閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

1050 黑喰ひ

 この稿では"シホコブ"と訓んでもらひたい。

 ざつと調べた範囲で云ふと、明治の初期に原型が出來たらしい。内國勧業博覧會に出品したさうだから、注目に値する技術と考へられたのか。昆布を煮詰める技術じたい、もつと以前に確立されてゐたことを思へば、明治日本の可憐に微苦笑を浮べてもいい。

 好物である。そのまま摘むのが旨ければ、ごはんに乗せるのも旨い。海藻を悦んで貪るのは、我われが御先祖から受け継いだ習慣であつて、中華は勿論、イタリーにもフランスにも、かういふ食べ方は見当らないと思ふ。蛸を好むギリシアや、鱈のコロッケを誇るポルトガルではどうか知ら。

 塩昆布が有難いのは、調味料としても使へることで、画像はその一例。品書きには"塩キヤベツ"とある。胡麻油をあはし、くどいのだか、あつさりしてゐるのだか、曖昧なのがいい。こいつを横に、唐揚げだのハムカツだの、串焼きの盛合せだのを摘み、焼酎ハイなんぞをやつつけると、昆布喰ひでよかつたと思へてくる。

1049 視点

 随分と以前、どこの公園だつたかで、盆栽の展示を見たことがある。手間暇の掛かる趣味らしい。出來の良し惡しはさて措いても、丹念に育てただらう松の枝振りに感心した。同行の友人は、人工的に過ぎるねえと、審美的な視点で批判して、正しい一面を衝いてゐた。

 併しさうでない面もあつて、盆栽は園藝より庭園に近い趣味かと思ふ。我が賢明なる讀者諸嬢諸氏には念を押すまでもなからうが、庭園は造るだけでなく、その後の永續的な手入れが欠かせない。たとへば水戸は偕樂園の梅林を前に、自然は美しいなあと思ふ間抜けはゐないでせう。地形も植樹も蕾が緩む時期も計算づくで造られた…云はば人工の極致が偕樂園だもの。感慨が別の方向になるのも、当り前である。

 偕樂園に限らず、入念に計算され、丁寧に造られ、丹念に手入れされた庭園の一部を切り取り、うんと縮めたのが、盆栽の少くとも一面だと、私は思つてゐる。

 ここまで書いて、どこかの博物館で見た、江戸時代の蕎麦屋の屋台(復元模型)を思ひ出した。蕎麦とつゆと丼を綺麗に収める棚を設け、担げるくらゐの大きさに纏めてあつた。店の設備から蕎麦を供する為の必要だけを切り抜いて、屋台に出來るまで縮小されて、まつたく日本的だなあと感心した。盆栽のやうな藝とは異なる面もあるが、切り取りと縮小…圧縮志向の点で、両者が遠い親戚くらゐの距離にあると見るのは、間違ひだと云はれなささうに思ふ。

 もうひとつ、(些か強引に)聯想を進めれば懐石が浮ぶ。豪奢華麗には程遠いけれど、細部への贅の凝らし様、気配りの施し具合は、馳走の大庭園を盆栽式に落し込んだ如く…と云つて、咜られる心配は(心得違ひをやんはり、指摘されるか知ら)あるまい。こんなことを云ひだしたのは、上に挙げた画像の所為である。小さなお皿に、ちまちま盛られたお摘みを、盆栽的な圧縮の遠いとほい一族ではないかと思つたからである。まあ見方によつては、だけれども。

1048 方向ちがひ

 スマートフォンau版のAQUOS SHV45を相も変らず使つて、呑み喰ひを記録してゐる。ごく一部はこの手帖や、インスタグラムにアップロードをしてもゐる。我が数少い讀者諸嬢諸氏の何人かは、見たことがあるかも知れない。

 大体の場合、そのままは使はない。程度は兎も角、トリミングをする。色の処理もしなくはないが、そこまでするのは稀で、序でながら、スマートフォンで撮つて直ぐ、様々に手を加へられるのが便利なのは認めるとして、何とはなし、わざとらしい感じが残る。気がする。

 たとへば上の画像は、某夜の某ラウンジで出された、オイル漬け鰯のトーストで、中々うまかつた。オイルと塩つ気とチーズは、まつたくの出合ひものだなあ…といふ感想はさて措き、この画像には、トリミング以外の調整をしてゐない。十分に撮れたから、ではなく、手を入れても仕方がないと考へた所為である。

 画像の加工を厭ふのではない。諸々工夫を凝らすひとは、技術をカクテルさせる工程も、樂んでゐるだらう。樂んだ工程を経た画像を眺めるのは、叉こちらの樂みでもある。ただここで私は、吉田健一のカクテルに対する痛烈な罵倒を思ひだす。あの呑み助と食ひしん坊を兼ねた批評家は、カクテルといふスタイルを(大意)

 「まづい酒をまづく感じさせず飲ます工夫」

と評してゐた。私は吉田をたいへん尊敬してゐるが、この言に限るなら、世の中のバーテンダーは、腹を立てていいと思ふ。話を戻して、吉田の評を画像の加工に置き換へれば

 「下手糞(或は失敗した)冩眞を、下手糞叉は失敗と感じさせずに見せる工夫」

くらゐにならうが、私がこんなことを眞顔で口にしたら、関係無関係各方面から、間違ひなく袋叩きにあふ。第一私は、ギムレットを好む男だから(ただ好みに適ふ一ぱいを作るバーテンダーは、過去に二人だけだつた)、画像の加工を評するのに、カクテルを譬喩に用ゐては、渡世の義理に反して仕舞ふ。戻した筈の話が叉、妙な方向になつた。私は何を云はうと思つてゐたのだらう。

1047 曖昧映画館~昭和残侠伝

 記憶に残る映画を記憶のまま、曖昧に書く。

 

 東映やくざ映画には

 堅気を大切にする侠客が、

 惡辣因業な輩の卑劣な嫌がらせに我慢を重ね、

 最後には堪忍袋の緒が切れる。

 といふ定型がある。積つた鬱憤を晴らす一点で、勧善懲惡の水戸黄門や遠山の金さんと同じ骨組み。この映画も例外ではないのは勿論である。

 

 舞台は終戰間もない淺草。

 立ち並ぶ露店商を守らうとする関東神津組と、その露店商から錢を巻き上げようとする新誠會が対立する中、池部良が神津組に草鞋を脱ぐ。そして復員兵として神津組に戻つた高倉健が、非業の死を遂げた四代目の後を継ぐ。

 新誠會の聯中は土地に屋根附きのマーケットを建て、荒稼ぎを目論んでゐる。建てるのは兎も角、錢に汚い輩に仕切らせるわけにはゆかない。五代目となつた高倉健は、それでも最後の最後まで喧嘩はすまじきこと、といふ先代の遺言に従はうとするけれど…。

 

 筋立ては陳腐。不可解な謎も鮮やかなどんでん返しも何も無い。併しそんなことはどうでもいい。様式に沿つた所作の恰好よさが、寧ろ目に染みる。たとへば序盤、神津組を訪れた池部良が、若頭に挨拶を通す場面のやり取り。リアリティなんざ、はふり捨ててかまはないと強く思へてくる。

 公開当時、映画館を出た男たちは、一様に肩をそびやかしたといふ。新誠會へ殴り込みを掛けた高倉健池部良にきつと、理不尽を押しつける取引先へと怒鳴り込む自分を投影してゐたに相違なく…可憐と笑つてはいけない。この映画を観た後、私の肩は確かに錨の形になつてゐた。

1046 明日の葉つぱ

 最初に焼酎ハイを註文した。そしたら、けふは鯵一尾を丸ごと、天麩羅にしたのがありますと云はれた。摘まない手はない。すりやあ、いただきませうさ。別席で麦酒を呑んでゐた、派手やかな顔立ちのお姐さんが

 「すごい美味しかつたです」

と教へてくれた。食べると果して、揚げたての熱いのと骨の歯触りが好もしい。

 鯵をかぢりつつ、店内に貼つてある品書きを見ると、明日葉の天麩羅と書いてあつた。この植物、日本が原産らしい。八丈島や伊豆の島々で採れる。随分と前、どこだつたか、八丈島料理の呑み屋で食べた。無闇に分量があり、困惑した記憶がある。併しうまかつた記憶も確かにあつて、これも叉、註文しない手はあるまい。

 焼酎ハイのお代りと同時に、明日葉の天麩羅が來た。旨さうな匂ひが鼻孔を擽つてくる。ぱりんと囓つたら、塩つ気がほどよく、お姐さんの云つたとほり旨い。併し記憶より苦みがうすい。尤も八丈島呑み屋に足を運んだのは、廿年以上前だから、記憶が確かな保證はない。一緒に註文した、菜の花の玉子サラド、おでんの筍とあはせて、春を摘みに呑めたわけで、まことにいい気分で醉へた夜となつた。