閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

088 伝統に忠實な

 お米といふのは一種の完全食なので、おかずが貧相でも、ちやんと炊きあげてゐれば、それで一回の食事が成り立つ。成り立つて仕舞ふ。小麦や馬鈴薯や玉蜀黍では残念ながら、かうはいかないだらう。勿論これは優劣の話ではなく、主食の性質のちがひ。…とは云へ、ごはんだけだと流石に淋しく感じるのは、我われに共通した感覚の筈で、この稿では仮に炊きたてのごはんとお味噌汁があつた場合、後一品、何があれば、一回分の食事になるのか、といふことを考へてみたい。

梅干

白菜漬け

胡瓜のお漬物

野沢菜漬け

各種の佃煮

色々なお味噌

鮭の塩焼き

鯵の干物

鮪の赤身のお刺身

烏賊の沖漬け

焼き海苔

大根おろし

葱焼き

削り節

生卵

玉子焼き

煎り玉子

厚揚げ

揚出し豆腐

金平牛蒡

甘辛く焚いた鶏のそぼろ

豚肉の味噌漬け

菠薐草のバタ炒め

白身魚のホイル蒸し

蛸のオリーヴ油和へ

クリーム・チーズのおかか和へ

オイルド・サーディン

ベーコン・エグズ

 他にも色々挙げられるが、挙げながらふたつ、気がついた。先づどれもこれも、肴もしくはつまみになりますな。お酒。麦酒。葡萄酒。焼酎や泡盛。どれを撰んでも適ふ。そしてもうひとつ、朝めし的な撰択になつてもゐる。勿論ごはんには豚の生姜焼きや角煮、鶏肉のトマト煮、餃子に酢豚に麻婆豆腐、青椒肉絲、回鍋肉、大蒜の芽の炒めもの、米粉、牛肉の小間切れと玉葱を炒めたのや麦酒煮、肉詰めピーマン、茄子の味噌炒め、鯵や海老や牡蠣のフライ、鱚や烏賊の天麩羅、カツレツ、ロースト・ビーフ、鰯や目刺しを焙つたの、肉じやが、高野豆腐の卵とぢ、鯖の味噌煮や塩焼き、〆鯖、鯛の塩焼き、蒸し焼きにした茸、色々な味噌漬け、糠漬、粕漬け、その外、諸々、大体の食べものが適ふ。試した経験はないけれど、ザワー・クラウトでもハモン・セラーノでもドーヴァー・ソールでも鱈のクロケットでも栗を詰めた山鳥でも蜜柑の味噌漬け(といふ奇怪な食べものが『金瓶梅』にあるのです)でもいけさうだし、もつと簡単に振掛けでもいい。スメルガス・ボードにごはんがあれば、贅沢な食事になりさうだし(瑞典人は厭がるかも知れないが)、たとへばケバブなんかは浅葱を散らして丼にしたら、風変りなご馳走になるんではないだらうか。併し“ほぼ完全食であるごはん”に、余り凝つたおかずを用意するのも考へもので、寧ろ出來るだけ簡素な食べものにする方が、ごはんを食べてゐるぞといふ實感がありさうに思はれる…と云ふと、では何が最良の撰択なのかと反問が出てくるだらうが、敢てそこは口を噤まう。それは我が親愛なる讀者諸嬢諸氏の胃袋にあはせて撰べばよく、決め打ちをすることではないでせう。「だつたら」と更に文句が出るだらうか。續けて曰く「どうして、だらだら、あれこれと挙げていつたのか」と。さう云はれたら、尤もだなあと思はざるを得なくもあるのだが、次々にあれやこれやと挙げるのは、我が國の文學的な伝統である“もの尽くし”に忠實な結果だから、親愛なる讀者諸嬢諸氏には寛容をもつて、諦めて頂く外にない。

087 烏賊だけに

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 ニューナンブの頴娃君と飯を喰ふとなつたら、大体は蕎麦屋に落ち着く。ハンバーガーやカレーライスやラーメンを積極的に撰ぶことはなくて、まあ小父さんふたりには、蕎麦屋が似合ひの場所だらうと思へる。それで呑む。ここで呑むのは勿論お酒。玉子焼きや板わさなぞを肴に一献を傾けて、もり蕎麦を一枚。全部で二千五百円とかそれくらゐだから、お午としてはちよいと気張つた値段にも思ふが、毎日毎週でもないから、気にしないことにしてゐる。併しいつもいつも、玉子焼きや板わさで済ませるとは限らない。さうなるのは大体の場合、それが安定してゐるからで、惡くち風に云へば、当り障りのない撰択といふことになる。まづいものが出される心配が少ないと云つてもいい。なのでこの時もさうするかと考へてゐたら、頴娃君が

「お蕎麦とのセットもありますな」

と呟いた。ああさうだなと思つてお品書きを見ると、烏賊の天麩羅蕎麦(お蕎麦は蒸篭)といふのが目に入つて、大きに心を動かされた。烏賊は好物なのが理由の第一。もうひとつ、自分でも珍しいくらゐの空腹を感じてゐたことも理由になる。普段なら食べないだらう天麩羅に心が動いた以上、これを食べない手はないと結論に達したので、躊躇なく烏賊の天麩羅蕎麦を註文した。蕎麦つゆで食べさせるのは感心しなかつたが、天麩羅自体は衣もかるく、結構ですなと云へる仕上り。さうだ、お酒の銘柄を気にするひとの為に云ふと、この時は“大七(純米/生酛)”を一合。頴娃君は“亀齢”だつたかと思ふ。その“大七”は舌に馴染みつつ、妙な後味が残らず、天麩羅の油とも適ふ、いいお酒であつた。但しお蕎麦を一緒に持つてきてもらつたのは失敗。蕎麦同士がぺたりとなつたので、やむ事を得ず“大七”をちよいと振つて、ほぐしながら啜つたら、頴娃君に

「勿体無い眞似を、するものだなあ」

と呆れられて仕舞つた。いかんなあと云つて呉れたら、烏賊の天麩羅だけにねと切り返せたのにと残念に思つた。

086 回鍋肉

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 この“回”の字は“戻す”の意味らしい。ざつと訳すと、“鍋戻しの肉”くらゐになるか。ところがキッコーマンのサイトを見ると

https://www.kikkoman.co.jp/homecook/search/recipe/00004350/index.html

戻すのは野菜になつてゐる。序でにキューピーにも頼つてみると

http://www.ntv.co.jp/3min/sp/recipe/20140402.html

何も戻してゐない。鍋戻しはどこに行つたと思ふけれども、まあどちらでも旨ければ、こちらに文句はない。鍋に戻すかどうかは兎も角、回鍋肉は我われにとつて、青椒肉絲と並んで、馴染みのある中華の炒め料理ではないか知ら。日本人の舌に適はせた変化はあるのだらうが、矢張り旨ければ文句はない。

 家の近所…歩いて三分も掛からない場所に、小さな、一応は中華料理の店がある。この場合の近さは、お店にとつて、有利には働かないらしい。そんなら家で食べればいいやと思ふからで、もうひとつ、それなりにお客を掴んでゐる様子なので、おれひとりゐなくたつて、大丈夫だらうと感じられる事情もなくはない。

 併しそれなりにお客を掴んでゐるのは、旨いからの筈で、古い住宅街といふ立地を見ると、多少の近所つき合ひもあるのだらうが、それを含めても、まづいものにお金が払ひ續けられる道理はない。だから惡くてもまづくはないと判断して、回鍋肉定食を註文した。

 ごはんにソップ、少量の野菜、搾菜が回鍋肉のお皿を囲んでゐる。麦酒を頼めばよかつたかと思ひながら摘まむと、甜麺醤が効きすぎてゐると感じられたので、麦酒は抜きでよかつたと判断を改めた。ごはんに乗せつつ食べると、實に適ふ。おかずの味つけなのだなと思つた。それで食べ進むうち、今度は豆瓣醤(と辣油)がぐつと前に出てきてから、仕舞つたと思つた。併しここから麦酒を註文するのは気が引ける。それにこの味もごはんに適ふのは間違ひないから、そのまま食べた。鍋に戻してゐるのかどうか、訊かなかつたのは失敗だつたと気がついたのは、帰つて罐麦酒を一本、空にしてからである。

085 ベースボールとんかつ

 空腹で席につく。

 暫し待つて、目の前に登場するのはとんかつである。勿論、千切りのキヤベツ、香の物、お味噌汁にごはんもあるし、とんかつが揚げたてなのは云ふまでもない。

 さて。

 ここで。

 とんかつに何をかけるか。

 何もかけないといふ撰択は今回、無いものとする。また複数の種類を使ひ分けもせず、ひとつだけに絞り込むことにする。それで何になるのかと訊かれても、それを考へるのが面白さうだと思はれたからで、それ以上の意味はない。

 先づ浮ぶのは、ウスター・ソースだらう。

 それから醤油か、その応用の味つけぽん酢。

 捻くれ気分ならケチャップやマヨネィーズ、タルタル・ソース、或はデミグラス・ソース。

 そしてとんかつへの意識が高いひと(どんな意識なのか、見当もつかないが)が撰びさうな塩。

 うーむ、どれも、決定打とするには半歩か一歩、及ばない。野球で云へば、本塁打性の打球が、ぎりぎりでフェンスに当つて、二塁打止り…巧みな走塁で三塁まで進んだ感じ。走者を返すには、ここでもう一本、慾しい。

 ウスター・ソースに辛子。

 醤油(または味つけぽん酢)に大根おろし

 塩ならば檸檬

 捻くれグループにはチリー・ソース。

 どうだらう。最後のは野撰かエラーでもなければ、本塁を陥れるのは無理さうだが、それ以外はきつちり、得点出來さうな流れではあるまいか。塩檸檬は渋いスクイズ・バントかと思へてきて、いや、かういふ譬へは寧ろややこしいか。

 さ。ここで我われは、眼前にあるのが、とんかつだけでなく、ごはんとお味噌汁と香の物が揃つてゐるのを、思ひ出さう。撰択を誤ると一死一塁三塁の好機に、内野ゴロ併殺打で、三塁走者も還れない結果になりかねない。この場面で、ウスター・ソース(プラス辛子)の起用は、まあ定石だらうね。安打を十分に期待出來るし、最惡でも犠牲フライは打つにちがひない。

 併しわたしとしてはもう少し、攻めたい。なのでここは、味つけぽん酢(プラス大根おろし)を起用する。大根おろしがまづい(稀にではあるが、おろし方を間違へたんではないかと思へたり、筋張つてゐることがある)と、併殺崩れの一点に留まりかねないが、嵌まれば、右中間を綺麗に抜いた、走者一掃の三塁打くらゐ、かつ飛ばして呉れさうな期待を持てる。それに、ごはんに適ふのだつて、間違ひはないとなると、この場面では最良の撰択であらう。

 但しひとつ、注意したいのは、味つけぽん酢と大根おろしは、別の小皿に用意をしておくこと。最初からとんかつに打掛けると、折角の衣が台無しになるのは、今さら念を押すまでもなく、ここを誤ると、好機に見逃しの三振といふ破目になつて仕舞ふ。

084 カップ麺を論ず

 ラーメン。

 饂飩。

 蕎麦。

 焼そば。

 春雨。

 

 世話になつてゐるのは、まあこんなところだと思ふ。好物かと訊かれたら、正直なところ、首を傾げるけれど、便利かと訊かれたら、それは認めるのに吝かではない。獨居の半老人としては、乾麺と併せて、台所の隅に常駐させておきたい。非常食…荒天で買ひものが無理な日などに、カップ麺があるとひとまづ安心する。尤も、体が嬉しがる食べものではないのは確實で、普段はそれほどでなくても、微熱を感じたりしてゐる時だと、覿面にまづくなる。経験的に明らかだから、さういふ場合は素麺を柔らかく煮るのだが、そつちの話は、別の機会に譲らう。

 ところでカップ麺にわたしが何を求めるかと云ふと、廉価と安直、そこそこの味の三点に集約出來る。ラーメンでよく、有名店とのコラボレーションとか、誰々プロデュースとか、目にするけれど、ああいふのには全然興味を持てない。さう云へば、籔や砂場、更科、美々卯なんかは、カップ麺に見向きもしないね、老舗の矜恃なのか知ら。仮にさういふのがあつても、看板に傷がつくだけだらうけれど。…と書くと、ラーメン屋の看板には傷がつかないのかと訊かれさうで、さう訊かれたら、つかないでせうと応じたい。麺類の格で云へば、ラーメンはまあその程度が妥当で、それがカップ麺に反映されても不思議ではありませんよ。

 話を広げるのは控へませうね。わたしの惡癖である。それでカップ麺に戻ると、あれは小腹が空いた時の虫抑へくらゐの扱ひである。だから面倒はしたくない。本格を称して、粉末スープに液体スープにスパイスにオイルにと、小袋が詰め込まれたのを見ると、それだけでうんざりする。その小袋に“ふたの上で温めてください”とか“お召し上がりの直前にお入れください”などと書かれてゐたら、大きなお世話だよと投げつけたくもなつてくる。メーカーで開發に携るひとには気の毒と思はなくもないが、世の中にはかういふ意見の持ち主だつて、ゐるんです。念の為に云ふと、お湯を捨てなくてはならないカップ焼そばは例外で、これはまあ当然だが、お湯を捨てずにすむカップ焼そばが出來ないものかと時々思ふ。

 要は自分が無精なのをくだくだ書いてゐて、もしかするとそのくらゐ、我慢しなさいよと窘めるひとが出てきても、不思議ではない。併しカップ麺がそもそも無精なのだから、無精を責めるのは筋がちがふ。その筋から考へると、お湯を注ぐだけで完結するカップヌードルは、大した發明と呼べないだらうか。これはどうやら安藤百福の功績と断じていいらしい。日清の[安藤百福クロニクル]には

 

『1966年、「チキンラーメン」を世界に広めようと考えた安藤が、欧米へ視察旅行に出かけた時のこと。現地で訪れたスーパーの担当者たちは、「チキンラーメン」を小さく割って紙コップに入れ、お湯を注ぎフォークで食べはじめました。これを見た安藤は、アメリカにはどんぶりも箸もない、つまりインスタントラーメンを世界食にするためのカギは食習慣の違いにある、と気づいたのです。そしてこの経験をヒントに、麺をカップに入れてフォークで食べる新製品の開発に取りかかりました』

 

とある。詰りカップヌードル…すべてのカップ麺の始祖はチキンラーメン、と云ふよりも、チキンラーメンを世界中で賣りたいと考へた安藤の、(当時を思へば)奇妙な熱情だつた。さういふ熱情から完成に到つた商品が、最初から過もなく不足もなく出來あがつたとして、不思議でも何でもない。

 その点から見るとすべてのカップ麺の歴史は、カップヌードルから如何に離れるか、如何に新味を加へるかであつて、味つけも分量も具も麺の種類も、その延長線上にある。明星やエースコックやサンヨーだけでなく、日清もまた、カップヌードルからの影響乃至呪縛を受けてゐるのだが、それはいい。ただ我われは、そのカップヌードルが今も賣られ、賣れ續けてゐる点に注目したい。これは一眼レフの原型であるニコンFや、距離計機の完成形であるライカM3が今も賣られ、賣れ續けてゐるやうなもので、判りにくければ、カップヌードル發賣と同年(昭和46年である)に始まつた『仮面ライダー』が、今も本郷猛と一文字隼人で續いてゐるやうだと云ひ直してもいいが、この際譬喩は用ゐないのが、一ばん正しいかも知れない。

 併し、と矢張り譬喩を多少は援用しよう。技術的な進歩や嗜好の変化は措くとして、長寿の製品は“かういふ製品がいいなあ”のイメージが、非常に精確なのではないか。オリンパス米谷美久が設計したペンは、“6,000円で賣る”條件を、きはめて明瞭で正しい“かういふ製品”のイメージで、形になつた。どこがどう正しいイメージだつたのかは、有名に過ぎる話だし、本筋から離れもするから、ここでは云はない。ただ安藤百福の“こんな即席麺(この時点では未だカップ麺には到つてゐない)がいいなあ”といふイメージは、米谷の頭に浮んだのと骨組みは、同じ筈であらう。何の話をしたかつたのか知ら…さう、カップ麺ですよ、カップ麺。

 素早く手軽、安直廉価がカップ麺の本道で(出だしは、他の麺類に較べて遥かに割高だつたが)、その点から考へるに、本格とか生麺風味とかこだはりの出汁とか、さういふ條件は不要…といふより寧ろ邪魔と見做してもいい。かう云ふと、メーカーの眞面目な開發担当は、それだと本物に近づけないと困惑顔になるかも知れない。知れないが、果してカップ麺を、饂飩や蕎麦に近づける必要があるのか知ら。どれだけ“近づけ”たとしても、それは結局、贋もの…近似値に過ぎないし、それならお店で食べる方が余程うまい。だつたらその方向は諦め、お湯を注げば完成といふ限定の中で、お店では食べられない味の一手に工夫を凝らす方が(困難の度合ひは高くなるだらうが)、カップ麺のあり方としては健全ではないかと思ふ。

083 ラヂオの話

 テレビジョンを持つてゐない。地上波がデジタル放送に移行した前後、壊れて仕舞つた。それで手元にあつたポケットラヂオに頼つたら、ほぼ不便がないと判つたので、それきりになつてゐる。

 小中學生の頃、ラヂオはわたしにとつて、非常に身近なメディアだつた。思ひ出すままに挙げると、ABC「おはようパーソナリティー 道上洋三です」(先代は中村鋭一だつた)、同「ヤングリクエスト」、MBSヤングタウン」(月曜日に明石家さんま、火曜日はオール阪神巨人、水曜日は原田伸郎、木曜日は島田紳助、金曜日が谷村新司ばんばひろふみ)、KBS「ハイヤング京都」(聴いてゐたのは越前屋俵太)、OBC「アニメトピア」(田中真弓島津冴子)だつたか。

 高校生になるとFM放送も聴くようになつて、但し当時の大坂で聴けたのは、FM大阪NHK FMだけだつた。東京でのJ-WAVE開局と成功を追ひ掛けて、FM802が開局したのは昭和の末期か、平成初期だつたか。FM802の開局直前、女性の乳首をつまんだ冩眞に、“左にひねらんかい”といふコピーを打つた新聞広告は忘れ難い。高校生だつたわたしが聴いたのは、専らFM大阪で、日曜21時からの「日清パワーステーション」は欠かせない番組だつた。ご存知ない我が年少の讀者諸嬢諸氏に説明すると、これはライヴハウスの名前でもあつて、そこでのライヴの録音放送。爆風スランプ米米クラブといつた日本のポップスだけでなく、ヒューイ・ルイス・アンド・ザ・ニュースなんて大物も登場してゐた。豪華だつたなあ。

 そこから暫くラヂオから離れたのは、特段の理由があつてではない。呑むことを覚え、異性とのお付合ひを経験し、就職や転職を経て、いつの間にか距離が出來たとしか、云ひ様がない。それに気合ひを入れて、ラヂオ…ことにFM放送を聴くのは、案外に面倒なもので、わたしの場合、『FMステーション』と『FMレコパル』を購讀して、番組を事前に調べ、録音する場合はカセットテイプも買ふ。テイプの話を始めると、切りがなくなるから、踏み留まるとして、ノーマルかハイポジションかメタルか、番組とお小遣ひで調整するのは中々に困難だつた。録音したらインデックスを作る。前述のFM誌には、わたせせいぞう鈴木英人のイラストレイションを使つたインデックスがついてゐた。それを慎重に撰び、丁寧に書き込んでやつと完成なので、大変だつたんです。とてもぢやあないが、呑みながらは無理といふものだ。

 今は、ちがふ。冒頭に書いたポケットラヂオは既に壊れてゐるから、タブレットスマートフォンサイマル放送を聴く。使ふのは“radiko”でなければ“らじるらじる”なので、まあ何の変哲もない(オーソドックスだぞと居直る手もあるなあ)アプリケーションと云つていいでせう。それを在宅の時は大体、NHK第1をかけつ放しにする。「マイあさラジオ」から「すっぴん!」、「ごごラジ!」、「にっぽん列島夕方ラジオ」を経て、「Nラジ」といふ流れ。夜はこの時期、文化放送の「ライオンズナイター」かニッポン放送の「ホームランナイター」でプロ野球中継(但し木曜日金曜日はNHK第1)が基本。週末は少々変則的になつて、NHK FMが入つてくる。「世界の快適音楽セレクション」や「ラジオマンジャック」、「きらクラ!」が代表で、祝日に不定期で放送する「今日は1日〇〇三昧」(〇〇には、“アニソン”とか“ブリティッシュロック”とか、色々と入る)も欠かさない。それとNHK FMは隙があれば、N響バイロイト、諸々のジャズフェスティヴァルの(録音)中継を放送するから、油断は禁物である。

 さう云へば民放はAMもFMも、スポーツ中継を除いて、とんと聴かなくなつた。ごく簡単に、コマーシャルがひどく耳障りに感じられるのが、その理由。伊東四朗高田純次が喋るのは聴いて愉快なのだが、それを法律事務所だの中古車買取りだののコマーシャルが全部、削り取つて仕舞ふ。商ひなのは判るんだが、気に喰はない。それにもうひとつ、かけられる音樂の多くが、流行歌なのも気に入らない。NHKはリスナーが高齢なのもあるのだらう、わたしくらゐの世代からすると、びつくりするほど古い歌を平気で流す。美空ひばりは勿論、フランク永井ペギー葉山プラターズエルヴィス・プレスリー。それも『有楽町で会いましょう』や『南国土佐を後にして』だけでなく、こちらのまつたく知らない歌がどんどん流れて、また佳曲が少なからずある。三波春夫の『俵星玄蕃』に驚倒させられた(弟子筋の島津亜矢も唄つてゐる。科白回しは及ばないものの、こちらもいい)のもNHK第1で、かういふ發見は、テレビジョンだとほぼ、不可能だらう。

 ラヂオは“ながらメディア”なのだといふ。食事の用意、洗濯物を干しながら、書きものをしつつ、大体は邪魔にならなかつた経験を思ひ出しても、この指摘は概ね正しい。音が耳に引つ掛つた時だけ、少し集中すればいいのだから、まことに具合が宜しい。ドラマチックな交響樂のやうに、最初から最後まで、引つ掛り續けることだつてあるけれど、その場合は腰を据ゑれば済む。かういふ具合のよさは音樂に限らず、話藝や文藝も含まれてゐて、前者は落語、後者では俳句短歌川柳を挙げれば、何となく想像がつきますよね。かういふの(特に後者)は、映像で見せるのが六づかしからうと思へる。少し話は逸れるが、『小倉百人一首』なんか、成功すれば映像史に残る美しさになるだらうに、和歌と文學の嗜みと映像のセンスが必要だから、こちらは諦めるしかないけれど、音との組合せに絞れば、絶望の恐れは少なくて済みさうな気がする。

 かう書くと、ラヂオは理想的な(面を持つ)メディアと思へてくるが、何事にも難点はあるもので、野球と相撲以外のスポーツ中継にはまつたく不向きでもある。後は驛傳とマラソンが辛うじてましで、サッカーやバレーボール、水泳、スキーにスケートといつた、速さが連續する競技だと、頭の中である程度、その様を浮べながらでないと、何がなんだか判らなくなる。もうひとつ、画としての遊びが豊かな演奏会や演劇となると、云ふまでもなくお手上げ。ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートを例に出せば(また現地テレビ局の撮り方が、實に巧いのだ)、ああそれは、映像でなくちやあと、同感してもらへると思ふ。裏を返せばテレビジョンが、スポーツやコンサートや舞台の生中継に特化すれば、ラヂオとの共存は可能な筈で、さうなつたら我われの生活も、多少は豊かになるだらうか。淡い希望だが、それまではラヂオに寄り掛りきりになつても、わたしには丸で差障らない。

082 過剰

①鯖の水煮罐。

 どこのでもいいでせうが、あんまり上等のは買はなくていいと思ふ。

②大豆の水煮。

 詳しい事はよく判らない。わたしが買ふのは消費税込み105円。

③屑野菜。

 “野菜炒めセット”や“千切りキヤベツ”でもかまはない。ただ“千切りキヤベツ”だと、見た目が惡くなるので、注意が必要。

④小鍋に②①の順で入れ、火を点ける。火はごく弱く。弱いままで。

⑤廉い鯖罐を使ふと匂ひが気になるので、その場合は生姜(チューブ入りでいい)をたつぷり。

⑥醤油でも濃縮出汁でも加へる。食べる時に調整するなら少量で。さうでないなら、多いかなと思へるくらゐでもいい。

⑦野菜を入れるタイミングは、何を使ふかで調整する。また上の味つけは、ここで出る水分も考慮するのがよい。

※出來るだけ、水は使はず、鯖罐の出汁(と呼ぶのか知ら)と水煮の汁、野菜の水分で仕立てたい。それだけで足りない時は、必要と判断した分だけ、注ぎ足しませう。麦酒を呑みつつ、ちよいと垂らし込むのも惡くない。

※諸々の味つけが面倒なら、即席味噌汁を使ふ方法もある。油揚げとか若布のやつ。まあそれなら、水煮でなく、鯖味噌罐を使ふのがいいんでないのかといふ疑問にぶつかるだらうなあ。

※ここまでは基本、和風の味つけを前提にしてゐるけれど、洋風がよければ、生姜と併せて大蒜(矢張りチューブでいい)を追加し、ホールトマトをひと罐、はふり込めばいい。面倒でなければ、湯剥きしたトマトをざくざく切つたのを使はう。この場合、わたしなら大きく切つた玉葱やらセロリやらも入れておきたいが、その辺は我が親愛なる讀者諸嬢諸氏のお好みで。

⑧とろとろと火を通せたら(さう。最初から最後まで、火は弱いまま)、大きめのお皿に、レタスやらキヤベツやらトマトやら、或はざつと塩うでしたもやしでも乗せ、その上にごつそり、盛らう。

※ひと皿で完結させたければ、もやしより素麺か冷麦を使ふのがいいと思ふ。稲庭饂飩でもよささうだが、主役はあくまでも鯖罐だから、そこらはひとつ、アレとしておかなくてはなるまい。

※洋風に仕立てる場合、マカロニか極細のスパゲッティだらうか。茹であげるのが面倒なら、無くたつて丸で問題にならないけれど。

⑨元の味つけが控へめなら、味つけぽん酢でもちよいと振掛け、更に小口にした葱か貝割れ大根をたつぷり。後は麦酒でもお酒でも焼酎でも用意して、ゆつくりつまめば宜しい。

※所謂“食べる辣油”を食べる分だけ、ほんの少し、乗せてみても中々うまい。洋風仕立てならチリー・ソースだらうか。いづれにしても、かういふのは、忍ばせる程度でないと、刺戟がきつすぎるから、用心をば。

⑩それで小鍋には、鯖の欠片や野菜の残りがあるでせう。これは次の日に煮詰めてから、ごはんに乗せるのがいい。小口切りの葱は必ず。ただ、これだけでは見た目が貧相だから、温泉卵を割り入れる。それくらゐ奢つたつて、罰は当らないといふものだ。

 要は鯖と大豆の水煮を焚くと、ただそれだけの話。ただそれだけの話を、どこまで過剰に書けるだらうと思つて、試してみた。なので我が親愛なる讀者諸嬢諸氏に、どこまで有用なのか、保證は致しかねる。

081 マーク・ツー

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 手持ちのフヰルム式一眼レフはペンタックスのKマウントで、リコーのXR-8(この手帖の10回目で触れましたね)が中心になつてゐる。中心といふことは、中心ではない機種もあるわけで、画像では28ミリ・レンズが目立つてゐるけれど、今回はボディ…矢張りリコーのXR-7MⅡを取上げる。

 絞り優先式自動露光を搭載した、マニュアル・フォーカス機。詳しい事が知りたければ、リコーのサイトをご覧なさい。別に大した機能を持つてゐるわけでなく、新發賣の当時でも、スペックで見れば既に、時代遅れであつたのは確かである。寧ろ同時に出した、テッサー型の薄いレンズの方が、話題になつた記憶がある。

 出自は曖昧。どうやらXR-8同様、コシナOEMらしい(ニコンのFE10とおそらく同じ)實際はどうだつたか。コシナOEMにも色々の系列があるらしいが、そもそもコシナの一眼レフ自体、よく判らない。仮に判つても、詮索の樂しみは兎も角、知つたところで、知つた満足を得る程度だらうから、そこは目を瞑りませう。思つてゐるよりは、使へるカメラなんである。

 先づ廉いのがよい。わざわざ探して買ふものでもない(今だつたら、ペンタックスMZを探す方がいい)が、精々数千円くらゐで入手出來るだらうから、文句を云ふ値段ぢやあない。そこそこに軽いのもよい。プラスチックを多用してゐるからで、この場合、それは持ち出す積りになり易い点で、プラスに考へたい。

 何よりその廉価と軽さで、自動露光を使へるのが宜しい。わたしの手元にあるのは、いづれペンタックスのSMC-Mレンズなのだが、本家のボディだと、SMC-Aレンズでなければ、自動露光が使へない場合がある。このカメラはボディで出來ることが限られてゐる分、レンズ撰びの範囲が広くなつて、レンズもまた廉価なのを安心して探せるのだから、まことに有り難い。では、どんなレンズが似合ふのか、といふ疑問に繋がつて、これは中々の難問であらう。

 ファインダは十人並みか、それを下回る程度だから、暗いズーム・レンズは使ひにくい。かと云つて、大口径レンズだとボディが釣合はない。このカメラはそこそこに軽くて、取回しが樂なのが利点なのだから、そこをスポイルされるのは困りもする。結局はありふれた28ミリF2.8や、50ミリF1.7辺りが軸になる。どちらも持つてゐるから、云ふのではないよ。35ミリF2でもかまはないし、さういふレンズがあれば、安心して、妙ちきりんな方に目を向けられるではありませんか。

 たとへばシグマの21-35ミリ。碌に使はないまま手放したけれども、ファインダを覗いただけで、歪曲の酷さがはつきり判る(だから当時のわたしの手には余つたのだ)珍レンズだつた。かういふのを笑ひながら、気樂に使ふとして、XR-7MⅡは適役ではなからうか。タムロンの90ミリマクロだつて、きつと惡くない。三脚に乗せ、ピント合せに時間を掛けるのは、今の目で見ると、存外な贅沢になりさうな気がされる。所謂スナップ主義者には、とても受け容れられないだらうが、わたしはそちらに属してゐない。

 或は様々の28ミリ・レンズを使ひ分けてみるのはどうだらう。ここで28ミリを挙げるのは、こちらの好みだから、神経を尖らせる必要はない。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏には、頭の中で35ミリでも50ミリでも、好きな焦点距離を入れてもらふとして、28ミリのF2.8辺りなら、Kマウントで幾らでも転がつてゐるし、さう大した値段でもない。コシナでもタムロンでもシグマでもビビターでも、勿論SMCペンタックスでもタクマーでも、撰び放題である。ライカだつて、28ミリ・レンズは山ほどあるが、同じ愉しみを得るのに果して幾らの投資が要るだらうと考へたら、ちよいと背中が寒くなる。Kマウント・ユーザでよかつた。

 こんなことを書いたのは、どうやら半年以上振りに、冩眞を撮らうと感じてゐるかららしい。それで偶々、恰好よいなあと思へ(て仕舞つ)た、このカメラを取上げたらしい。ここで云ふ冩眞は、スマートフォンで食事を記録するのではなく、冩眞を撮るぞと考へながら、撮る行為だらうと思ふ。仮に丸1日歩いて、撮れたのが2枚とか3枚とか、それでも問題はなく、さういふ撮り方には、デジタルよりフヰルムが似合ふ。唯一そして最大の問題は、手元のXR-7MⅡにはミラーが上がり切る持病がある。撮つた瞬間、ファインダがブラック・アウトするのだから、初めてこの症状に出くはした時は、おれは今、アサヒフレックス以前のカメラを使つてゐるのかと、勘違ひして仕舞つた。併しさういふ難点があるのを知つてゐて、撮り切らなくてもいいなら、だましだまし、このXR-7MⅡを使ふのは、時代遅れの捻ね者趣味を満足させるのではないかと思はれる。

080 あぢさゐ

 我が親愛なる讀者諸嬢諸氏には既によくご存知だらうが、この手帖では、時事的な話題をほぼ、取上げない。それは方針であるのだが、その方針を採るにしても、採る理由があるもので、今回はさういふ話。

 この稿を書いてゐる現在、巷間で八釜しいのはたとへば、米國と北鮮の会談がどうなるかとか、何とか學園へのいちやもんとか、或は開幕が近いワールドカップ、プロ野球の交流戰やエンゼルス大谷翔平とか、そんなところではなからうか。さういふ話題に興味を持たないわけではない。思ふところだつて、多少はある。と云ふと

「だつたら、書けばいいぢやあないの」

と切り返されさうで、確かに誤りではないのだけれど、事情はそんなに単純でもないのです。

 何しろ、その“思ふところ”は、ごく断片的な感想に過ぎない。夏休みの絵日記でもあるまいし、大谷翔平撰手は凄いと思ひます、と書いて何になるのか知ら。さういふウェブログが、少なからずあるのは事實だが、わたしが眞似する理由にも切つ掛けにもまあ、ならないよ。

 さう云ふと、よし名案があると張り切つて

「断片を断片のまま、書けばいいのだ」

と提案する方が出てくるかも知れないが、さういふ反射的な書き方なら、Twitterにでも投稿すれば済む話で、何の為に[閑文字手帖]を書いてゐるのか、判らなくなる。まあこの手帖が、果してTwitterよりましなのかどうかは、保証の限りではないけれど。

 「ならば、その“断片的なところ”を取り纏めるのはどうです」

と追討ちがかかる気がする。尤もな指摘である。但しそれを求められるのは酷な話であつて、当り障りの少なさうなところだと、栃ノ心大関昇進に触れるとしませう。その場合、高見山小錦にも触れたくなるし、他の大関との比較もしたくなる。或はかれの故郷であるジョージアで、相撲がどんな風に受け止められてゐるか(初優勝の時は、天皇賜杯が、随分大きな話題になつたらしい)、また今の角界で、我われは外國人力士をどう受け容れるか、などと書きたくなるだらう。そこで翻ると、わたしはさういふ取り纏めにひどく時間がかかる。これを遅筆と称するのは、井上ひさしに礼を失するか。

 簡単に云へば手詰りなのだが、もう少し自分に都合よく考へませう。時事的な話題を取上げるにしても、批評的な視点は欠かせない。大谷翔平栃ノ心の話をするとして、かれひとりでなく、野球や相撲全体、或はスポーツ全般、もつと云ふなら、スポーツの持つ遊戯性や呪術性などから俯瞰しなくては、その批評性は成り立たない…が断定的に過ぎるなら、成り立ちにくい。前面にだす必要があるとまでは云はないとしても、さういふ視点がなければ、それは感想文の枠に止まるでせう。それでここから具合が惡くなるのだが、その批評性を含めつつ、時事話を書けるだらうか。無理をして書いたとしても、即時性が犠牲になるのは確かな上、それを含めても、浅學菲才の身には余るのははつきりしてゐる。矢張りわたしが、この手の話題に触れるなら、季節の花くらゐにするのが、安全なのであらう。

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あぢさゐの 色かはりゆく 巷かな

079 アンビバレント

 串を焼いてもらふ場合、ハラミ、タン、シロ、ハツ、レヴァのいづれかから撰ぶことが多い。初見のお店ならたれで。信用出來てからは、塩を混ぜる。どちらかと云ふと、たれの方が好みなのだが、この話題は以前にも触れた筈だから、ここでは踏み込まない。

 串を焼いてもらふ場合、坐るのは卓子よりカウンタの方が喜ばしい。云ふまでもなく、焼いてゐる様を、見るともなく見るのが樂しいからで、手際よい焼き方を見ると、それを眺めながら呑む麦酒または酎ハイ乃至ホッピーも、うまく感じられるといふものだ。

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 さて但しそれは原則的な話。

 原則的と云つたのは、最近になつて、少々例外的なお店を知つたからである。、値段はまあ相応だが、相応の値段よりはうまい。麦酒や焼酎、ホッピーは勿論、銘柄は少ないが泡盛や葡萄酒もあり、お酒も(純米の生酒に膠泥しなければ)ちよいと、面白さうな銘柄がある。酒精の種類が多さは、つまみが多岐に渡つてゐることを意味してもゐる。さうすると女性も含めた三人四人で、あれこれ註文するのが正しからうと思はれるが、今のところ、その機会には恵まれないので、この稿では串焼きの話題だけを續ける。色々な意味で残念だが、やむ事を得ない。

 それで何故、原則から外れたかと云ふと、初めて串焼き(確かハラミとハツとタン)を註文した時、お店のひとが

「焼き方はお任せで、かまひませんか」

と訊いてきたのが、切つ掛けであつた。これは焼き方に自信があるのだなと思つたから、それでお願ひしますと応じた。ここで我が親愛なる讀者諸嬢諸氏に、わたしのささやかな経験を申し上げると、かういふ場合のお任せやお奨めは、拒まない方がいい。ハラミは絶対たれだよねとか、タンは塩以外に認めないとか、云ひたければ止めないけれど、お任せお奨めにはお店側の自信(もしかすると事情)があるのだから、験して損はない。

 果して出されたたれが香ばしい。少し計り品のない濃いめの味つけで、詰り酒精に適ふ。わざわざ塩とお皿を分けてくれたので

「同じお皿で、かまはなかつたのに」

と云つたら

「味噌たれなので、塩と(味が)混ざるといけませんから」

気遣ひだねえと喜びながら、串を頬張ると、味噌の焦げが感じられない。をかしいと思つてよくよく見ると、焼きながら味噌たれに漬け、漬けてまた焼くといふ手順を複数回、繰返してゐたから、納得出來た。なので別の機会にそこで呑んだ時は、ハラミとナンコツとアブラを頼んでみた。さうしたら、アブラのくどさを考へてか、ハラミの味噌たれを淡く(だから喧嘩にならない)してきたから、本当に調整したかはこちらの勘違ひとして、そんな気分になれたのだから、それでよしとしませう。要するに気に入つたわけで、我ながら単純且つ無邪気と云へなくもない。併し、普段の移動の範囲にあるのは、些かの問題を含んでゐる。詰り不意にふらりと寄れるからで、そんなのを繰返すのは、駄目なをぢさんの證明である。まだ自覚がないのかと云はれるかも知れないが、流石にそこまで駄目をきはめた積りはありませんよ。なのでこのお店には、喜ばしくもまた迷惑といふアンビバレントを感じてゐる。感じざるを得ない。