閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

1064 捻ねもの気取り

 ニコンと云へば、Fマウントである。

 Fマウントと云へば、"不変"である。

 令和六年の今、正しくは"であつた"と、過去形にしなくてはならないけれど。

 カメラ好きの一部に、製造が(事實上)終つてから、そのカメラ(乃至マウント)にそそられる変態がゐて、念の為に云ふと、私ではありませんよ。こちとらF2、F3(二回)、F4は勿論、F-601、F-501、F-301、FE、EM(専用のワインダとスピードライトも一緒に)を贖つた。仕舞つた私も叉、別種の変態だつたのだらうか。

 

 思ひだすと、"Fマウントのデジタル一眼レフ"…"D"の冠を附けた…は、一度も贖つたことがない。記憶で書く分の差引きはしてもらふとして、一桁番號をフラグシップに、七千番台、五千番台、三千番台、その間に三桁機があつて、数が大きい方が高級、同じ番台内では新しさを示してゐて、要するに数が多かつた。更にその数多い機種が、(フラグシップを例外に)決定的にちがつてゐたか、疑問でもあつた。

 「同じなら、より高級な、より世代の新しい機種を、買つてくださいな」

ニコンとしては、さう云ひたかつたのだらうが、次々に世代が替り、撰択肢がありすぎ、叉それらに劇的なちがひが見られなければ、最新の最廉価機、或は階級を一つ上げた、型落ち機に流れたひとがゐても、不思議とは云へまい。

 

 ところがその"F"は、新たな"Z"に、"ニコンのマウント"の座を譲つた。ニコンが"不変"を終らせた…細かいことを云ふなら、Fマウントは必ずしも"不変"だつたわけでもないのだが、この際そこは目を瞑る…と、云つてもいい。これは新製品に悩まされる心配が終つたことを意味してゐる。詰り"Fマウントニコン"を手に入れるのに、具合がよくなつたと考へられなくはないか。

 三千番台か、五千番台。私の知る限り、両者は液晶画面が動くかどうかだけがちがふから、今ならどちらを撰んでも、大して変らない。"標準(と括弧書きになるのは、何をもつて標準と呼べるのか、はつきりしない所為である)"ズームが附いてあればいいし、廉な単焦点を一本追加すれば

 「おれは判つて、使つてゐるのだ」

と訳知り顔を気取れさうでもある。或はニッコールではないレンズを撰ぶ手もあり、敢て広角系のズームにすれば、二重三重に捻ねものを装へる。まあこんな冗談めく眞似、我がわかい讀者諸嬢諸氏には、とても薦められないけれども。

1063 GRⅢ、収め方に就て

 GRⅢを持ち歩いてゐる。

 f64のポーチ(といふのか)に入れ、カラビナフックでぶら下げてゐる。キャップとリスト・ストラップを附け、余裕のある収まり具合なので、その点に文句は無い。そのGRⅢ入りポーチを、何のどこにぶら下げるか。これが目下の問題…訂正、課題になつてゐる。

 元々は腰回りに下げてゐた。惡くはないが、姿勢が崩れる感じはする。そこはまあ我慢するとしても、取り出すのが面倒なのはいけない。案外なほど、手の動きが大きいのだな。それでデイパックにぶら下げてみた。腰回りよりは格段にスムースではある。但しデイパックは年中、使ふとは限らないから、決定版になりにくい。

 となると、首乃至肩に下げられるポーチといふか、バッグといふかが、必要かも知れない。と考へたのが實用的な事情なのは確かだけれど、物慾の面があるのも否定はしない。

 物慾の面はさて措き、では何を買へばいいのか。

 ほんの一瞬、ウェイスト・ポーチが浮んだが、それだと腰回りに下げるのと変るまい。いや手前に動かせる分、多少はましだらうか。或はごく小振りの、GRⅢ、煙草とライターと小錢入れ、ペンとメモ帖、手巾とティッシュが収まるショルダー・バッグも…いやその大きさでよければ、手元の一澤や犬印、キプリングに容れれば済む。詰らない。

 そんならGRⅢを含めて、日乗に使へるトート・バッグの方が好もしいかも知れない。さういふバッグが手元から無くなつて、少々こまつてもゐる事情もある。(帆)布製。撥水加工を施してあれば嬉しい。肩掛けの出來るストラップ附き。外内に複数のポケット。底板入り。鋲が打つてあつて、自立する程度に堅いのが望ましいけれど、余りがつちりしてゐるとと、バッグ自体が重くなる。重いのは遠慮したい。

 いや待たう、基を忘れてはいけない。

 ここで云ふ基は、GRⅢを取り出し易く持ち歩く手段で、煙草だの手巾だのは、横に措いてかまはない。GRⅢ周りに限るなら、本体と予備の電池。後はフード(取りつけの為のアダプタも含めて)が収まれば十分である。さうすると函型のウェイスト・バッグ…但し肩掛けでも使へさうなやつ…が候補に浮上してくる。候補と云つたつて、形状の話だから、具体的に何を手に入れるかは決つてゐない。併しさういふ小さなバッグに収めたGRⅢを持つて、ふらふら散歩してから、一ぱいか二杯、引つかけるのは、惡くない午后の過し方だし、それは叉、GRⅢを使ふ基であるとも思はれる。

1061 どうぞ、こちらへ

 池波正太郎の随筆を讀むと、寿司屋で呑む話が出てくる。初めての店だと、隅のテイブルに着いて

 「並を一人前、それからお酒を一本、ください」

などと註文する。何度か通へば大将がきつと

 「旦那、どうぞこちらへ」

カウンタへ招いてくれるさうで、何と云ふか、東京人の厭みだなあ。尤もこれは僻目かも知れず、かういふやり取りが、型として定つてゐれば、スマートになるとも考へられる。

 「鮨だつて何だつて、好きに樂めばいいんだ」

と云ふひとがゐるだらうことは知つてゐるし、誤りでないとも思ふけれど、呑み喰ひに型があるのも惡くない。かう書いてから、お鮨…この稿では早鮓の意…を摘みに呑んだ記憶を持合せない自分がゐると気が附いた。

 家ではありますよ。マーケットで買つたパックを、罐麦酒でやつつける程度。ビジネスホテルに泊る時もやつつける。生眞面目な鮨愛好家やえらい食通、或は池波正太郎からは

 「すりやあ、鮨ぢやあない」

と云はれさうだが、我われ…訂正、私は旦那衆ではなく、旦那衆に仲間入り出來る見込みもない。マーケットだのお惣菜屋だののパックも、決してまづくないことだし。

 ところで"一本のお酒"がお鮨に似合ふのか、といふ疑問がある。長年、常々、ある。などと云つたら

 「日本の伝統的な組合せだらうに」

さう指摘されさうな気がする。本当か知ら。生魚を喰ふのが当り前になつたのは、冷藏冷凍の技術が確立後、詰り早く見ても明治以降と思はれる。焼魚煮魚、干物に鱠、酢漬け塩漬け味噌漬けの類で、魚介に馴染みきつたから、お刺身も(うつかり)仲間に入れてしまつた見立てに思はれる。

 ここまで云へば、我がすすどい讀者諸嬢諸氏にも賢察頂ける通り、私はお鮨とお酒の組合せに疑念を感じてゐる。寿司屋の云ふ"仕事"…下拵へを施した種(漬けや穴子、或は小鰭)なら兎も角、鮪や烏賊で一合の徳利を樂めるかどうか。適はないとまでは云はないにせよ、頭のどこかで

 (これで、いいのかなあ)

と思つてもしまふ。かと云つて、麦酒や焼酎、葡萄酒が似合ふかと考へれば、さうとも云ひにくい。要するに早鮓とお酒の組合せは若すぎて、伝統と呼べるほど、熟成してゐないのではなからうか。であれば池波の寿司屋好みは、"江戸から續く粋の型"ではなく、地震より後に成り立つた"東京の粋の型"と思はれる。敗戰後の近畿人である私の理解が届かなくてと不思議ではない。反省を口実に、パックの早鮓とお酒を一本、買つてきませう。

 「旦那、こちらへ」

なんて云はれても、おたおたしてしまふ。

1060 現代離れ

 何回か前、コシナフォクトレンダー銘のベッサTを話題にした。今回はベッサLを話の種にする。

 ライカねぢマウント。

 ファインダは無し。

 測距の機構も無し。

 但し露光計は内藏。

 筐体はプラスチック。

 要するに現代風(といつても、ベッサLが發賣されたのは廿世紀末だけれど)のライカⅠcで、露光計があるのと、二千分ノ一秒を使へるのだけが利点であつた。

 このカメラを基に距離計に聯動するファインダを搭載したのがベッサR、ライカMバヨネットの互換マウントと、精度の高い距離計(ファインダには聯動しない)を採用したのがベッサTと見立てればよく、この辺りは社内で予め、ある程度は考へてゐたのだらうな。

 だつたら最初からRなりTなり、出せばよかつたのに…と思ふのは素人の淺はかさ。ライカ並みの精度で聯動式距離計を造るのは、相当な苦辛が必要だつたと、インタヴューで社長が話してゐた。とは云へそこで、あれもこれも何も無いカメラから始てみるか、などと考へるかね。

 併しベッサLのスタイリングが、ベッサR及びベッサTへと受け継がれてゐるのは明かだし、RやTのスタイリングをいきなり調へるのは六つかしいといふ点を考慮するに、あのカメラは必要だつたと考へるのが、妥当だらう。更にコシナ社は、ベッサLと同時に、十五ミリと廿五ミリを出した。詰り算盤づくであつたのだな。

 さてそこで。改めてベッサLを見ると、被冩体との距離は目測、構図を取るのも面倒で、何も出來ない、恐ろしく面倒なカメラに思へる。いや實際に面倒であつた。断定するのは使つた経験があるからで…待てよ何故、買つたのか知ら。記憶は措き、もう一ぺん、何も出來ないベッサLを眺めると、何も出來ないのは、何でも出來る裏返しではないかと思へてきた。正確には、組合せ次第で、何でも出來る"かも知れない"なのだが…勘違ひも横に措く。

 

 仮に(あくまでも仮ですよ、為念)ベッサLをもう一度、贖ふとしませう。先づコシナ社が用意したアクセサリに、ダブルシュー・アダプタがあつた。なのでこれを何とか手に入れる。これでアクセサリ・シューが二つになる。その片方に単獨の距離計を立てる。ライツ社製になるだらうな。もう片方には、レンズに対応するファインダを乗せる。卅五ミリか五十ミリか。ソヴェトのターレット・ファインダ(確かツァイスの模造品)を乗せる手もある。かうすれば、姿は兎も角、機能としてはベッサTと同等になる。それだと速く撮れないよと云はれるだらうけれど、元々私は速撮りをしない(寧ろ苦手である)し、視力が極端に惡くもあるから、その点は気にならない。見立て方によるのは承知して、ベッサLは

 「不便を前提にした万能のカメラ」

ではないかと云ひたくなる。フヰルムを一本詰めて、ゆつくりゆつくり歩きながら、一枚一枚撮つてゆくのは、まつたく現代的ではない冩眞の贅沢な樂み方と思へるが、こんなことを云ふと、コシナ社の人びとは厭な顔をするだらうか。