閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

374 玉葱のこと

 食用としての栽培が日本で始つたのは、明治に入つてからといふから、比較的おそい。それ以前から鑑賞用だつたさうで、何をどう鑑賞してゐたのか。食用の品種が芽を出したのは北海道。今も全國の半分くらゐは道産で、續くのは佐賀産。ちよつと意外でせう。

 

 玉葱の話である。

 あの白くて丸つこい野菜。

 生でうまいし、焼いて炒めて揚げて旨い。和洋中を撰ばず、主役傍役裏方のどれもこなせる上に保存が利く。古代地中海の兵隊の糧食になり、エジプトでは奴隷労働者に配られたといふから、かなりタフな食べものである。

 原産地には諸説ある。ざつと調べると、中央または西南アジア、東地中海沿岸、ペルシア辺りださうで、まあ大体の方向は一致してゐる。それが我が國にやつて來るのに二千年以上の時間が掛つたのは、不思議といふ外はないが、地中海の文明群は西北…今のヨーロッパへと進んでいつた。玉葱がそちらに向つたのは納得出來るとして、インドから中國…東を目指さなかつたのは、食物史の謎ではないか。

 

 いやそれより明治からこつち、高々二百年も経たないのに、我われの食卓の重要な部分を占めるに到つた方が、もつと不思議かも知れない。オニオン・スープとサラドで始め、玉葱をあしらひ、用ゐた料理で満たすのは雑作もないが、何がなんでも玉葱を外すとなつたら、中々六づかしくなりさうな気がする。玉葱を使はない野菜炒めや肉じやがは遠慮したいし、玉葱を抜きにしたカレー・ライスは想像出來はしても、食べたいとは思へないでせう。さういふことなんである。

 

 ではどうやつて普及したのだらう。

 そこがよく判らない。

 根拠も持たずに考へるのだが、矢張り西洋料理の流入と広がりが大きかつたのではなからうか。かれらのご先祖の大半は、無名の兵隊や労働者だつたわけで、玉葱に馴染むこと、血肉に等しいくらゐの筈である。獸肉や外の香味野菜とあはせて焼いたり煮込んだり、ソースに混ぜ込んだりするのは、得意技に決つてゐる。

 或は中國料理かも知れない。玉葱が大陸の東端にいつ頃辿り着いたかも判らないけれど、かういふ応用力の高い野菜を知つたかれらが、漬けたり揚げたりおろしたり刻んだりを、試さなかつたとは考へられない。塩に醤に味噌だけでなく、我われが知らない調味料を用ゐ、さうでなければ我われの知らない調味料に仕立てたに決つてゐる。

 勿論どちらか一方ではなく、時期をずらしつつ入つてきたと考へるのが妥当である。併せて我われのご先祖が長葱に馴染んでゐたのも、要因になつたであらう。さうでなければ、我われの食事や酒肴の到るところで、玉葱の姿を見、香りを感じる…たとへば酢豚…ことはなかつたのではないか。根拠は何も無いけれど。

 

 氷水でさらした玉葱。

 串揚げにした玉葱。

 矢張り串に刺して焙つた玉葱。

 分厚く切つて焼いたベーコン(獸肉でもかまはない)に添へる玉葱おろし。

 さういふのがあつて、麦酒がうまくならないとしたら、それは寧ろ奇怪と云ふべきで、野暮つたい葡萄酒の方がもつと適ふといはれたら、それは双手を挙げて賛意を示す。そこにチーズを追加して、古代のギリシャ兵を気取つてもいい。どこかの葡萄酒藏で、そんなメニュを出さないものだらうか。不謹慎と叱られても責任は取れない。

 

 尤も、わたしが一ばん好きな玉葱の使ひ方は、お味噌汁の種。母親が作つて呉れるやつで、お出汁は確かいりこ。あはせといふのか、やや甘めのお味噌を使ふ。それに薄切りの玉葱と、粗く溶いた卵。外には何も入れない。何もかもがやはらかくてあまい。そしてごはんにまつたく適ふ。ことに玉葱と固まりかけた白身の組合せは、素晴らしいお味噌汁の種(反發されるだらうから小聲で云ふと、豆腐と長葱より旨い組合せだと思ふ)とおかずを兼ねる。

 汁ものに限らず玉葱を料理の種で扱ふには、その料理の腰が坐つてゐる必要がありさうに思ふ。腰が坐るとはどうも曖昧な云ひ方で、我ながら感心しない。澄し汁のやうな手弱女振りに、玉葱は少々きついといふところからの連想である。そこで少し長くなるが、『檀流クッキング』の“オニオン・スープ”から引用する。

 

 薄切りにしたタマネギを、バターとサラダ油を半々にして、とろ火で、一時間くらいいためなさいと申し上げておく(中略)その色も半透明から薄茶色、やがて狐色に変わっていくだろう。そこらあたりで火をとめ(中略)しっかりした茶碗に移し、自分のところで自慢のスープを入れるがよい(中略)さて、茶碗のスープの中にチーズとパンを入れる(中略)これをオーブンの中に入れれば出來上がりだ。

 

 麺麭とスープとチーズに玉葱!と普段は遣はない記号まで使ひたくなるのは、文章のちからですな。全文を一讀すれば、直ぐにソップを取り、その隙に玉葱とチーズと麺麭を買ひに行かうと思はされるから、甚だ迷惑な話なのだが、それは措いて、かういふのを腰が坐つてゐる食べものととらへてゐるのだなと考へてもらひたい。

 こんな風に見てゆくと、日本の玉葱料理は未だ發展途上なのだらうと思ふ。たとへば丸ごとの玉葱を濃い味噌に漬け込み、引き上げてから湯を通して、大振りに切り分けてから、ハムで包んでラードで揚げてトマトを添へ、漬けてゐた味噌に卵黄を練り込み、長葱を刻み入れ、煮切つたお酒でやはくした一種のソースで食べ(そんな調理法があるのかどうかは知らない)ても、玉葱は十分に旨いと思はれる。詰りタフな野菜なので、串揚げやらカレーの下味やらシャシュリークやらだけに任すのは勿体無い。

373 玉子焼きのこと

 卵を二個か三個。

 塩と牛乳を少し。

 焼き上げは堅め。

 

 といふのが、わたしにとつての玉子焼きで、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏からは、盛大な批判が寄せられさうだが、さういふ玉子焼きに馴染んでゐるのだから、仕方がない。

 

 だから初めてあまい玉子焼きを食べた時はびつくりした。お菓子のやうで、そのくせ大根おろしと薑が添へられ、莓のショート・ケーキに紅生姜をあはせてゐるやうだと思つた。

 

 かう云ふと、またしても我が親愛なる讀者諸嬢諸氏から、盛大な批判が寄せられるだらうと不安になるが、實際さう感じたのだから仕方がない。この手帖は正直と率直を旨とする。

 

 あまい玉子焼きは兎も角、玉子焼き自体は大の好物で、ごはんにこれとお味噌汁とお漬物があれば、食事は完成する。細かいことを云へば、お椀種には豆腐。お漬物は胡瓜と白菜がいい。

 

 そこで問題は玉子焼きそのものになる。玉子だけで焼くのか、さうでないのか。さうでない方は刻んだ韮や葱を混ぜこんだやつ。尤もこの場合、やはらかい焼き上げの方が旨さうな気がする。

 

 といふより、やはらかくて、葱韮を混ぜた玉子焼きは、ごはんのお供よりお酒の相方に似合ふのではないか知ら。蕎麦屋で教はつた所為もあるのだらうが、あれは冷や酒の肴に宜しい。

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 どうせ丸太は呑むのだから、韮葱入のふはふはな玉子焼きがいいんぢやあないの、と笑はれるかも知れない。その指摘の正しさは一応認めておくが、實態はもう少しややこしい。そのややこしさは堅めに焼かれた玉子焼きが、わたしにとつてはおかずだつたからで、肴で味はふのとは付きあひの長さがちがふ。併し堅焼き玉子焼きとふはふは玉子焼きは別ものといふ感覚もあつて、どちらがいいのかの順番をつけにくい。無理をしてどちらかに軍配を上げる必要もないから、はふり出してゐるけれども。

 『鬼平犯科帳』に、長谷川平藏が韮入の玉子焼きで朝めしをしたためる場面があるさうで、残念ながら記憶にない。もしかすると讀んでゐないのか。まあそこは措く。大事なのは、かれの時代には既に、玉子焼きがあつたらしいこと。ご存知でせうが、平藏長谷川宣以は實在の人物である。若い頃に惡所で散々遊び、後年に火附盗賊改メ方の長官を務めたのは史實で、その五十年の生涯はほぼ十八世紀の後半と重なる。詰りその時期には少くとも旗本の朝食に出せる程度に、卵とその調理法は普及してゐたといふことか。ただ平藏の食卓に出たのが、今で云ふ厚焼きだつたか、それとも煎り玉子だつたのかは、はつきりしない。

 

 はつきりはしないが、江戸期の後半、卵料理に相当の種類があつたのは確實である。十八世紀末(平藏の死後である)に“卵百珍”…正確には『萬寳料理秘密箱』の“卵之部”が出版されたからで、有名な黄身返しもこの本に載つてゐる。尤も献立の一覧(百珍ではあるが全百七種)を見る限り、厚焼き玉子や煎り玉子は無い。百珍と称するくらゐだから、ありきたりは省く編輯方針だつたのだらうな。百珍で實際に食卓に供されたのは果して幾品だつたかと思ふのは、意地の惡い想像。

 変り種や風変りな調理が、変り種や風変りのままなのは、材料の入手が六づかしいとか、料る手順の面倒さとか、あるだらうが、要するに我われの平凡な舌に適はない…が極端なら、適ひにくいのが原因である。“卵百珍”に載つてゐる百七の料理をすべて出せるお店があるとして、註文はおそろしく偏るだらうなと思ふ。寧ろトルティージャなぞが無いのかと不満が續出しさうな気がする。念の為に云へば、トルティージャ馬鈴薯や菠薐草や玉葱やベーコンを使つたスペイン式のオムレツ…玉子焼きで、何べんか作つてみたことがある。成功した試しは無い。

 

 話がやつと玉子焼きに戻つてきた。尤も西洋式の玉子焼き…オムレツには縁が薄い。ごはんのお供にはしにくいからで、あつちの玉子焼き…いやこの場合はオムレツか…は、メイン・ディッシュに近い気がすると云ふと、スペイン人は笑ふだらうか。併しかれらはお米を食べるけれど、トルティージャをおかずにパエリヤを食べはしないでせう。ここでたれの随筆だつたか、お酒にオムレツといふ一節を讀んだのを思ひ出した。成る程。“東洋美人”や“鳳凰美田”ならきつと似合ふだらうから、トルティージャも葡萄酒やお酒にあはすと旨いにちがひない。

 たださうは云つても、玉子焼きは矢張り、しつかり焼き上げたのを、ごはん…海苔巻きのおにぎりもいい…と一緒に出してもらふのが一ばんいい。この“いい”は感情的なそれで、嬉しいとか旨いとかに近い。かういふ簡素な食べものは、土地柄や家庭で色々にちがふものだから、どんな風なのをいつ食べたかで、その後の嗜好が大体定まる。後になつて實はこつちが本筋ですと云はれても、成る程わかりましたと路線を変更するのは困難だし、さらつと変更出來るとしたら、その食べものに対して、腰を定める機会がなかつた(わたしの場合は蕎麦がさうか)、と考へてもいい。尤も玉子焼きにあやふやな態度を取れる筈はなく、詰りさういふ食べものが玉子焼きなのだと云つていい。

372 定食のこと

 ごはんとお味噌汁。小鉢。お漬物。それから主役になるおかずで纏められたものを、この稿では定食と考へる。従つてきつね饂飩にかやくごはんや、醤油ラーメンと焼き餃子三個と小炒飯、カレーとナンと少々の生野菜とラッシーは、そこから外れる。きつね饂飩と醤油ラーメンとナンの愛好家には申し訳ないが、さうとでもしておかなければ、収まりがつかなくなる。

 定食で一ばん目につくのは矢張り、主役となるおかずで、思ひつくままに挙げても

 

とんかつ

チキンカツ

海老フライ

鯵フライ

ハンバーグ

ミンチカツ

コロッケ

鶏の唐揚げ

豚肉の生姜焼き

焼き肉

(肉)野菜炒め

鯖の塩焼き

鯖の味噌煮

天麩羅

お刺身

酢豚

回鍋肉

青椒肉絲

 

それだけではなく、鰤や鶏の照焼き、秋刀魚やほつけの塩焼き、ニラレバー炒め、茄子の肉味噌炒め、麻婆豆腐、牡蠣フライやミックス・フライも思ひ浮ぶし、とんかつなら、ソースで食べさすのと、大根おろしを添へるの、卵とぢにするの、味噌煮込みにするのが考へられもする。ハンバーグだつてチーズの有無や目玉焼きを乗せるかどうかで区別出來る。わたしはさう似合ふとは思はないが、肉じやがやおでんやもつ煮、或はビーフ・シチューだつて歓ぶひとはゐるだらう。冒頭で決めた範囲を少しはみ出るが、ポーク玉子やちやんぷるー(沖縄式の場合、ごはんはじゆーしーと呼ばれる鹿尾菜入の炊き込みごはんが望ましく、汁椀はお味噌汁でなく沖縄そばでなくてはならない)の定食も考へられて、要するに切りがない。

 

 切りがない理由ははつきりしてゐる。ごはんの懐深さであつて、鰯や蛸のオリーヴ油漬けでもザワー・ブラーデンでも、定食にするのは不可能ではない(適ふかどうかは別に論じるべきとする)たとへばトルコ流の焼き鯖も定食に仕立てるのは可能で、これはオリーヴ油に漬けた鯖を焼き、玉葱とレタースとトマトを添へる。本来はバゲットに挟み、檸檬を搾つて食べるのだが、ごはんの登場を願つても、イェニチェリの軍樂隊とお琴の奏者が共演するよりは自然だらう。もう一度云ふと、かういふ組合せは、ごはんの懐深さがあつてこそ成り立つ。

 さうなると定食の旨いまづいは、そのおかずがごはんにどれだけ適ふかどうかで(ほぼ)決ると考へていい。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏よ、定食屋の看板や品書きを見て、おかずが旨さうだからと撰んではゐなかつたらうか。わたしはさうだつた。それでまづくはないけれど、今ひとつだなあと思ふこともあつて、それはごはんとの距離を見誤つてゐたからである。たとへばミックス・フライは定食にするより、そのひと皿で壜麦酒のお供にする方がうまい。天麩羅だつたら、纏めて出されるより、鱚や大葉や烏賊や穴子を順に揚げてもらふ方が嬉しいし、お銚子を一本(もしかすると二本)つけてもらへれば、もつと嬉しくなる。

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 だつたら定食の主役を張る最良のおかずは何なのだと、聲を荒立てるひとが出さうなものだが、それは軽挙にして妄動でもある。ベスト・ワンを決められるなら、それ以外の定食は無くてもかまはないことになりかねない。とんかつだらうが青椒肉絲だらうが、世の中にベスト・ワン定食しか見当らなくなれば、煮魚で定食をしたためたいと思つても、うちはナンバー・ワン定食しか出しませんからと云はれるのは不愉快である。さうなればチキン南蛮やハムカツを恋しがる連中が、きつと出てくるにちがひない。それが当然の人情なので、安易な“人気の定食ベスト・テン”を信用出來ない根拠はここにある。

 江戸の町には何々番附といふのがあつた。名所番附とか剣豪番附(因みに云ふ。江戸の剣豪番附では荒木又右衛門が大人気で、宮本武藏や佐々木小次郎の名前は見られない)とか、さういふやつ。あれなら惡くない。東西に分かれてゐるからぎすぎすしないし、番附なのだもの、次で入替る可能性もあつて、まことにおつとりしてゐる。文字通りのナンバー・ワンを決めない…避ける辺りが如何にも日本的だなあと思はれる。ここから日本(人)論に話を広げることも出來なくはない筈だが、この稿ではどうでもいい。そつちは機会を見つければ、改めて考へるとして、大事なのは、番附式の曖昧なランキングが定食に似合ふことではないか。

 

 さうなると我が定食番附はどうなるのか知らといふ興味が湧いてくる。何しろ考へたこともないから、どんな風になるものやら、自分でも想像がつかない。たとへば肉野菜炒め定食。わたしは大の好物なのだが、前頭辺りが妥当でせうね。鯖の味噌煮定食なら大関は確實。ミンチカツとコロッケと烏賊フライの盛合せ定食も、大関を張れるくらゐの貫禄がありさうだ。とんかつ定食はかなり六づかしい。ウスター・ソースや味噌、卵とぢ、或は大根おろしで、ヒレやロースで、随分と格附けが異つてくなる。とんかつ定食番附を分けて作るべきか。と考へを續けると、横綱は相応しいのは、豚肉の生姜焼き定食と回鍋肉定食になりさうな気がされる。どちらもごはんに適ふし、麦酒を求めない…いや回鍋肉は少し危険だが、麦酒が無くては収まらない程ではないから安心である。尤もこれはこの稿だけの番附で、別の稿ではチキン南蛮こそ定食の王さまだと書くかも知れない。さういつた融通が利くのも、番附方式の便利なところである。

371 急行列車のこと

 二十年とか三十年とかそれくらゐ前、東京から大坂に帰省する時、東海道本線を使つたことがある。当時は早朝に東京を發車する静岡行きの急行列車があつて、それに乗つてみたかつたのが理由である。確か静岡から豊橋を経由して名古屋まで出てから、近鐵の特別急行列車で上本町に到る径路だつた。

 

 その何年か後、同じ東海道本線の各驛停車だけを使はうと思つた。その時も早朝に東京を出て、夕刻に名古屋着。一泊して大坂に辿り着いた。切符代は廉かつたが、名古屋での宿泊代だの晩めしだので、東海道新幹線に乗るより高くついた。それはいいとして、名古屋の飲食について何も知らなかつたのでそこは詰らなかつた。知らなかつたのはこちらの失敗なので、名古屋人は気にしなくても宜しい。

 

 阿房な眞似をしたねえと云はれるだらうし、一概にちがふとも云ひにくいのだが、愉快な半日であつた。新富士だかその辺りでの乗継ぎ待ちで啜つた立ち喰ひ蕎麦は旨かつたし、名古屋で喰つた串焼きだつてまづくなかつた。それより小田原を過ぎてから走る海沿ひがよくて、曇り空の隙間からこぼれた朝の陽光が、波の頭を照らした様は、舞台の主役を花やかに色どつたやうで、あの時は罐麦酒を呑んでゐたが、暫く呑むのを忘れた。

 

 東海道新幹線にはお世話になつてゐるから、多少の心苦しさを感じつつ云ふと、車窓の風景は東海道本線に大きく劣る。もうひとつ云ふと、東海道本線は生活路線でもあるから、時間帯によつて客層ががらりと変る。通學の制服や通勤の背広の乗降が續いた後は、どんな用事があるのか判らない爺さん婆さんの乗り降りが續く。光る波の頭を見た後はまた罐麦酒を呑みながら、さういふ入替りを眺めもして、もしかしたら、こんな早くから麦酒なんてと思はれたかも知れない。

 

 さういふ樂しみはローカル、といふより生活の中にある路線でしか味はへないもので、時間が掛るのは決して惡い計りではない。仮に惡いとしたら、特別急行列車を使へばよいので、東海道新幹線の値うちはその撰択肢を寄越して呉れたことにある。帰省でも旅行でも、降りる驛に早く着到すればいいとは限らない。以前から何度も触れてゐる通り、列車の中で呑む麦酒や摘まむお弁当は、列車の中だから旨いもので、そこを存分に樂しまうと思ふなら、東海道新幹線は速すぎるし便利すぎもする。

 

 併しざつと確めると、東京または新宿發で、西に上る急行列車が見当らない。特別急行列車や快速電車は幾つかある。遠い区間を速く行くか、短い区間を遅く進むか、その区分けが極端になつてゐるらしい。實用、詰り降りる驛に早く着到する点だけで考へれば、それで別に不都合も無いのだらうが、我われは合理的で合目的的な理由だけで列車に乗るわけではない。特別急行列車と快速電車を廃止せよと云ふのではなく、乗ること自体、車窓の景色だつたり、乗客の入替りだつたり、罐麦酒や幕の内弁当だつたり、途中驛の立ち喰ひ蕎麦だつたりを愉しみに出來る列車があつても惡くないのではないか。

 

 たとへばそれをけち臭くてしみつたれた發想だと非難は出來る。さういふ愉しみは降りてからに取つておくと云ふひとがゐてもかまはない。寧ろさういふ人びとが多数を占めるにちがひなく、でなければ、ダイヤグラムがさういふ人びと向けになりはしない。わたしだつて普段はさういふ人びとに属するから、合理的で合目的的なダイヤグラムは有難い。有難いのは認めつつ、その隙間の樂しみも残してもらひたいと思ふので、それを無理筋の望みと云はれると困る。

 

 そんなら東海道本線に急行列車が甦るとして、令和の帰省に乗るのかと詰問するひとが現れさうで、確かにさう訊かれたら、正直なところ、どうだらうなとは思ふ。但しそのどうだらうは乗りたくないといふ気持ちより、乗りたいけれどもの、けれどもの部分の方が大きい。けれどもの部分をもう少し具体的に云ふと、一日掛り、一泊経由で麦酒やお酒をやつつけ、お弁当に定食にお摘みを平らげるまではいいとして、實行に移すと疲労困憊の極に達するのではないかといふ不安である。裏を返すとその不安が解消されるか、疲労困憊の極もまた一興と思へるかすれば、急行列車や各驛停車で遠くまで行くのに躊躇は感じない。残るのは撰択肢が出來ることで、大事なのはまたそこなのでもある。

370 味噌ラーメンのこと

 どこかで見た漫画でラーメンの話だつたが、味噌ラーメンを作るか何かする登場人物に、別の登場人物が止めておけと忠告する場面があつたと記憶してゐる。その忠告をする登場人物が云ふには、味噌はそれ自体が旨いから、ラーメンに使ふとしても獨創性(だつたと思ふ)を出すのは六づかしいさうで、味噌についての言は、旨すぎるだつたかも知れない。まあ一応の説得力はある。でなければ記憶の片隅にも残つてゐない。

 

 實際のところ、味噌はどう扱つても美味い。お味噌汁を先頭に、味噌煮、味噌焼き、味噌漬けに味噌焚き、饂飩を煮込むのによく、チーズや胡瓜に乗せてよく、そのまま摘んでもいい。ラーメン程度なら、易々とあしらふだらうなとは、わざわざ想像するまでもないし、あしらはれたラーメンに負ふ責が無いのも同じである。遊女の手練手管に童貞の少年が太刀打ち出來るものだらうか。

 ただ遊女に惑はされたからと云つて、味噌ラーメン自体はうまい。前述の漫画のやうに、“新しい旨さのラーメン”を作りたいなら、鬼門になる可能性はあるが、それはこちらの知つたことでなく、ありきたりでも何でも、不見転の店で外れを掴まない確率が一ばん高いのは味噌ラーメンである。

 その味噌ラーメンは大変に歴史が浅い。また出自がはつきりしてもゐる。新横浜ラーメン博物館の“日本のラーメンの歴史”項

http://www.raumen.co.jp/rapedia/study_history/

を参照して書くと、昭和二十九年に

 

 札幌「味の三平」にて、大宮守人氏が味噌ラーメンを開発。札幌ラーメンの方向性を決定づけただけではなく、後の札幌味噌ラーメンブームを引き起こす。

 

とある。因みに同じ“日本のラーメンの歴史”項で最も古いのが、長享二年で

 

 日本初の中華麺「経帯麺」が食べられた。この麺にはかん水が使われており、このレシピは現代のラーメンの麺とほぼ同じであった。

 

と書かれてゐる。文献について触れてゐないのが残念。長享二年は十五世紀の末頃(室町殿は第九代の足利義尚)で、大宮守人の發明とはざつと四百七十年の開きがある。味噌を汁に仕立てるのが六づかしかつたのか知ら。そこでマルコメの“味噌の発祥と歴史”項

https://www.marukome.co.jp/miso/history/

を参照すると、豆味噌を擂り潰して汁ものにする手法は鎌倉期に生れ、室町期に広がつたらしいと判つた。我われは室町殿の時代に不安定で血腥い印象を持つけれど、農業が大發展したのもこの時期である。大豆が例外でなかつたのは勿論で、味噌が贅沢品から当り前の食べもの…戰國期には足軽に兵糧として持たせられるくらゐ…へと変化した時期と考へていい。大した時代である。

 

 そこで気になるのは、味噌吸物の種。正確には麺を種に使つたのかといふ点で、先づ饂飩はどうだつたか。饂飩が現在に繋がる麺状の形を得たのは十四世紀頃らしい。蕎麦はぐつと遅れて記録に残る最古は十六世紀の後半(信州での寺社修復の際に振舞はれたらしい)である。案外と新しい。尤もこの新しさは、饂飩や蕎麦が“麺といふ形状”を手に入れた時期からであることには、留意する必要はある。詰りそれ以前から、小麦や蕎麦の實を粗く砕いて水で捏ね、茹でるなり蒸すなりして食べてゐた(饂飩の原形は麦縄、蕎麦は蕎麦掻き)からで、さういふところまで遡ると、歴史は霞むものだと實感出來る。

 では麦縄や蕎麦掻きも含め、饂飩や蕎麦は味噌吸物の種になつたのだらうか。文献や資料は見当らなかつたが、試さなかつたとは思へない。根菜や葉物や茸だけでなく、魚介も獸肉も一度ははふり込んだにちがひなく、美味いまづいの取捨撰択を経たのが今の味噌汁種で、その取捨撰択の中に饂飩蕎麦が無かつたと考へられるだらうか。そんな筈は無い。ことに蕎麦は貧相な土地でも育つのだから、食べ方は様々に試されたと思ふ(アイルランドやドイツでの馬鈴薯と同じである)のが自然だし、實態でもあつただらう。今に残らなかつたのは適はなかつたからで、確かに味噌椀の種に似合ふ麺類は、素麺くらゐしか浮んでこない。

 

 大宮守人といふひと。“20世紀日本人名事典”を主に参照すると

https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E5%AE%AE%20%E5%AE%88%E4%BA%BA-1640817

大正八年の旭川生れ。満州鐵道の運転士を経て、昭和二十五年にラーメン屋を開業。ここからウィキペディアを引用すると

 

 『リーダーズ・ダイジェスト』に掲載された、スイスの食品メーカー・マギー社の社長の文章を目にして衝撃を受ける。内容は味噌の効用を高く評価し、日本人はもっとこれを料理に活用するべき、と述べたたもので、それ以来、大宮は味噌を用いたラーメンの開発に従事することとなる。

 

だといふ。何となく眉に唾をつけたくなる(栄養食としては兎も角、味噌がうまい食べものだと知らなかつたとは考へられない)が、創始説話とはさういふものだと考へておかう。それに味噌をラーメンに転用するといふ發想自体は大宮に帰するところで、これは矢張り大したことである。どんな風に實現さしていつたのかは判らない。おそらく最初は味噌汁や豚汁の類で麺を種にして、何がよく何が惡く、何が足りないのかを絞り込んだのではないか。試作と試食を繰返し、数年掛りで形にしたといふから、この執着に大宮の人となりが透けて見える。奥さんと友人は大変だつたらうな。

 勝手な想像はさて措き、さうやつて完成に漕ぎ着けた味噌ラーメンが旨かつたのは、今に續いてゐることから、遡つて想像出來る。では冒頭の訳知り顔な登場人物は何故、味噌ラーメンは止めておけと忠告したのだらうと疑問が湧いてくる。それで考へるに、大宮の味噌ラーメンで、味噌ラーメンの殆どすべてが出來て仕舞つたからではないか。ラーメンに味噌を使ふのは確かにブレイク・スルーだつたが、その後に續く要素が七十年近く過ぎても姿を見せてゐない。そこを踏まへて“味噌は旨すぎる”だつたかの科白に繋がつたとすれば、あれは中々の場面だつたと云へるかも知れない。

 併しややこしい考察や理窟を横に置いて、風が冷たくなつてからの味噌ラーメンは有り難い。ふとくて縮れ気味の中華麺に、大蒜と唐辛子が隠れた味噌、たつぷりの野菜炒めは、寒い季節に食べるラーメンの完成形ではなからうか。その野菜炒めを摘みながら壜麦酒を呑むのは、實に嬉しいものだが、家の近所にさういふ味噌ラーメンを出す店が見当らない問題が残されてゐる。