閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

1065 玉子と赤茄子

 先日の夜、ふとその気になつて、某所の呑み屋街に足を延ばした。延ばすと云つても、陋屋から一驛だから、わざわざといふ距離ではない。

 久し振りである。

 新しい看板が幾つも並んでゐた。それだけ潰れたお店があつたことを示してゐて、何とも複雑な気分になつた。その潰れたお店に通つたわけではないのだけれど。

 薹北居酒屋の暖簾が出てゐた。二年か三年、無沙汰をしてゐるお店である。時刻を確めると、午后七時過ぎ。ちよつと驚いた。以前は午后九時を過ぎないと、暖簾を出さなかつたからで、その頃は醉つた後に潜り込むのが常だつた。

 入つた。薹北人の女将さんがこつちを見て、あら久し振りぢやあないのと笑つたから、覚えてもらつてゐるのかと嬉しくなつた。御無沙汰ですねえと云つて、席に着いた。

 最初は青島麦酒。女将さんが注いでくれたのを干した。美味かつた。つき出しは焼賣。中華風の香草だか調味料だかの香りが微かに感じられる。摘みながら、壁に貼つてある品書きを見て、何を食べるか考へた。家常豆腐が目についた。旨いのは知つてゐる。知つてはゐるが、量がある筈で、私の胃袋には多い。視線を動かすと、トマトと玉子の炒めものがあるのに気がついた。これがいい。そこで註文した。

 出てきた。記憶と少し、ちがふ。不思議に感じて、さうか以前は長葱が無かつた筈だと思つた。私の記憶である、いい加減なのは改めるまでもなく、自信も持てなかつたので、確めなかつた。お代りに頼んだ烏龍ハイを呑みつつ摘んだ。美味い。こつちは記憶通りだから、安心した。

 味つけはごく簡素に塩と胡椒。後はトマトの酸みと歯触りに玉子の軟らかさ。旨いうまいと歓びながら、トマトの水気でべたべたしてゐないのが気になつた。訊くと、火の通し方にこつがあるらしい。叉トマトを大きく切ると、水が出にくいのだといふ。女将さんが更に云ふには

 「失敗したつてね、ごはんに乗つけたら、美味しいです」

その手があつたか。成る程すりやあ美味からう。そこで韮や大蒜を追加して、オイスター・ソースで味を調へるのはどうでせうと云つたら

 「それだとトマトの美味しいところが、判らなくなつちやひますよ」

ああだから塩胡椒だけなのか。すつかり納得した。炒めものもすつかり平らげて、御馳走さまを云つてお店を出た。よい気分であつた。