚揚げ、大根と牛すぢのやうに、順を追ふのが望ましい。それで舌を“たツた”と鳴らしながら摘み、お燗酒をちびちび含めば、肌寒い秋の夜に、こんな嬉しい時間はないといふものだ。懐と相談する程のこともなく、夜は長々と更けゆくだらう。さうさう、おでんの望ましい順序は讀者諸嬢諸氏よ、ご自身で試し撰び玉へ。

1457 動画は撮らない

 動画を撮つたことがない。

 カメラでもスマートフォンでも。

 動画を撮りたいと思つたこともない。銀塩で寫眞を始めた頃…平成の初期…、動画を撮るには8mmフヰルムのビデオカメラが必要で、わざわざ贖ふ積りにはならなかつた。何故と訊かれても、それ以上の理由は思ひだせない。単にビデオカメラが高額だつた所為だらうか。

 YouTubeにもInstagramにもTwitter(現X)にも、無名の素人が長短問はず、動画を投稿してゐて、目に入る度、やるもンやなあと感心してゐる。まあ正確に云へば、その感心は、撮影に伴ふ支出と手間に対してで、動画じたいは何と云ふこともない。

 ところで伊丹十三の『ヨーロッパ退屈日記』に、こんなくだりがある。

 

 [ラッシュはどうだと皆が私に聞くんだが、ハッハ、ラッシュというのは必ずいいに決ってるんだ]

 [問題はラッシュをどうつなぐか、ということだけさ]

 

 映画監督としても優れたあの多才なひとは、映像…動画を撮る、つくる上で、編輯の重さを十二分に理解してゐたことになる。クロサワもミゾグチもツブラヤも、その映画は、撮り了へてからが、完成への第一歩だつた。素人動画が詰らない理由も、ここにある。

 寫眞がシャッターを切つた瞬間に九割方、出來上るのと、なんと対照的なことか。尤も寫眞を始めて直ぐの私は、そんなことを知らなかつた。無関心は気づきを遅らせるのだと反省したが、今さらおそい。

 實は令和の今、動画を撮らうかと思ふことが(偶に)ある。映像作品を作る積りはない。私が酒席食卓の画像を撮つてゐるのを、我が讀者諸嬢諸氏は御存知でせう。あれを動画に置き換へられないか。

 たとへば呑み屋のカウンタで、註文した焼き鳥が焼かれる様子。なにせ手際よい動きは、その眺めじたい、好もしい酒菜だもの。或はバーの隅に腰掛けて、註文したギムレットがつくられる様子や、立ち喰ひ蕎麦屋の親仁が、手早く天玉蕎麦を用意する様子もいい。

 ただここで、撮つてどうすると自問した時、どうもしない…出來ないと自答せざるを得ない。だつて焼き鳥もギムレットも天玉蕎麦も、味はふものでせう、その過程を撮るのに、カメラを長々持つのが面倒だし、撮つたとしても、何にもならない気がする。第一それで、盃の手が止つては、本末転倒であつて…詰り私の短い余命で、動画をどうかうすることはならかうと思ふ。カメラでもスマートフォンでも。

1456 触れるまで、我慢

 去る重陽の節句、OMデジタルソリューションズ社…ここからはOM(社)と略す…が、新機種ーPENを公式に發表した。少し前からティザーを出し、その少し前から、OMが新機種を出す噂も目に入つてゐた。

 

 OMのプレスリリースは以下。

https://jp.omsystem.com/information/detail/nr20260909_01.pdf?attach=true&fld=pdf&browserview=true

 序でに、上を受けたデジカメWatchの紹介。

https://dc.watch.impress.co.jp/docs/news/2139197.html

 

 機能的な点には、いちいち触れない。現代のカメラですよ、問題があるとは思へない。

 それより気になるのは見た目である。オリンパスがOMになつた後の機種は、OM-3くらゐだつたし、私の好みにまつたく適はなかつた。なので噂話やティザーを目にしても、大丈夫か知らと思つてゐた。

 それで發表された画像を見た第一印象を云ふ。

 『惡くない』

だつた。我ながら素つ気ないなあ。とは云つても、嘘をつくわけにはゆくまい。

 正面の右端に置かれた“PEN”の文字が、妙な具合に離れ、中央上にのつぺりした空白が目立つのが、落ちつかない。尤もこれは銀いろの筐体に感じたことで、黑だとそこまで気にならなかつた。

 背面は、こんなものかといふ感じ。釦の形状はどうだらう。カメラの背中は、手にした時に一ばん目にする箇所だから、OM-3のやうに、間延びした印象を与へないのは宜しい。当り前ながら、使ひ勝手は判らない。

 EVFの内藏と、可動式の液晶の採用に就ては、この稿の時点で保留したい。便利ではあるけれど、大きさと重さに直結する。“便利”でそこを削られてはこまる。

 身も蓋も無く云ふなら、私がマイクロフォーサーズに求めるのは、軽薄短小である。重厚長大はニコンとキヤノンに任せ、OM社が張り合はなくとも宜しい。小聲で云ふけれど、オリンパス…OMには、大きなフォーマットへの対抗心、劣等感があり、常々感心しない。このフォーマットが意識した方がいいのは、嘗てあつたニコン1やペンタックスQで…いやこれ以上は、實機に触れるまで、我慢しないと、不公平といふものか。

 ところで。この新PENを手に入れるとして、どんな形がいいだらう。公式のオンラインショップでは(この稿を書いてゐる時点で)、本体が十五万円ほど。14-42ミリのズームレンズ附きでプラス一万円くらゐ。中々なバーゲン…戰略的な値つけだと思ふ。その程度の差額なら、レンズセットを撰ぶひとは多さうだし、私もちらりと考へた。併し私の手元には既に、数本のマイクロフォーサーズ規格のレンズがある。

 『だつたら、標準ズームを追加しなくてもなあ』

 そんな風に考へが翻るのは、当然でせう。オンラインショップを見渡すと、17ミリや25ミリ…ライカ判換算で34ミリ/50ミリ相当…とのセットが廿万円ほどで用意されてゐる。ここで私の常用且つ主力であるリコーのGRⅢを振り返るなら、贖入当時に十二か十三万円くらゐだつた。機種の方向性がちがふから、値札の単純な比較に意味は無いと思ひつつ、それでも割安に感じられる。

 ただもしかすると、PENの登場で旧機種となり、投げ賣りされる(かも知れない)E-P7を撰ぶことになる可能性もある。随分とふるい機種だけれど、今だつて十分に使へるし、こつちにはオリンパス銘といふ大きなアドバンテイジがある。まあ結論は矢張り、どこぞの量販店で、デモ機に触れてから出さねばなるまい。

1455 酒席の最初が豊かなハムカツ

 ハムカツとは暫く御無沙汰してゐる。

 たつぷり食べたいとは思はないけれど、一枚か二枚あれば、酒席の最初が豊かな感じになる。

 ところでフライやカツレツの類は、何で味を調へるかが、六つかしい。

 ウスターソース。

 タルタルソース。

 醤油。

 味つけぽん酢。

 塩。

 デミグラスソース。

 マヨネィーズ。

 ケチャップ。

 チリーソース。

 鯵フライや牡蠣フライや玉葱フライやイカリングやミンチカツやコロッケやチキンカツの何と組合せるか、何を呑むか、好みは勿論、その日の体調や気分で、色々と変つてくるのは、寧ろ当然である。

 併しハムカツに限るなら六つかしくない。

 『ウスターソースと辛子』

 これが最良しにて唯一と私は堅く信じる。

 ではそのウスターソースと辛子をどうするか。

 こつちは中々六つかしい。

 ・ハムカツにウスターソースをたつぷりかけて、そこに辛子をぬる。

 ・ハムカツに辛子をぬり、そこにウスターソースをたつぷりかける。

 どちらかと思ひ、どちらも試した。

 その経験を踏まへた上で、最善手を云ふ。

 『ウスターソースに辛子を溶く』

 お皿の隅つこ(別の小皿でもかまはない)に用意し、そこにハムカツを漬けるのだ。

 廉な呑み屋で出すお刺身を摘む場合、山葵は醤油に溶く方がうまい…魯山人いはく、“山葵が感心出來ない時、これで醤油が美味くなる”さうな…あれと同じである。

 辛子は溶ききらない。

 辛みの濃いところと、うすいところを(意図して)作れば、ハムカツの味はひに変化をもたらせられる。

 さうですね、カレーライスを混ぜないで食べると、ルーとごはんと福神漬け(或は辣韮)を自在に組合せることが出來、味はひを変へられ…私はさういふ食べ方を好むのだが、詰りあれとおんなしである。

 さうだもうひとつ。

 ハムカツの主役は、“ハムの匂ひが沁みこみ潤びた衣”なのは、今さら改めるまでもないとして、ソースを別に用意すると、その潤び方を、好みで調へられる。

 まことに具合がいい。

 熱くて油つぽくて、鼻につんととほる香りを、麦酒でも酎ハイでもハイボールでも、洗ひながすと、酒席の最初が豊かな感じになる。

1454 ふとの牛丼

 ふと思ひついたので、牛丼の話をする。

 明治になつて、完成したと考へていい。

 調べないままに書くのだが、原型は牛鍋に遡れるのではなからうか。その牛鍋は確か、江戸末期の横濱辺で成り立つたと記憶してゐる。くぢら狩り組合のお先棒を担がされた海軍軍人が、泥靴のまま江戸の泰平の枕を蹴り飛ばして開かせた港で、外ツ國(商)人相手に、清國人が用意したのが、始りだつた気がする。

 その西洋人向けの煮ものを、醤油と砂糖で甘からく仕立て直したのが牛鍋、その牛鍋を丼めしに乗せたのが、牛丼に変化した…と、私は考へてゐる。調べないままの話だから、信じてもらつては、こまるけれど。

 併しこの推測に根拠はある。これは以前、調べた記憶で書くと、親子丼は鶏鍋の残りを、お客がごはんに打ちかけたのが、始りだつた。評判を得たのはいいが、盛切りめしを出すのを厭がつた店が、出前専用に仕上げたのが、親子丼である。そして親子丼の始りは、牛丼より遅い。もしかして“鍋の残りを(丼)めしに打ちかける”ことを思ひついた鶏鍋屋の客は、牛丼(の少くとも原型)を知つてゐたのではあるまいか。

 ここで鶏鍋屋が、盛切りの丼めしを、“來店したお客に出すのは品が無い”と厭がつたのが、気になる。江戸の料理屋の傳統が背景ゆゑらしい。何だかよく判らないが、傳統とはさういふものか。詰り牛丼(の原型)は、非常に品下れた食べものだつたと推察出來る。まあ珍奇に飛びつくのは、若い聯中と相場は決つてゐるし、若い聯中が傳統に無縁なのも決り相場で、すりやあ品の無い食べものと扱はれても、寧ろ当然と云へる。親子丼と分岐した事情は、どこにあつたのか知ら。

 疑念は横に措く。

 牛丼は要するに、出だしから下層階級…町人奴貧乏學生…が食べるものとして成り立つた。その地位は天麩羅や蕎麦が御座敷に行き、早鮓が高級品に成り下つた令和の現代でも変らない。念を押すと、牛丼を卑く云ふのでない。一貫して御座敷化…高級化に背を向け續け、生き残つたのだ。然も基になる“牛肉と玉葱を甘からく煮る”技法は変らない。寧ろ大したものと云つていい。

 ではもし牛丼に最適化した牛肉と玉葱と醤油と砂糖と味醂とお米を使つた、“完璧な牛丼”を作れるしてら、幾らほどになるだらう。仮に五千円から八千円の間と見繕つて、ぢやあその“完璧な牛丼”を食べたいと思へるかどうか。おんなし値段だつたら鰻丼や御座敷天麩羅を、撰ぶのが人情でせう。或は呑み代に。私ならきつとさうする。尤もそれで、五百円玉ひとつで平らげられる一ぱいの値うちが、下がりはしない。ここが牛丼の…親子丼も鰻丼も天丼もかつ丼も及ばない…凄い点である。

 眞ん中に温泉玉子か生卵をぽんと。

 紅生姜は隅にちよいと。

 更に七味唐辛子をはらり。

 そこにお味噌汁があれば、文句を云ふ余地は無く…いや訂正、玉子や紅生姜や七味唐辛子や味噌汁が無くたつて、安直に腹を満たすには十分である。この安直さは屋臺賣りの頃の天麩羅や蕎麦、握り鮨に近しく思へる。無理を承知で、江戸下層民が啖つた簡便食の系譜を、(結果的にではあつても)受け継いだのが、牛丼と見立たてたくなる。そんな風に考へを進めたら、ふと牛丼を食べたくもなつてきて…さうだ、明日のお晝は並盛を註文するとしませうか。