閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

311 散らし助六

 いつ食べてもかまはないし、食べればうまいのに、食べたいとは思ひにくい双璧は散らし寿司と助六ではないかと思ふ。殆どのひとが、さうではないだらうか。統計を取つたわけではないから、殆どが正確なのかどうかは疑はしいけれど、何となくそんな気がする。それに散らし寿司は作り方で、助六は組合せである。同列に並べるのが妥当なのかどうかも判然としない。併しこのふたつが頭に浮んだ以上、改めて思ひ浮べ直すのも面倒であるし、思ひ浮べ直せても實感からは離れて仕舞ふ。仕方がないのでこのまま進めませう。

 進めると云つたつて閑文字なのだから、どこに進むかの保證はしないとして、散らし寿司と助六を年に何べんくらゐ食べるだらう。わたしの場合だと十ぺんにも満たない。最も多いのは一泊とか二泊、ビジネスホテルに泊つた時の朝めしで、ビジネスホテルでは、朝のバイキングいふ名前で提供されるのは知つてゐる。無料といふか宿賃込みだから、そつちを利用する方が経済であり合理的でもある。経済であり合理的でもあるのは認めるとして、朝に限らずめしは経済と合理性で纏めていいとは限らない。

 第一にわたしは普段、朝めしを殆ど摂らない。起き出してから半時間くらゐ過ぎて、珈琲とトーストを食べる程度である。朝食バイキングは大体ホテルの一階で提供される。わざわざ階下に降りるのは面倒で堪らないし、朝食バイキングの時間帯が決められてゐるのも気に入らない。偶に降りても遅くなると、大皿におかずの欠片がへばりついてゐる計りだから腹立たしい。朝食バイキングを名乗るのだから、玉子焼きや鹿尾菜や焼き鮭や焼き鯖やたくわんや柴漬けや梅干しは、どの時間帯でもたつぷり用意してもらひたい。わたしが食べるかどうかは別の話である。

 第二にビジネスホテルに泊るからといつて、それはビジネス目的ではない。前夜はしこたま呑むのが常で、翌朝は宿醉ひを感じることが少なからずある。ただそれは比較的かるい宿醉ひだから、起き出して珈琲の一ぱいも飲むと、麦酒が慾しくなる。朝食バイキングで麦酒が用意されないのは念を押すまでもない。食べる前か食べてから呑めば済みさうと思ふのは、呑まないひとの感想であつて、特にわたしはつまみがないと呑めないたちだから、その提案を受け容れるのは中々に困難である。些か残念に思はなくもない。

 仮にホテル側が朝食バイキングで出來るだけ無駄を省きたい、出來るだけ出したものは食べてほしいと思つてゐるとする。そんなら使ひ捨てのお皿だか何だかを用意して、どうぞお部屋でお召し上りをと云つて呉れればいい。わたしはきつとそのお皿に玉子焼きや鹿尾菜や焼き鮭や焼き鯖やたくわんや柴漬けや梅干しを乗せるだらう。ことに宿醉ひを感じた朝の梅干しは宜しい。普段の好みとは異なるのだが、かういふ時の梅干しは幕の内弁当に入つてゐるやうな、小さくてかりかりしたのがうまい。三粒くらゐなら、こつそり持ち出しても、朝食バイキング係に叱られないと思つてゐて、實際試したらさてどうだらうか。

 散々与太を飛ばしてみたけれど、こちらに都合のいい朝食バイキングは今のところ無い。あるとしてもそこに泊るかどうか判らないし、泊つたとしても朝食バイキングの時間帯に、与太通りの行動を取れるかどうか甚だ疑はしい。だから自分で何とかする方が簡便であり確實でもある。さういふ時に散らし寿司や助六は有り難い。何故か知らと思ふに、先づ酢めしなのがいい。酢は酢と云ふくらゐだから酢つぱくて、その酢つぱいのが胃袋をうまい具合に刺戟する。大したことのない量なのもここでは好都合で、部屋に持ち込んだ朝食バイキングだと、うつかり取り過ぎて食べきれないことも考へられるが、散らし寿司や助六ならその心配をしなくてもいい。

 そこで散らし寿司と助六のどつちが望ましいのかといふ疑問が沸くが軍配は上げにくい。撰び易いのは散らし寿司だと思ふ。かういふ場合の散らし寿司はありきたりが宜しい。奢つても穴子の散らし寿司くらゐにして、お刺身を乗せたの…海鮮散らしとか呼ばれるやつは避けたい。朝はかるくても宿醉ひなのを見越した予防策である。助六だと海苔巻が何かが大事になる。胡瓜とたくわん、干瓢の三色が揃へば嬉しいが、残念なことに殆ど見掛けない。なので胡瓜だけたくわんだけ干瓢だけは避けたい。お稲荷も関東甲信のは酢めしが眞つ白でがつかりする。酢めしにちよつとした具を混ぜるのが本來だと思ふのだが、どうもこれは関西の作り方らしい。

 どつちにするかの結論は、さて措きませう。どちらを食べたいかは、その時のお腹の減り具合を含めた様々な気分の集合で決る。ビジネスホテルの朝めしといふ限られた條件でもそこは同じである。尤もこの場合は更にややこしくて宿醉ひの具合に迎ひ酒が重なるのだが、それらは様々な気分に含めてもかまふまい。どちらを撰ぶにしてもひとつ共通するのは、麦酒にそれほど適はないことで、ひよつとすると食べたいとは思ひにくい理由はこの辺りに潜んでゐるのやも知れない。散らし寿司ならお吸物だらうし、助六なら饂飩かにうめんがよく似合ふ。

310 特別急行の卓

 年に何べんかは特別急行に乗る。中央線で新宿と甲府または小淵沢間のあずさ號。東海道新幹線で東京新大阪間のこだま號かのぞみ號。外の特別急行は乗らない。厭なのでなく切つ掛けが見つからないのが理由で、切つ掛けが見つかれば乗るのは勿論吝かではない。

 あずさ號の乗車時間は一時間半から二時間余りくらゐ。のぞみ號だと二時間半くらゐ。こだま號は長くて四時間くらゐ。乗れば降りるまでは車内にゐる。席は決つてゐる。うろうろするわけにはゆかない。禁止はされてゐない筈だが、先頭車輛から最後尾の車輛まで散歩を気取つたら、車掌にもしもしと聲を掛けられるだらう。

 車掌に叱られるのは本意でない。だから自分の席に坐る。わたしの席ではなく、鐵道会社が保有する車輛の座席だと見立ててもいいが、決つた列車の決つた区間、その席に坐るのはわたしだけなのだから、その限られた中はわたしの席だと主張しても間違ひにはならないだらう。長屋に間借りする熊さんが、その限られた空間をおれの家と呼んで、大家さんに叱られるだらうか。

 そこで一時間半から四時間余りの間、自分の席で何をすればいいのか。本を讀むのも方法だらうが、わたしは乗り物醉ひし易いたちである。細かい字にはなるべく目を落としたくない。なので罐麦酒を呑んでお弁当を食べる。乗り物醉ひのたちなのに呑むのかと訝しむひとがゐさうだが、乗り物に醉ふのと罐麦酒で醉ふのでは全然ちがふ。同じ字を宛てるのがいけない。たれに文句を云へばいいだらうか。

 特別急行で使へる卓は狭い。窪んだところに罐麦酒を据ゑ、お弁当を置くと一杯になる。併し卓にはスマートフォンや、場合によつてはデジタルカメラも置きたくて、その分の確保が随分と六づかしい。お弁当の容器は大体が長方形だから、短辺を自分に向ければ、多少のちがひは出來るけれど、お弁当は長辺を自分に向けた時に安定した感じがする。味に変りがあるわけではないが、これもまた、目で食べる態度と云ふべきか。

 併し目で食べるにはスマートフォンデジタルカメラが些か邪魔になるのも事實で、仕方がないから膝に乗せたりする。さうすると体の動きが縛られた感じになつて鬱陶しい。卓が数センチメートルくらゐ延びて呉れれば、罐麦酒とお弁当とスマートフォンデジタルカメラを乗せられる筈だが、卓と腹の間が狭苦しくなる。それも窮屈で鬱陶しからう。

309 鮭の塩焼き

 平成元年の春、庖丁を初めて持つた。時期がはつきりしてゐるのは、千葉県の市川市で独り暮しを始めたからで、自炊をせざるを得なくなつた。何をどうすればいいのかさつぱり解らなくて、野菜炒め計り作つた記憶がある。

 續いて魚を焼くことを覚えた。但し捌くなんて思ひもつかなかつた。仮に知つてゐたところで、捌けはしなかつただらう。それで切り身を買はうと考へて馴染みのある鮭にした。いやさうではなく鮭くらゐしか解らなかつた。

 アパートの瓦斯焜炉の前で、魚をどう焼くのかが知らないと気がついた。焜炉に魚を焼くグリルだか何だかはあるが、焼け具合が見えないのは不安だし、そこを我慢してもそのグリル部分の洗ひ方が解らない。暫く迷つてから、野菜炒め同様、フライパンを使はうと思つた。

 サラダ油の代りにマーガリンを温め溶かして焼いた。塩鮭とあつたから、味つけはしなくていいだらうと思つた。焼き色がついてきて、見えてゐるから安心出來たし、フライパンからいい匂ひがしてきたのも嬉しかつた。失敗はせずに済みさうだつた。焼き上つた鮭は生野菜(レタスとトマト)を用意したお皿に乗せて、晩のおかずにした。

 食べてみたら惡くなかつたが、マーガリンが多かつたのか、鮭の脂の所為なのか、ちよいとしつつこいなと感じた。母親が焼いてくれたのなら、ぶうぶう文句も云へるのにと思つてから、こつちがなんにもしないのに、ごはんを用意して呉れるのは凄いなと考へを改めた。以來わたしは、たれかが用意して呉れたごはんを批評するのは控へることにしてゐる。

308 スパゲッティ

 考へてみたら長いことスパゲッティを食べてゐない。マカロニも食べてゐないと思つたが、こつちはマカロニ・サラドで食べてゐるから、縁遠いのはスパゲッティといふことになる。家で用意するのに苦心があるわけでない。大鍋にたつぷりの水と塩をひと掴み。ここまではいいとして、十分からうでるのが面倒なだけである。饂飩や蕎麦には茹でたのを袋詰めにしたのがあるのに、スパゲッティでは見掛けない。食品会社の怠慢…あるのかも知れないが、見たことがないのだから無いのと同じである…ではないかと思へる。

 外で食べたいとは思ひにくい。何だか気障な感じがする。デートの食事で足を運びはしたが、どこの何が旨かつたか、さつぱり記憶にない。ホークに綺麗に巻きつけるとか、音を立てて啜らないとか、そちらに気を取られてゐたのだらう。マナーがどうかうより、女の子の前でいい恰好をしたかつたからで、まつたく不健全な態度だつた。お蔭で今もスパゲッティと聞くと、体のどこかが少し緊張する。だから外で食べないのかと云へば、どうもちがふ気もして、分析はするだけ無駄になりさうである。

 覚えてゐる最初のスパゲッティは母親が作つたひと皿で、それはミートソースでもナポリタンでも鱈子でもなく、サラド仕立てだつた。茹でたスパゲッティを水で締め、マヨネィーズで和へたやつ。薄切りの胡瓜、細く切つたハム、炒めたかうでたかした玉葱と人参が入つてゐたと思ふ。ホークで引つ掛けて盛大に啜つたら、口の周りがマヨネィーズだらけになつた。年寄りが同居してゐたからか、スパゲッティの茹で具合はアル・デンテより軟かだつたらうが、そもそもアル・デンテを知らなかつたから、不思議ではなく、不満でもなかつたし、あれは確かに旨かつた。かう書くと眞面目なスパゲッティ・ファンや伊太利人が眉を逆立てるかと思つたが、そこまではわたしの知つたことではない。

307 カレーシチュー

 小學校六年間の樂しみと云へば給食だつた。所謂ご飯給食は知らない。中學校に進學する年度になつて、試験的な導入があつたさうで、悔しかつたのを覚えてゐる。食べられなかつたからさう思ふので、實際に食べてゐたらちがふ感想を持つた可能性はあるが、食べてゐないのだから、どんな感想を抱けたのかは判らない。

 それより不思議なのは、その樂しみだつた給食で何を美味しく思つたかの記憶が丸で残つてゐないことで、わたしが通つた小學校での給食は、数人ごとの班に分かれて食べた。お喋りしながらなのは勿論で、先生が八釜しくなかつた所為か、それで注意された記憶はないし、残さず食べませうと変な標語が掲げられてゐた記憶もない。滝口先生と木下先生にはここで御礼を申し上げる。

 前段で丸で残つてゐないと書いたが、ひとつ例外があつた。給食の献立は事前に一カ月分が印刷されたのが配られるのだが、そこにカレーシチューと書かれてゐたら、昂奮したのを思ひ出した。シチュー風に仕立てたカレーなのか、カレー味のシチューなのか、カレーのルーを水つぽくしたのか、その辺の記憶は曖昧である。樂しみだつたのは確實で、旨かつたのは記憶の改竄かも知れないけれど、かういふ改竄なら直す必要はなからう。

 それに旨かつたと書きはしても、どんな味だつたかは曖昧である。仮に今、当時の給食室の小母さんが、当時の材料と作り方でカレーシチューを用意してくれて、果してそれを旨いと云へるかは甚だ疑はしい。もう一ぺん食べてみたいと思ひはする。ただそんなら食麺麭や壜入り牛乳(わたしの小學校では太田牧場のホモゲ牛乳だつた)は欠かせないし、何よりクラスメイトにゐてもらはないと、カレーシチューの味は完成しないと思はれてならない。