閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

250 切つ掛け

 元來が出不精なので酒精と煙草があれば家に籠るのに抵抗は感じない。

 併しそれでも稀に旅行に出たいと思ふことがあつて何が切つ掛けなのか自分でもよく解らない。

 名所旧跡や神社仏閣に惹かれてでないのは確實だし花やかな催しがあるからといふのも理由としては大きくないからさう考へれば改めて不思議である。

  尤も特別急行列車に乗りビジネスホテルに泊るのは樂しくまた嬉しくもあつてさういふ慾求が高まつた時に旅行へ出たくなる可能性はある。

 なのでうまい驛弁と清潔なベッドが用意されたホテルと後はホテル近くに愉快な呑み屋があれば満足するがこれを果して旅行と呼んでいいのかどうか。

 勿論折角なのだから早い時間に到着してどこそこに行かうと考へるのはかまはないが名所旧跡にも神社仏閣にも興味を持てなければ早く着いても得になるとは限らない。

 それより旅行は移動の時間も含めて旅行なのであつてならば特別急行列車が惡いとまでは云はないにしても各驛停車で弁当(罐麦酒か葡萄酒の小壜かカップのお酒も忘れてはなるまいが)を使ふ方が好もしいとも考へられる。

 到着したら罐麦酒とつまみを買つてホテルに入り荷物をはふり出して先づ呑む。

 それは第一にさういふ眞似をしてもかまはないと自分に云ひ聞かせる為であり更にこれから安心して呑めるのだといふ気分の確認でもある。

 仮にお午頃に着いたとしてまだ太陽は高いからと遠慮する必要はないのでさうでなければ出不精が思ひ切つて表に出る甲斐がない。

 何なら晝寝をしたつて文句を云はれる筋はなくさういふ堕落した感じこそ旅行ではあるまいか。

 その程度の自堕落なら家でも出來るだらうといふ指摘の正しさは認めるけれど家に居ると洗濯物の乾き具合だの來月の支払ひの請求書だのが頭の隅に散らついて落ち着かない。

 落ち着かない分だけ酒精の味は惡くなるもので休日をそんな風に使ふならお札を何枚か余分に用意して外に出る方が余程にいい。

 話はだつたらどこに行けばいいかと云ふ疑問に繋つてこれは近すぎると外出の延長になつて日常の尻尾が残つて仕舞ふから中々に六づかしい。

 特別急行列車でも各驛停車でもぶらりと乗つてからお弁当なりサンドウィッチなりをつまめるくらゐの時間は慾しいと考へれば自然にほどよい距離が決つてくる。

 甲府

 宇都宮。

 小田原。

 新幹線のこだま號に乗るとしたらもう少し遠くまで脚を延ばせさうにも思ふが新幹線は全般仕事用だつたり帰省だつたりに使ふ印象があつてたとへば金澤に行かうとするなら兎も角この稿で云ふやうな旅行では遠慮しておきたい。

 念の為に云ふが金澤に惡意があるのではなくあすこは尊敬する吉田健一が愛した土地で胡桃餅やら鰌の串焼きやら鮴やら河豚の糠漬けやらを堪能したいのだがさうなると一泊二泊ではとても足りないのは明らかだからどうしても二の足を踏んで仕舞ふ。

 更に念を押すと甲府または宇都宮乃至小田原に含むところがあるわけでもなくわたしの住む東京からであれば特別急行列車“あずさ”號や湘南新宿線の“グリーン車”や特別急行列車の“ロマンスカー”でまづまづ適切な距離と時間ではないかとも思ふ。

 ここまで考へれば後は外に出る日とお財布の兼合ひが問題として残るわけだがそれはこの稿でどうかう云ふ話ではないしまたどうかうなつたとしても切つ掛けを掴めないことには表に出もしないので自分の出不精計りは如何ともし難い。

249 かつ丼考

 念の為に確かめてみたが、この手帖ではどうやら、正面から話題にしてゐなかつたらしい。

 かつ丼の話である。

 肉食…ここは“ニクジキ”と讀んでもらひたいところ…から距離を置いてゐる筈のわたしだが、かつ丼は例外であつて、いつ食べても旨い。この場合は卵でとぢる方式のかつ丼で、だつたらソースかつ丼味噌かつ丼はどうなんだと抗議されることが考へられるが、ちやんと食べたことがないので、その論評は控へるべきでせう。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏のご招待をお待ち申し上げる。

 では“卵とぢ式”のかつ丼(以下“ ”の箇所は省略しますよ)といふと、微妙な表情になるひとも出てきさうな気がする。カツレツやフライは衣がからりとしてゐるところがいいので

「それをわざわざ、煮崩す眞似をするのは、如何なものだらうか」

成る程。尤もな指摘である。そこは認めつつ、それでも旨いのだと反論せざるを得ない。好きだから旨いと思ふのか、旨く感じるから好きだと思ふのか、どちらにしても循環論法に陥るけれども、食べものの好ききらひはさういふものだ。但しチキンカツやビフカツ、牡蠣フライに鯵フライに海老フライの卵とぢは断然、拒否権を發動したい。

 何がちがふのだらう。牡蠣や鯵や海老なら、まあ海産物だからねえと云へるとして、チキンやビーフ(試したことはないが、きつと仔羊や兎でも)は獸肉だから、その云ひわけは通用しない。不思議である。もつと不思議なのは、我が國のカツレツはビーフが嚆矢であつたことで、いやそれ自体は奇妙とは云へない。明治の西洋人は牛肉を好んだらうし、日本にも細々と牛を扱ふ伝統があつた…と書くと

徳川慶喜は“豚一どの”…念の為に云へば、“豚肉好きの一橋どの”の意…と揶揄されたぢやあないの」

と反論されさうだが、さういふ揶揄は、豚肉好みが珍奇だつたから成り立つのではないですかと、再反論しておかう。序でながら、徳川将軍家には毎年の正月、彦根(だつたと思ふ)から牛肉の味噌漬けが献上されるならはしがあつたから、四ツ足を忌避する傾向の中で、牛は例外的だつたととらへても不正確の謗りは免れると思はれる。明治の西洋料理で、牛肉が比較的にせよ、早い時期か受入れられた事情は、さういふ背景があつた所為ではなからうか。

 内田百閒の随筆を幾つか捲ると、幼少時の栄造坊やが栄養をつける為、親戚の家で牛鍋だつたか鋤焼だつたかを食べさせられるくだりや、青年になつてから友人と共に(何故だかソーダ水を飲みながら)ビフカツを食べるくだりがある。百閒先生は明治二十二年に岡山で生れ、明治四十三年頃、東京に出る。これは十九世紀最後の二十年とほぼ重なる時期で、岡山辺りはまだまだ草深い田舎(岡山の讀者諸嬢諸氏よ、怒りたまふな)に過ぎなかつたらう。その土地で育つた造り酒屋の伜が、最初に食べた(造り酒屋は穢レを厭ふから、家族は余程慎重になつたらしい)のが牛肉だつたのは、明治日本での“肉の格”を想像させる。

 それがいつの間にやら、豚肉がのしてきた。少なくとも関東ではその筈で、一体何が切つ掛けだつたのか。単純に考へると、“肉を喰ひたい”といふ需要に対する供給でなからうかとなる。併しそんなら鶏があつた(注意書のやうに云ふと、江戸の町民は鶏を食べてゐた。格は随分と低かつたさうだが)だらうと思へてくる。もしかして需要が高まつたのは、“肉”ではなく、“四ツ足の肉”だつたのだらうか。食べものの歴史…起源を確定させたいと思ふほど、無益な努力もないのだが、とんかつは明治三十年代初頭に、かつ丼は明治三十年代後半から大正初期にかけて登場したらしい。といふことはそれ以前に豚肉への慾求はあつたと考へられて、百閒先生はとんかつ…かつ丼の勃興期(西洋料理乃至洋食で未だ牛肉が優位を占めていた頃でもある)に少年青年の時期を過ごしたのだらう。いづれにしても正確なところは解らない。

 そこで明治畜産史や獸肉への嗜好の変遷には目を瞑る。兎にも角にもとんかつが生れ、人気を博したのは確實として、それを卵でとぢる發想はとこからきたのか。ここで我われは、親子丼に目を向ける必要がある。例によつて多分に曖昧ではあるのだが、原型はおほむね、明治十七年から二十年にかけて出來た。元々は軍鶏鍋の〆…残つた出汁を卵でとぢて、ごはんを食べた…の応用だつたらしい。旨さうだなあ。…といふ感想はさて措き、かつ丼の登場に二十年前後、先立つてゐるのは注目に値する。盛切りの丼めしは当時、品下れる食べものだつたさうだが(親子丼も最初は出前だけの扱ひだつたといふ)、温かいし何より卵は獸肉ともごはんとも相性がいい。親子丼が人気なのか、だつたら、とんかつを煮てみるか…と思つたか、そこは定かではないけれど、間接的に影響された可能性くらゐ、あるんではなからうか。

 いや併し。とここで疑問が浮ぶ。一体に日本の揚げ料理は、天麩羅でもフライでもカツレツでも衣がうまい。ハムカツまで進むと、あれは揚げ衣の食べもの(ハムは寧ろ衣の調味料)と云つてもいい。その衣はからりざくりほろりが擬音として似合ふ筈で、潤びさせる理由はどこにある、あつたのだらう。さう思つたが、天麩羅…この技術があつたからカツレツやフライが大發展したのだとわたしは考へてゐる…は、大根おろしで食べるのがうまい。衣のざくざくした食感がないなどと、文句を云はうともしない。大根おろしを使ふのは天麩羅を揚げる為の火力が低く(二十一世紀とはちがふのです)、油でぼつてりするのを旨く食べる工夫だつたに相違なく、我われの曾祖父母にとつて、揚げものの衣は潤びてゐるのが当り前だつたのではないか。だとすると、とんかつを煮るといふ調理法に、作る方も食べる方も、それほどの抵抗感はなかつたのかも知れない。

 我ながら惡い推察でもないと思ふ。

 さて。かつ丼は、無愛想…訂正、簡素をもつて最良とする。卵にあはせるのは玉葱だけで宜しい。その卵はやはらかすぎると思へるくらゐが好もしい。丼に盛る時も、追加で何かを乗せる必要はない。どうしても寂しいければ、三つ葉を少し散らす程度なら、妥協してもいいでせう。グリンピースは論外である。とんかつは眞ん中から食べるのが常道で、かつ丼もまた例外にはならない。それだけで食べるのもいいけれど、折角の丼なんだから、口を大きく開け、ごはんと一緒に頬張る方が旨いに決つてゐる。但し口の中を火傷してはいけないから、その辺の余裕は見積つておかねばなるまい。ここで我われは、丼の中身が混ざらないよう、注意を払ふ必要がある。云ふまでもなく、とんかつと卵とごはんの組合せを存分に味はふ為…カレーライスと同じであるね…の留意事項である。さうして残り少なくなつてきたら、とんかつの端の片方で丼を綺麗にさらへ、最後にもう片方の端を食べれば、かつ丼を満喫する手順としてほぼ完璧であらう。尤も同じ手順がソースかつ丼や味噌煮かつ丼で通用するものかは疑はしい。詰り研究の余地があるわけで、さう考へると、かつ丼の道もまた奥が深い。

248 ダイヅキングダム

 味噌。

 醤油。

 醪。

 豆腐。

 厚揚げ。

 油揚げ。

 枝豆。

 もやし。

 きな粉。

 雁擬きに凍み豆腐に揚出し豆腐に雪花菜に湯葉に豆乳…外にも挙げてゆけば切りがなくなるから、これくらゐで止めておくが、すべて大豆または大豆由來である。応用篇だの何だの(たとへば麻婆豆腐や豆腐ハンバーグ)を加へると、まことに豊かな大豆世界が現出して、いや凝つた眞似をしなくても、枝豆や雪花菜をつまみに麦酒…内田百閒を尊敬するわたしとしては、シャムパンと云ひたいが、百閒先生の流儀に倣ふと、雪花菜に入れるのは銀杏が精々だし、檸檬を絞らなくてはならない。だからここは我慢をする…を呑み、豆腐のお味噌汁と、醤油を垂らした焼き厚揚げか、もやし炒めでごはんを食べてごらんなさい。ちよつと気取つた飯屋が好む(のではなからうか)“何々尽し”の大豆版が出來あがる。貧乏つたらしいなあと苦笑するひともゐさうだが、またその指摘は同じく苦笑でさうだねと応じざるを得なくもあるのだが、食べるだけでなく、飲み、更に調味でも使はれてゐると思へば、この植物の偉大さ…と云ふより寧ろ凄みが感じられる。鮪でも牛肉でもきつとかうはゆかない…と書くと

「だけど和風でしか食べられないのは、ねえ」

さう肩をすくめるひとが出さうだが、そこは心配しなくてもいい。大豆と鯖の水煮(鶏肉や豚肉、ベーコンでもいい)をトマトで煮るのが一ばん簡単。好みでバタを加へ、大蒜や葱、或は茹で玉子を入れて、バゲットと葡萄酒とチーズを用意すれば、洋風の大豆だつて満喫出來る。麻婆豆腐と厚揚げに甘酢あん(茸をたつぷり使ひませう)があれば、中華風になるから紹興酒にあはせるのだつて、無理ではない。メキシコやブラジルやアルゼンチンではひよこ豆やレンズ豆を肉と煮込んで食べるさうだが、調理の手順や味つけを工夫すれば、南米風の食卓(ないし酒席)でも大豆が活躍する余地は、たつぷりあるにちがひない。…かう書いて思ふ、ひよつとすると、宗教の禁忌や政治的な主張の異なるひとが集まる食卓で、たれからも忌避されずに済む、もつと云ふと歓ばれる数少ない食べものに、大豆を挙げるのは、正しい見立ではあるまいか。それに(わたしの理解の外にあるけれども)ヴェジテアリアンからだつて、非難の聲はあがるまい。尤も呑み助の立場から云へば、大豆で醸造または蒸溜される酒精が見当らないのが気に入らない。お酒や葡萄酒でいいでせうにと、呆れられるかとも思ふが、旨い大豆酒があれば、食卓でも酒席でもまつたき大豆の王國が完成するのに、残念な話ではありませんか。

 …ここまで書いて、念の為に確かめると、大豆の焼酎があると判つた。世の中は広いんだなあ。

247 閑居苦心外題文字面

 歌舞伎や浄瑠璃の題名を(主に上方では)外題と呼ぶ。漢字で構成され、文字数に制限はないが、奇数で収めるのがならはし。『菅原伝授手習鑑』なんていふのがさうです。念の為に云ふと、“スガハラ デンジユ テナラヒ カガミ”と訓む。ややこしいね。尤も『花街模様薊色縫』は“サトモヨウ アザミノ イロヌヒ”と訓ませる。“花街”を“サト”と訓ませるところで、躓いて仕舞ふよ。かういふ無理やりな訓みは、我われのご先祖の惡い伝統で、元々あつた言葉(この場合は音ですが)に芽出度い字を宛てる習慣があつた(たとへば“ワサビ”に“山葵”の字を宛てる)のが、逆転したのだらうか。いい加減な空想だから、踏み込みはしないけれど、日本語の表記の変遷を、この面から眺めらられば、それはそれで愉快だらうとも思ふ。併し歌舞伎や浄瑠璃の作家は、何を考へて外題をつけたのか。型のやうなものがあつて、凡百の作家は従ひ、さうではない何人かが敢然とその風習に逆らつて、その逆らひが次の流行り…型になつたのだらうか。もつと云へば流行りの字や単語があつたのかも知れず、いやこれも根拠のない空想なのだけれど、作者連の頭には藝術だの文化だの、そんなせせこましいことは浮んでゐなかつたと見立てるのは、大きな誤りとも云へなささうな気がされる。近世藝能史に詳しい方のご教示を待ちたい。

 と。こんな話から始めたのは、この手帖でもしかすると一ばん苦心を感じるのは、題名をつける時だからである。

『本文と関係があつて、関係はありつつ、併し“そのまんま”ではないこと』

これが原則。“そのまんま”が好もしいと思へば(主に食べものの話題)、勿論原則は脇に置くが、例外は例外として扱はなくてはならない。この手帖の目指すところは、丸谷才一や内田百閒の随筆で、いやまあ麓にすら辿り着けてゐないのは、十二分に自覚してゐる。ここは気持ちの部分。“おからでシャムパン(内田百閒)”なんて眞顔の冗談、どうしたら浮ぶものか。これが仮に“おからにシャムパン”や“おからでシャンパン”だつたら、眞顔や冗談の色がうすまつて仕舞ふ。或は“桃源郷のトンカツ(丸谷才一)”といふ奇妙な、そのくせひどく魅力的な題名が、一体どこから飛び出てくるのだらう。両先達が偉大な文學者なのは今さら云ふまでもないし、わたしの浅學菲才もまた同じだから、不思議に思つても当然と云はれたら、それまでだけれども、かういふ題名で、題名に相応しい中身のひとつ、書き上げることが出來れば、この手帖を閉ぢるのに何の躊躇ひも感じない。話が逸れさうなので、力こぶを作つて元に戻しませう。

 何の話だつたか知ら。

 さう。題名をつける苦心。この手帖だと全体を書き上げてから決める。最初から決めることも無くはないが、特定の食べものの話でもない限り、変更になることが多い。先に決めた題名で収まらないわけでもないが、それはごく稀な例外。収まらない大きな理由は着地点が予想外になつて、何かしら捻る必要に迫られるから(詰りわたしの書き方がいい加減といふことになるのだが、踏み込まれると甚だ具合が惡い)である。この場合は、書いた中で題名に使へさうな云ひまはしを探す。最近で云ふと、串焼きを話題にした[たかだか一本百円なのに]は、まあ綺麗に収まつた。或は幕の内弁当を取り上げた[オールスター・キャスト]や、ミンチカツを論じた[我らの父祖が磨いて育てた]は、中身との繋がりも含め、我ながら上手くいつた例かと思へる。讀者諸嬢諸氏の批評は別途お願ひしなくてはならないから、そこは口を噤むとして、問題はある程度にしても満足に到る題名を思ひつくのが稀なことである。わたしの語彙の少なさは改めるまでもないことだが、それらを基にした(まさかそれ以前ではない。と信じたい)言語の感覚が致命的に鈍いのだらうかと不安になつてくる。それとも間違つた方向に凝つてゐるのがよくないのか知ら。落ち着いて考へれば、[オールスター・キャスト]から、幕の内弁当を連想するのは随分と無理がある。自讚はしたものの、その苦心は明後日の方向だつたねと指摘されれば、反論は六づかしい。さう考へれば中身が(漠然とでも)想像出來る『花街模様薊色縫』には及ばないとも云へるわけで、大きに反省しなくてはなるまいか。

 さて、ではこの一文、題名をどうしませう。

 訓ませ方は兎も角として。

246 我らの父祖が磨いて育てた

 挽き肉のカツレツ。洋食である。日本製。但し由來ははつきりしない。纏めると

 

明治30年頃、浅草[煉瓦亭]が出した“ミンスミートカツレツ(minced meat cutlet)”が發祥といふ説。minceは挽く、meatは肉、cutletは揚げ物の意。佛語のcoteletteにヒントを得た造語でせうな。

②昭和初期、神戸の[三ッ輪屋精肉店[が、東京の洋食店の“メンチボール(今で云ふミートボールのことらしい)をヒントに考案したといふ説。

 

となるさうで、前者が事実に近い感じがする。何しろ[煉瓦亭]はとんかつでも元祖乃至源流の栄誉も得てゐるのだから、説得力がちがふ。尤も小聲で云ふのだが、“ミンスミートカツレツ”は豚の“カットレット”より2年ほど早い登場らしいから、何かをかしい気もされる。

 近代日本の食肉史は曖昧にしか知らないので(確か明治大帝が“朕ハ是ヨリ断然洋装ヲシ肉ヲ食ス”とか、そんな勅諭を出した筈)、その辺は曖昧なままにしておくとして、旨いものです、あれは。麦酒によく適ふ。定食になるとどうも脂つぽくて感心しないけれど。

 ウスターソースがいい。フライ、コロッケの類なら大体、醤油が似合ふ。また概して揚げたてはそのまま食べるのがうまいのだが、この場合に限つては、最初から“断然ウスターソースニテ食ス”と気張りたくなつてくる。デミグラスソースやタルタルソースも惡くはなくて、要は重くて濃いソースがいいといふことか。

 さて。そろそろ触れなくてはならなささうだから触れる。詰りどう呼ぶか。わたしはミンチカツと呼ぶが、東都ではメンチカツがおほむねではないか。このメンチカツ呼びには違和感があつて、未だに馴染まない。呑み屋で註文する時も、ミンチカツと云ふ。大将なり女将なり店員なりは、必ずメンチ一丁と諾けてくれて、流石にそこをミンチですよと訂正するほど神経質でもないが、矢張り落ち着かない。いや神経質かも知れないなあ。

 「だつて、挽き肉だつたら、牛のミンチとか、合挽きミンチとか、いふでせう」

とある女性(東都のひとである)にさう云ふと、確かにさうねと同意は得られた。併し彼女に云はせれば、そのミンチ肉がカットレットになつたら

「それは、メンチカツなんだけど」

なのださうで、ははあ、そんなものなのかと首肯はしたものの、納得はし難かつた。揚げることで名前が化学変化を起すわけでもあるまいし。

 ミンチがメンチに転化したといふ説がある。ただ音韻の変化を考へると、誤りに思はれる。仮にミ音がメ音に変化し易いとしたら、ミントキャンディだつてメントキャンディにならないとをかしい。音韻學には詳しくないから、断定は控へるけれども、これくらゐなら丸太は何も判つてゐないと叱られもしないだらう。

 尤も“ミンチ/メンチ転化説”は、丸きり無視していいとも思へなくて、ミンスミート…ミンチが、江戸ことば風に訛つたのではないか。明治30年頃の東京なら、文久元治生れの老人が闊歩してゐた筈だし、若ものはその江戸老人の薫陶を諾けただらう。その頃の東京なら、江戸ことば風の發音が残つてゐても不思議ではなく、メンチ(カツ)といふ畿内人の耳には些か奇妙な呼び方の淵源は、寧ろそちらではと考へたい。根拠がある推測ではないので、念の為。

 だが“ミンチ/メンチ問題”より気になるのは(ここからが本題。この先の表記はミンチカツで統一しますよ)、挽き肉をカットレットのやうに仕立てる思ひつきが、ぜんたいどこから生れたのかといふ点である。

 我われのご先祖が明治帝の勅諭以前から、時にこつそり、或は大つぴらに獸肉を嗜んでゐたのは明らか(嘘だと思ふなら、名所図絵に描かれた“山くぢら”の看板を見ればいい)だが、肉を挽くといふ加工の技術を持つてゐたどうか。西洋料理の輸入に伴つて持ち込まれた技法とする方が自然に思はれる。挽き肉を用ゐた西洋料理の代表格と云へば、矢張りハンバーグであらう。明治38(1905)年發行の『欧米料理法全書』には216頁に“ハムボーグ、ステーキ”の名前で紹介されてゐるのが、活字での最もふるい記録らしい。

 

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/848982

 

 それだと、“ミンスミートカツレツ”より後になるよと指摘するひとがゐさうで、すすどいとも思ふのだが、全書で紹介される程度にハンバーグが知られてゐたと考へたい。文面を見る限り、現代風のそれではなく、焼いたタルタルステイクのやうだとは云ふへ、明治の後半には挽き肉料理があつたといふ證にはならう。

 ここで日本ハンバーグ・ハンバーガー協会(一般社団法人でかういふのがあるのだね。知らなかつたなあ)の“ハンバーグの歴史”項を見ると

 

http://nhha.lin.gr.jp/hh/history/hamberg.html

 

『明治の文明開化の時代、肉食が奨励され(中略)一般的な家庭料理となったのは、(中略)1962年工場規模で生産されたインスタントハンバーグが市場に流通します。1970年チルドハンバーグが売り出されます』

 

とあるのに注目したい。書き方が非常に大雑把だから、変遷がさつぱり掴めないが、“挽き肉を小判型に纏め、焼き上げる”調理法は、随分と長い間、食卓の人気者に近くなかつたらしい。贅沢な外食だつたのだらうか。

 そこでミンチカツに戻ると、“ハムボーグ、ステーキ”は一応、洋食屋にあつた。ただ人気は残念なもので(何故だらう。当時の日本人にとつて、気味の惡い見た目だつたのか知ら)、洋食屋の親仁は困つたにちがひない。苦心して覚えたのに、腕を振るへない。と思つたかどうか、そこは定かでないが、カットレットを知つて、西洋料理にも

「天麩羅が、あるぞ」

と気がついた可能性はある。だつたら

「ハムボーグだつて、揚げちまへ」

乱暴な方法に發想が進んだとしても、不思議ではない。因みに云ふ。前記『欧米料理法全書』に依ると“ロービーフ1斤ほどを細に切砕し”て用ゐると書いてあつて、予め挽かれた肉を使ふ気配は見受けられない。準備には手間と技倆が求められただらうとは容易な想像であらう。それを天麩羅(!)仕立てに転用したのは、折角の手間暇を無駄にしない為の、苦肉の策ではなかつたか。

 率直に云つて、わたしはそれを笑ふ積りはないし、文明開化の可憐に涙を灌ぐ気持ちもない。一ぺんに受け容れられるには到らなかつたかも知れない…その理由として手間の分だけ高額だつたのではと推測するのは強ちまちがひではないだらう。値段の推移が判然としないのは残念だが、種の用意が面倒なコロッケが、登場の当時は“贅沢な”洋食だつたことを思ひ出せば、同様に見立てても宜しからう…が、この新奇な洋食が確實な愛好家を得たのは、疑ひの余地はない。

 肉の挽き具合。

 種の大きさ。

 衣の調子。

 油の温度。

 揚げる時間。

 あはせるソース。

 かういふ工夫と洗練が重ねられたのは旨いと歓ぶひとがゐたからで、さうでなければ、現代の我われがミンチカツに舌鼓を打つことはなかつた。そしてかういふ工夫と洗練を重ねる場所として、東京ほど似合ひの土地はなかつた。それを江戸といふ都市の特異さ(近世の一時期まで江戸は間違ひなく世界有数の大都市だつた。また江戸は職人が極端に多い男中心の都市でもあつた)から受け継がれた性格に結びつけるのは誤りでない。明治中頃までの東京人(上京者ではなく)のきつと直接の父祖たちは、蕎麦と天麩羅と鮨を磨き上げた人びとであつた。そこで考案され、磨かれ、生き残つた食べものがまづい道理はない…但しそれが現代の東京でも通用する法則なのかどうかと云ふと、甚だ疑はしい…といふものだ。不肖の倅と娘である我われは、ミンチカツを認めまた育てた祖父母…いやその先代か先々代に感謝しなくてはなるまい。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏よ、今夜はミンチカツで麦酒を一ぱい、樂しまうではありませんか。

245 トゥエンティ・ダラーズ・バーガー

 普段、頭の片隅にも上らない食べものと云へばラーメンとハンバーガーである。習慣と年齢の両方があつて、更に値段の割りには(偶に喰ふ分には兎も角)旨くないと感じるのが理由であらう。サベツ的と非難されるかも知れないが、どちらも食べものの格で云ふと随分と下でもあるから、余程に廉価か、余程に旨いかでないと、歓べない。

f:id:blackzampa:20190207102740j:plain

 そこで画像の話。福生の某ハンバーガー屋で食べた“スタンダード・バーガー”である。この時は一緒にハートランド・ビールを註文して、合計1,900円だつた。えらい高額である。ちよつとした蕎麦屋でお酒を1本と板わさに盛りを1枚やつつけて、同じか、少し高くつくくらゐだと思へば、勿体無い値段と云へなくもない。

 「そんならどうして食べたんです」

とすすどく質問されさうだが、歩いてゐた辺りでは蕎麦屋に限らず、外に旨さうな店が見当らなかつたのが事情のひとつ。それに福生と云へばヨコタ・ベイスメントでせう。アメリカンなスタイルのフードを食べなくちやあといふ気分もあつた。何がどうなればアメリカンなスタイルなのかは兎も角として。

 出來上りまで、少々待たされた。[McDonald's]や[ドムドムバーガー]だつたら、1,900円分以上のハンバーガーが出てきたらうな。併し出されたハンバーガーは、画像では判りにくいが、随分と分厚くて驚いた。喰つてみると肉の味がして、どうも註文を受けてから焼いたらしい。感心して、それからちよつと待てと自制心が働いた。わたしの住む土地には“町の洋食屋さん”があつて、ハンバーグが旨いのだが、そこは註文を受け、挽き肉を整へ焼いて、出してくれる。それが料理の当り前の筈で、ハンバーガーで感心するのは、どこかをかしい。それともハンバーガーはファストフードだから、手抜き…訂正、合理化を(極端に)推し進めてかまはないと、頭のどこかにあつたのか。

 更に云ふとまともな(!)ハンバーガーを用意したければ、相応の準備と手間が必要といふ、これもまた当り前のことに(ひつそりと)気づかされた可能性もある。考へてみたら蕎麦も備荒食が極端に洗練された食べもの(この点は江戸の町民を大きに讚へたい)であつた。ハンバーガーだつて、当り前の調理をすれば、当り前の手間なりに旨くなるのは不思議でも何でもないし、その分だけ値段に跳ね返るのもまた、止む事を得ない。と偉さうに云つたけれど、少し冷静になると、ハンバーガーが大完成に到つたのは亞米利加である。あの大雑把な米利堅連中が果して、まともなハンバーガーを作つてゐたのかどうか。ヨコタ・ベイスメントの兵隊たちは、この店のハンバーガーにかぶりつきながら

「ステイツより何倍もうまい」

と呟いてゐるかも知れない。尤ビアも含めて20ドルもすると聞けば、きつとテキサスを恋しがるにちがひないけれども。

244 ナポリタンを寄越せ

 ナポリ風とかナポリ人はナポレターノと呼ぶ筈だから、ナポリタンは和製伊語かと思はれる。トルコライスや天津甘栗と同じである。ごく簡単に

茹で(過ぎ)たスパゲッティのケチャップ炒め。

と定義して、まあ間違ひではないでせう。具に用ゐるのはハム(もしくはベーコンかウインナ)、玉葱、ピーマンくらゐ。チリーソースをほんの少し垂らして、大量の粉チーズを振りかけて、ホークを使つて啜り込むのがこの場合は正しい。

 伊太利人はこのナポリタンを見ると驚き且つうんざりするのだといふ。ちよつと待て、日本人はトマトを使はないのか。成る程、伊太利の食卓からトマトの姿がなくなつたら、伊太利人は絶望するだらうな。気持ちは想像出來る。

 ここでナポリ人に云ひわけをすると、我われはたれひとり、ナポリタンを伊太利料理と思つてゐない。亞米利加を経由し、我が國で獨自の変化を遂げた洋食の一種…その意味ではとんかつと同じ範疇に入る食べものといふ認識。なので伊太利人ナポリ人には、我われがカリフォルニアロールを眺めるやうな気分で、ナポリタンのお皿を見てもらひたい。

 亞米利加を経由したと書いたのは本当ですよ。詳しいことはご自身で調べて頂きたいが、太平洋戰争の敗戰後、米國式のケチャップスパゲッティを目にした横濱のホテルの料理長が

「まつたくあの連中の食べ方は憐れでいけない(意訳である。念の為)」

と工夫した結果なのださうで、さう考へるとこれはヨコハマスパゲッティ(伊太利語風ならヨコハマーニャか)と呼ぶ方が、歴史的にも正しいか。尤もヨコハマスタイルの原型は、スパゲッティにハムとピーマンとマッシュルームを炒めて加へ、生トマトに玉葱、大蒜、トマトペースト、オリーヴ油を使つたトマトソースを和へたものだつたといふから、ケチャップの姿は見えない。これだつたらナポリ人だつて、納得の顔を見せただらう。

 ではケチャップを用ゐだしたのは一体いつ頃なのか。はつきりはしないが、近い時期の洋食屋(矢張り横濱)だつたらしい。トマトを使つてソースを作る手間を省く工夫だつたのか。因みに云ふ。ケチャップが我が國に入つたのは明治の半ば過ぎ(19世紀末から20世紀初頭にかけて)だつたから、戰後の洋食屋がケチャップを使つたのを、奇異な方法と見るのは誤り。ここまではいいでせう。併しそのケチャップ式ナポリタンが、どうやつて全國に広まつたのか、また炒めて供するに到つたのか、よく判らない。ファミリーレストラン(昭和四十年代の中頃に遡れる)のメニュに載つたのが大きいといふ説があるが、本当か知ら。

 歴史の詮索は専門の研究者…ナポリタン専門の研究者がゐるのかどうかは別として…に任せませう。我われは大雑把に、ヨコハマスタイルのスパゲッティが、洋食屋の親仁や喫茶店のマスターの手で安直…ではなかつた、素早く手軽で安価に提供出來るまで変化を遂げたのだと理解しておけばいい。茹で置いたスパゲッティの炒めあげとケチャップでの味つけは、それらの云はば最大公約数であつて、ここまでくると申し訳なくも思ふが、ナポレターノが口を挟む余地は(少)なからう。

 かう書いた以上、わたしが亞米利加發横濱経由洋食屋喫茶店変化のナポリタンを大きに好むと、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏には完全に理解されたと思ふ。そこはまつたく否定しない。否定はしないが、不満と云ふか要望と云ふか、それが無いわけでなく、詰り葡萄酒に似合はない。伊太利式ならそんなことはない筈で、ケチャップのもたらした弊害であらう。裏を返すと、その点がどうにかなれば(チリーソース?七味唐辛子?それとも柚胡椒?)、ナポリタンはわたしの食卓に、もつと重要な地位を占めることになるだらうし、ナポリ人とも仲良く飲めるにちがひない。ナポリタンを寄越せ。葡萄酒に適ふひと皿のナポリタンをば。

243 たかだか一本百円なのに

 以前から何べんか(または何べんも)触れてゐる話題だが、気にしない。

 串焼き…焼き鳥やもつ焼きについてである。

 アラブにはシャシリュークだつたか、羊肉を長い串に刺して焙り、香草をまぶしつける料理があるらしく、旨さうだね、これは。尤もアラブ人にはムスリムが多いといふから、シャシリュークを貪りながら、麦酒を引つ掛けるわけにはゆかなささうで、ちよいと困るけれども。

 廉い…まあ大体の場合は。

 串一本で百円とか百五十円とか。

 好みの串を数本と焼酎ハイ、そこにもつ煮を奢つても二千円以内に収まる筈で、かう書くと、一部の讀者諸嬢諸氏は鼻を鳴らすだらうか。

「そんならあと千円か二千円出して、ステイクでも蕎麦でも食べる方が余つ程ましだよ」

ステイクや蕎麦が旨いのは認めるとして、併しその見方はをかしい。比較するならせめて同じくらゐの値段で対案を出すか、だつたら家で食べますよといふ撰択の筈である。鰯の生姜煮とピロシキを較べる積りになれるものかね。

f:id:blackzampa:20190203195737j:plain

 喧嘩腰は止めませう。

 わたしは平和的な男なんである。

 そこで串焼きに話を戻すと、ゆつくり飲みたい時、あんなに嬉しい食べものはない。ポテト・サラドだのもつ煮だのをつつきながら

「ハラミ、カシラ、ハツ。全部、たれで(何故たれなのかは後で触れる)」

と註文したとする。さうすると焼き場でハラミとカシラとハツが焼かれるわけで、どうしたつて時間が必要になる。

 この待つ時間がいい。

 ことに目の前に焼き場があると、あれがわたしのハラミとカシラとハツかと判るから、それを見物しながら飲むのが旨い。素早く頼むよといふ焦りと、丁寧に焼いてくれ玉へといふ気分が、ごつちやになつて、おやおや、おれはこんなに我が儘だつたのかとも思へてくる。それで

「お待ち遠さま」

とお皿が…訂正、お皿に乗せられたハラミとカシラとハツが出されると、口ではどうもとか有難うとか云ひながら、腹の底ではうむご苦労と呟いてゐるから、厭な客だねまつたく。

 最初はそのまま囓る。我が若い讀者諸嬢諸氏の為に云ふと、たれの味も店によつて異なつてゐるのです。どろりと濃いのとさらりとした感じ。甘みが勝つてゐるのと、辛さが感じられるのと。堅い歯触りとやはらかな口当り。濃い淡いと甘い辛いと堅い軟らかいに関係はなく、その辺がどうだかは食べてみないと解らない。好もしい味なそのまま食べる。場合によつては七味唐辛子を振つたり、辛味噌を添へたりもする。

 さうやつて食べながら、次の註文を考へる。ここの切れ目は短い方が望ましい。ハラミとカシラとハツを食べきる前に、ぼんじり、ねぎま、タンとレヴァ。いづれも矢張り、たれだお決めて聲を掛ける。序でに焼酎ハイのお代りも頼んでおきませう。油断は禁物である。何の油断なのか、書いてゐる本人もよく解つてはゐないのだが、さういふ些細な点に膠泥しても仕方がない。それで何べんか食べ(通ふの意味ですよ)、たれの味や焼き具合を信用していいと思つたら、塩で註文を試す。

 「串焼きは塩でないと、素材の味が云々」

とのたまふひとが世の中にゐるのは承知してゐますよ。またそこに一定の説得力を認めるのも吝かではない。わたしは平和的な上に公正な男でもある。但し全面的な同意を示すわけにはゆかない。塩至上論者は、串焼きを塩で仕立てる場合

「肉と塩と焼き方が調和しなければ、旨くない」

といふ事實を見逃してゐるか、目を瞑つてゐるかの一点で、致命的な誤りを犯してゐる。もつと短く、調理は“素材の味を引き出す”技法なのだと云つてもいい。たれ仕立てでも條件(の骨組み)は同じだが、たれ自体がある程度…といふのはそのお店の中で、だから…は完成されたものなので、上手下手が表に出にくい傾向がある。たかだか一本百円の串焼きで、然も不見転の見せに入る場合、当りを引くより外れを引かないことを重視すべきで、その点からたれは有効な撰択と考へていい。

 さてそこで、これなら大丈夫だと塩を試してみるとする。何で試すのがいいだらう。わたしなら葱にする。火の通し具合、塩の効かせ具合で、味がちがふのには驚かされる。肉は火を通せば相応に食べられるが、葱だと太さや水気、串に刺つた箇所で細かな調整をしないと、余程に味が変るものらしい。なので厳密にしたいなら、二本は以上を頼むのがよからう。それで安定してゐると感じられれば、タンでもハツでもレヴァでもシロでもお好みを塩で註文して安心である。多分。

 「莫迦だなあ。たかだか百円かそこらの串焼き程度に、そこまで手間を掛けるなんて」

と笑ふひとはそれでかまはない。口に入れた途端に溶けるやうな脂身に舌鼓を打つたとしても文句はありませんよ。わたしだつて偶にちよつぴりなら、惡くないと思ふ。ただね、それは最初から美味しいといふのが(それなりに)保證されてゐるでせう。自分の舌と足で、旨く食べる工夫…愉しみがあつたつて、かまひますまい。強要はしないけれども、最初つからそこを拒んでくるひととは、酒席を共にしたくはないね。

 いや失礼、自分の串焼きを待つみたいに、のんびり…と書きかけて気がついた。串焼きは基本的に作り置きが許されない食べものである。詰りいつだつて出來たてを食べられるわけだが、さうするには時間…といふより、時間を作れる余裕が必要になる。たかだか一本百円なのに。食べては飲み、飲んでは焼いてもらひ、飲みながら待ち、次の出來たてを食べる。せかせかした気分だと、このローテイションを満喫するのは中々六づかしい。さういふ視点に立つと、串焼きで一ぱい呑るのは、見た目より贅沢な行為であるとも云へる。たかだか一本百円なのに。葱のお代りに獅子唐は塩。ハラミの追加はたれに戻り、タンとレヴァは塩にする。それから

「焼酎ハイを、もう一ぱい」

242 再びGF3のこと

 入手して以來、オリンパスのボディキャップ・レンズ(9ミリ)をつけつ放しで使つてゐる。ライカ判に換算して18ミリ相当で明るさはF8の固定。一応は距離の設定が可能だけれど、こんなのは飾りで、ふいと取り出してスイッチを入れ、縦横でばちばち撮ればそれでお仕舞ひ。安直と云はれる可能性はたつぷりあるが、では安直でどこがいけないんですと訊いて、満足な答が返される期待は皆無に等しいだらうなと思ふ。眞面目な話をする積りはなかつた。大体毎日、外に出る時はGF3を持ち出して、幾つかの不満…といふか不便が感じられてきたので、それを順不同に挙げてゆく。

 先づストラップ。今はライカ銘のコンパクト・デジタルカメラ用の手首に通せるタイプをつけてある。惡くはない。惡くはないが、取りつけが紐を通す方式なので、気がつくと捻れてゐて落ち着かない。肩首から下げるストラップは入手時、一緒にあつて、それを使ふ方法は考へられても、そもそもが肩首から下げたくないから、却下せざるを得ない。手元には三脚穴に捩ぢ込む手首用のストラップ(多分エツミ製)がある。手に持つと中々いいのだが、どう持ち運ぶかといふ問題が残る。

 續くのがケイス乃至バッグ。以前にも触れた通り、本体はLOGO by hamaのソフトケイスかシグマのポーチに入れてゐる。常用しない物はハクバのポーチに纏め、kiplingの小さなショルダー・バッグにはふり込んでゐるのだが、漠然としつくりこない。収まり具合はすつぽりだから、その点に文句はないとして、何がしつくりしないのか。今の主軸がGF1だから、義理を感じてゐるのかも知れない。漠然は落ち着かなくて困らされる。

 併し一ばんの問題はレンズである。と書いてから、自分でもをかしいと思つた。元々GF3はボディキャップ・レンズの為のカメラで、それ以外の(眞面目な)寫眞はGF1で撮ればいい。その筈だつたのに、何がひとつ、GF3でも“当り前に使へる”レンズがあつてもいいかなと思つてきた。だつたら手持ちのレンズを流用すれば解決するよと云はれさうで、確かにひとつの解決策である。それは認めつつ、その手持ちのレンズが似合はないといふ問題が出てくる。手持ちはパナソニックの14‐45ミリとシグマの30ミリ。性能に不満はないが、GF3には大振りなのが難点で、GF3のコンパクトがスポイルされるのは困る。そこで調べてみると、何本か似合ひさうなレンズがあつた。

 最初はパナソニックの14ミリ。確かGF3が現行機の頃は、セットでも賣られてゐたかと思ふ。28ミリ相当は馴染みのある画角で、併しこれはGF1で使ひたい。オリンパスの17ミリ(F2.8の方)も小振りだが、余程の掘出し価格なら兎も角、今から買ふレンズかといふ疑問がある。近い画角にはパナソニック20ミリがある。かなり評価が高いさうだが、それなら矢張りGF1で使ひたくなる。視点をズームレンズに向けると、パナソニックに14‐42ミリの電動式と12‐32ミリ(これもあまり恰好がよくない)があつた。前者はスタイリングが絶望的な惡さなので目を瞑る。オリンパスだと14‐42ミリezといふ電動ズームレンズがある。マイクロフォーサーズ用の所謂標準ズームでは、おそらく一ばん小柄な筐体で、持ち歩きに便利さうにも思へる。但し28ミリ相当から始まるのは多少の不満を感じなくもない。12‐32ミリといふ24ミリ相当始りがあつて、また望遠にはそれほどの興味を持ちもしないから、さう思ふのだらう。小ささと利便の天秤となるのだが、どちらを撰んだとしても、万能性は認めざるを得ない。だつたらどちらでも暫く使つて、GF1に流用する方法もあると云はれたら、それはさうとして、それだと手持ちの14‐45ミリの立場がなくなつて仕舞ふ。大体ボディキャップ・レンズを使ふ為に入手したGF3に、“当り前に使へるレンズ”をつけるのは、本末転倒も甚だしい。ひとまづは無駄遣ひを控へ(または我慢す)るのが、あらまほしい態度であらう。それにボディキャップ・レンズはもう1枚、15ミリがある。これを暫く使つてから、改めて今後の使ひ方を検討しても遅くはない。面白くも何ともない結論だけれど、GF1と2台で持ち出すことも考慮の隅に入れねばならず、さうなるとパズルめいたことになつて、實のところ、これは中々に樂しい閑潰しなのである。

241 カレンダー

 川合玉堂

 日本画家。

 奥多摩御嶽にある玉堂美術館の年譜を参照すると、明治六年愛知県葉栗郡外割田村(今の一宮市)生れ。本名は芳三郎。昭和十九年に奥多摩へと疎開し、その地で没した。詳しい紹介文は以下の通り(数字のみ、漢数字に改めた)

 

『近代日本画壇の巨匠、川合玉堂は日本の自然をこよなく愛し、数多くの風景画を描きました。

明治六年愛知県に生まれ、十四歳で京都の日本画家、望月玉泉、のちに円山派の幸野楳嶺に師事し天分を大きく伸ばしました。

二十三歳で東京画壇に転じ、橋本雅邦に学び狩野派を極め、円山・四条派と狩野派を見事に融和させ、日本の四季が織りなす美しい自然の風物詩を情趣豊かで写実的に描く独自の境地を開きました。

東京美術学校教授、帝国芸術院会員など歴任し、昭和十五年文化勲章を受章しました。

昭和三十二年六月三十日没、勲一等旭日大綬章を受賞』

 

http://www.gyokudo.jp/index.html

 

 おそらく晩年だらう寫眞を見ると、おつむりは些かさみしいけれど、痩躯に如何にも明治生れらしい髭を蓄へた、生眞面目な人物といふ印象を受ける。官展の審査員を歴任し、文化勲章やレジオン・ドヌール勲章まで授けたくらゐだから、少なくとも奇人ではなかつたのだらう。明治六年生れには河東碧梧桐与謝野鉄幹泉鏡花がゐる。西郷隆盛が下野したのもこの年。意外なのは仇討ちが正式に禁止され、キリスト教が禁教でなくなつたのも矢張り同じ年。廃藩置県はわづか二年前のことで、詰り江戸式の日本が、(曲りなりにも)近代國家へと変貌する舵が大きく切られた時期…それは四年後の西南軍争で区切りがつけられる…だつた。

 ひどく乱暴な云ひ方をすれば、明治は江戸を何とか捨て去らうと足掻いた時代であつた。少なくともその面はあつた筈で、だからと云つて我われのご先祖を軽んじてはならない。でなければ欧州に追ひつけず、追ひつけなければ國の未來が危ぶまれると信じられた時代でもあつた。さういふ時代の空気を胸の奥底まで吸ひ込んで育つたにちがひない芳三郎少年が、絵画…それも“前時代的”な絵画に惹かれたのは何故だらう。ひとつには少年の周りは、“洋化”が進んでゐなかつたこと(絵と云へば水墨画や浮世絵)が考へられる。更に父親は筆墨硯紙を商つてゐたといふ。ひよつとすると、幼い芳三郎は賣りものにならなくなつた筆と紙で落書きをしてゐたかも知れず、いやこれは想像に過ぎないけれど、切つ掛けを探ると案外、無邪気だつたりもしないだらうか。

 その前に。と我が親愛なる讀者諸嬢諸氏から質問が出るだらうと思ふ。そもそも突然、川合玉堂を取上げたのにはどんな事情があるんです。勿体振つた理由ではない。ある場所で偶々、玉堂の絵を使つたカレンダー(壁にぶら下げる式)を入手したからで、ふとどんな画家だつたのか、気になつたんである。ね、實に単純でせう。この手の話は遡れば、ややこしくはならないものだ。

 そのカレンダーでは全部で十二枚が使はれてゐる。題材は風景や動物、人物とヴァラエティに富んでをり、見てゐて安心出來る。わたしは日本画について、丸で無知な男なのだが、日本画の骨組みを生眞面目に受け継ぎ、篭中に収めれば、かういふ画になるのではないかとも思へる。ここで改めて生眞面目といふ言葉を用ゐたのは、かれよりわづかに年長の竹内栖鳳(元治元年生れ/昭和十七年没)を思ひ出したからである。栖鳳は一ぺん、観に行つたことがある。日本画の骨格に西洋画の技法が埋め込まれて、本人の性向もあつたのか、息苦しさを覚える緻密な画だと思つたのは忘れ難い。比較が出來るほどの鑑賞眼は持合せないから、そこは慎重に後退りするとして、玉堂には栖鳳ほどのラジカルさは感じられない。但しそれは栖鳳の(いはば)衝撃が優れてゐると云ふのではなく、併し部屋の隅にそつと飾るなら、わたしは玉堂を撰ぶ。我が國の絵画は妙なもので、美術館で麗々しく展示されると、大体の場合、詰らなくなる。屏風や掛軸は茶室なり何なりに置かれて初めて落ち着くもので、時に薄茶を啜り、或は温めたお酒を含みながら、ぼんやり眺めるのが正しい。

 ところで我が親愛なる讀者諸嬢諸氏もご承知のとほり、日本の伝統的な絵画の一特徴である平坦…奥行きや立体性の乏しさは、美術史家が何人も指摘してゐる。正しいと思ふ。ただその指摘は画面自体の構図や描寫に止まらず、それが描かれた屏風や襖(西洋画で云ふところの額)まで含める方が、實態に近さうに思はれる。その平坦…平面性が何を(暗)示してゐるのかは美術史家にお任せして話を逸らすと、カレンダーは日本画と(比較的)相性のよい印刷物と呼べるのではあるまいか。何しろ掛軸風に扱へる。尤も日本画なら選り取りみどりと思ふのは誤りで、役者の錦絵や春画では落ち着かなくなつて仕舞ふ。さう考へると、我われの生活の中にあつて不自然ではない画を描いた玉堂は、明治に生れ、江戸の風を受け継ぎ遺した、優れた画家なのだと云つてもいい。おつむりは少々、さみしいけれども。