閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

290 厚揚げマンマ・ミーヤ

 画像は[285 ソノママ離レ]で使つたのを再利用してゐる。この手帖は所謂“寫眞ブログ”でないのは我が親愛なる讀者諸嬢諸氏にご承知だらうから、苦情を云はれる心配は無いだらうけれども。

 わざわざ画像を使ひ廻したのはわたしの好物だからで、ははあ丸太は揚出し豆腐が好きなのか、と思はれるのは大体のところ正しい。参考までに云ふと、ヤマキ流では絹こし豆腐を、キッコーマン方式だと木綿豆腐を用ゐる。

http://www.yamaki.co.jp/recipe/揚げだし豆腐

https://www.kikkoman.co.jp/homecook/search/recipe/00002244/index.html

  共通するのは絹こしでも木綿でも、予め豆腐の水気を切り、片栗粉をまぶして揚げることで、揚がつた時点で、それは厚揚げ乃至生揚げと呼ばれる。大雑把に云ふと、揚げた時に“豆腐だなあ”と感じられる度合ひが高くなると、生揚げに近づくと考へればいいでせう。

 この厚揚げ(または生揚げ)が好物の本体…大好物で、揚出し豆腐の場合は絹こしの軟らかさを嬉しく思ふが、厚揚げ(以降はこちらに統一しますよ)で食べるなら、木綿の歯応へが好もしい。かろく焙つたのに、削り節と摺り生姜と大根おろしを添へて、お酒をあはすのが基本でせうな、矢張り。

 おつまみをちやんと用意するお店だと、厚揚げは註文を受けてから揚げるので、出來るまでに多少時間が掛かる。註文はその辺を見込みながらでなくてはならない。尤もさういふ面倒は、出來たての厚揚げの旨さを思へば、無視したつてかまはない。わたしが“飲み屋のつまみ担当大臣”なら、就任当日に

『凡ソ厚揚ゲハ須ラク註文ヲ請クル前ニ揚グルベカラズ』

と通達を出したいくらゐで、何を云はんとしてゐるのだらうと上擦つて仕舞ふ程度に、わたしは厚揚げを好んでゐる。

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  ところで厚揚げは焙るか揚出しにするかだけなのかと云ふと、決してそんなことはなく、再びキッコーマンにお伺ひを立てると

 http://www.kikkoman.co.jp/homecook/search/select_search.html?free_word=厚揚げ&site_type=J

 實に豊かな厚揚げ料理がある。和風か中華風に偏つてゐる感じもされなくはないが、味の調へ方次第で洋風の仕立ても無理ではなからう。さうなるのあはせるのもお酒には限らなくなつて、泡盛焼酎や葡萄酒紹興酒で厚揚げをやつつけるのも、不自然とはならないにちがひない。

 

 かう書く時、わたしは勿論、葡萄酒で厚揚げ(料理)を試してみたいと思つてゐるので、どんな組合せがいいのか知ら。厚揚げ自体はごく淡泊な味はひだから、焙つてソースだと些か弱い気がする。ベーコンや豚肉で巻いて串で焼くか、ステイクのやうに焼いて、獸骨で取つた濃いソースをたつぷり使ふのはどうだらう。用意するのは軽めの赤葡萄酒。香辛料を利かした野菜のソースで白葡萄酒…甘すぎないのが望ましい…を用意するのも惡くなささうに思へるが(本來ならかういふ考察と實践と取捨撰択と提案は、葡萄酒の藏にお願ひしたい…と云はざるを得ない程度に我われの周りには葡萄酒が少ないんである。藏のひとも我われも、葡萄酒は食べものがあるのが前提なのを、屡々忘れて仕舞ふ)、實地で体験してはゐないから甚だ怪しい推察にすぎない。

 尤も工夫と新奇と変り種を試し樂しんだ揚げ句は、ぬる燗に削り節と摺り生姜と大根おろしを添へた厚揚げをつまんで、かうでなくちやあねと我が膝をたたく自分の姿は、想像も容易…といふより寧ろ安易である。伊太利人が日本のケチャップ・スパゲッティを食べて、それなりに満足を示しながらも“矢つ張りマンマのトマト・ソース・スパゲッティが最高だよ”と膝をたたくのと、似てゐるのではないか知ら。

289 我慢するべき理由

 ちよいと腹が減つたかなと思ひながら歩いてゐる時に何が危険かと云つて、立ち喰ひ蕎麦屋のつゆの匂ひほど危ないものはない。カレーのスパイス香、大蒜の葷香と並ぶ、日本三大“突然食慾を刺戟する”香りと云つても過言ではありますまい。中でも立ち喰ひ蕎麦(ここからは単に蕎麦と書きますよ)はたちが惡い。カレーの場合、空腹の度合ひを、大蒜の場合なら後のことを考へなくてはならないが、蕎麦にさういふ気遣ひは無用である。詰り我慢するべき理由が非常に少ないと云へる。甚だしく混雑でもしてゐない限り、暖簾をくぐらない必然性を見つけるのは困難であつて、要するに店に入る。

 経験的にいふとこの手の蕎麦屋なら、冷しは麺もつゆも不自然に冷たいから、かつ丼やカレーライスとのセットでもなければ、撰ばない方が好もしい。もうひとつ、呑み過ぎた夜なら旨く感じられる。この場合、つゆに温泉卵を落とすと、喉触りが滑らかになる。さういふ例外はあるが、わたしの場合、殆どはたぬき。稀に月見か天麩羅。店が空いてゐて無理を聞いてもらへさうなら、たぬきに卵を追加する。中々うまいもので、家でも眞似する…その時は温泉卵を使ふ…ことがある。

 尤も兎に角簡単に済ましたいなら、かけに落ち着く。蕎麦とつゆと葱、以上終りといふ簡潔…寧ろ無愛想さがいい。揚げ玉や玉子や若布や掻き揚げの風味が混ざらないから、つゆの味が解るのもいい…いや失礼、こちらは嘘。さういふのは本格の蕎麦屋でこつそり愉しめばよく、立ち喰ひでは似合ふ似合はない以前に滑稽でありませう。ただ立ち喰ひも店で味は異なるから、好みを見つけるといふ目的があれば、かけで較べるのはひとつの方法…種ものの出來は別として…に成り得るだらう。

 こんな風に書くと、眞面目な蕎麦愛好家から

「折角蕎麦を啜るんだから、たかだか立ち喰ひなんぞに寄り道してちやあ、いけないよ」

と叱られるのは明らかで、云はんとするところはまあ、判らなくもない。判らなくもないが、ちよいと腹が減つたかと感じただけで、蕎麦を啜りたいと思つてゐるわけではない。そんな気分の時に蕎麦つゆの匂ひが鼻を擽ると、むやみに刺戟されるでせうといふ話だから、蕎麦愛好家のお歴々は早合点でいけない。立ち喰ひには、立ち喰ひの誘惑があるもので、首を傾げるなら、それはそれでかまひはしないが、そちらの側に留め置いてもらへればとも思ふ。

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 有り体なところ、蕎麦はおやつに近しい…現代で云ふハンバーガーのやうな食べものですからね。我慢するべき理由が無いのなら、さつさと啜ればいいんである。ただそこでうつかり、掻き揚げ蕎麦なんぞを註文すると、晩めし時分腹が重いままで困るから、そこだけは我慢するべき理由の有無とは別の用心が必要になる。

288 型録一讀

 今回の閑文字は我が親愛なる讀者諸嬢諸氏にまつたく関はらない。外題の示すとほりである。また何らかの結論があるわけでもない。この稿を用意してゐる現在、わたしは色々と迷つてゐて、その色々な迷ひを書きつけておかうといふ、ただそれだけの算段である。

 常用のスマートフォンauのSHV33といふシャープ製の端末で、かれこれ三年余り手元で触り續けてゐる。致命的な問題は今のところ起きてゐない。起きてはゐないが、幾つか引つ掛かる点はあつて、順不同に挙げると

 

⚫️電池の保ちが惡くなつてきた。

⚫️本体の記憶領域が狭く感じられてきた。

⚫️時々いきなり再起動が掛かる。

⚫️日に一ぺんくらゐの割合でルータへの再接續が求められる。

 

の四点で、我慢は出來なくもないけれど、奥歯に挟まつた韮の切れ端のやうに、気になりはする。

 さうなると頭の隅をよぎるのは新機種への変更なのだが、そこで今のサーヴィスやら料金やら何やらを丸で知らないことに思ひあたつて、自分のことながら少し驚いた。なのでauのサイトで確めにかかつた…と書くのは正しくなく、その辺の店舗で綜合型録とかいふのをもらつてきた。我ながらアナログな態度とは思ふけれど、留意事項や細々とした條件を確認するには、寧ろこちらの方が解り易い。

 家に帰つて早速頁を捲り、まづはどんな機種があるのかを見ると、覚悟と予想はしてゐたが、矢張りがつかりした。ぱつと目にした時、これは慾しいと思へるものは無い。auだけの問題乃至責任ではない筈で、ドコモだつてソフトバンクだつて事情は変らないだらう。更に頁を繰つて従來型の携帯電話に目をやると、辛うじてINFOBAR XVはましに感じられたとは云へ、それはスタイルの部分だけで中身はありきたりである。従來型携帯電話に中身のブレイクスルーを求めるのは(そもそも期待出來るのか知ら)筋が異なるやも知れないが。

 ここでひとつ念を押すならば、わたしは別にスペック至上の立場を取つてはゐない。機種変更はそれを三年とかそれ以上使ふのが前提にした撰択となるので、現時点でミドルレンジだとかエントリーと呼ばれる機種は避ける方が賢明だと思つてゐる。その程度の先讀みはわたしのおつむが幾らアレでも出來る。さういふ視点でもう一ぺん型録を眺める。尤も眺め直したところで、印刷が別ものになるわけではなし、それにこれから、スマートフォンの形状に劇的な変化が起こるかと云ふとそれも怪しい。仕方がないのでその辺は消極的に妥協する。

 

 妥協の目で三度型録を見る。先づiPhoneは落とす。好みの問題が大半。パーソナル・コンピュータとiTunesの利用が前提になつてゐるのが気に喰はないし、microSDカード類が使へないのも釈然としない。第一高々スマートフォンの分際で高額に過ぎる。候補は自動的にAndroid端末からとなつて、型録の筆頭はXperia XZ3(ソニー)だが、これは不細工きはまりない。これならXZ2か同Premiumの方がましといふものだ。AQUOS sense2(シャープ)は惡くないが、三年の利用に耐へられるものか疑念が残る。同じAQUOSのR2はディスプレイ上部の切り欠きがどうにも許容し難い。ファーウェイとサムスンとLGは論外。URBANO(京セラ)は些か野暮つたいけれど、AQUOS sense2より長期の使用の不安は少なく済みさうである。ASUSやHTCが見当らないのは不満として、一応の目星としておいていいでせう。

 併し問題は料金体系で、これが困る。型録は“これがお得ですよ”といふ見せ方しかしないし、そこは何とか目を瞑るとしても、幾つものパターンがあつて、差異が解りにくい。使ひ方にあはせて最適なプランをお撰びくださいといふ名目なのだらうが、制限や條件や注意事項を含め、こちらを混乱させるのが先立つ目的かと邪推したくもなる。通話と通信と割引を(意図的に)ごちや混ぜにしてゐる所為だと断定してかまふまい。それでも文言が讀み易ければ自分で振分けも出來るだらうが(さういふことを強要する型録の酷さは面罵に値するけれども)、何を云はんとするのか、理解に苦しむところがままあるから、どうにもならない。不当に廉な使ひ方をしたいのではなく、自分の使ひ方に適つた料金を払ひたいだけなのに、これでは詐欺にもなりやしない。

 かう云ふとauの優秀な営業は、その為にサイトでシミュレーション出來る工夫をしてゐます、と反論するにちがひない。ちがひないが、わたしに云はせれば料金体系が複雑怪奇だから、種々の條件を入れて、確めなくてはならないのであつて、シミュレータの出來がどれだけ優れてゐたとしても大した自慢にはならない。あれが廉これがお奨めと飾り立てるなとまでは云はない(詰り我慢をする)として、こちらが知りたいのは毎月の所謂ランニング・コストであつて、そこで混乱させられるのは堪らない。莫迦丁寧な文言に気を配るなら、その辺をすつきりさせる方が余程にユーザ…貴女やわたし…を納得させられる筈なのだが、さうしないのは、せせこましい商賣気ゆゑか。これでは機種変更に到るまで、何年掛かるだらう。そんなことを思つてうんざりした。

287 それではこちらが困るので

 丸谷才一の随筆で讀んだ話。ドナルド・キーンとの対談だか雑談で、日本の近代文學でたれが讀み易いでせうと訊ねたところ、言下に谷崎潤一郎の名前が返つてきたといふ。キーン曰く

「文章の構造が論理的で解り易い」

さうで、このゴシップを初めて目にした時は少々驚いた。大谷崎(ここは“オホタニザキ”と讀んでもらひたい)の文章を讀みにくいと感じたことはなかつたが、かういふ方向からの見立てがあるとはまつたく気づかなかつた。

 あの學究が云ふ“論理的な構造”は、勿論かれの母語である欧文が頭にあつてのことで、これは優劣の話ではないから念の為。外ツ國の文法を云々出來るわけではないから、比較は飛ばすとして、我が國古來の文章が、やもすれば、しどけなくしだらなくなりがちなのは解る。谷崎は英語を學び、また欧文の小説を讀みもして、その辺りの機微を自家薬籠のものとしたのだらう。丸谷の『文章讀本』で精緻な分析があるから、ご一讀あれ。

 さう云へば、明治生れの文士は大抵外ツ國語が出來る。夏目漱石の英語、永井荷風の佛語、内田百閒の獨語。かう云ふと、現代だつて、バイリンガルの小説家は珍しくないでせうと指摘されるだらうか。されるでせうね。それで一応、その指摘は正しいとも認めます。では明治文士と現代作家は似たやうなものさと云へるかといふと、決してさう云へない。大きくまた決定的なちがひがあつて、それは漢文の素養である。谷崎にも漱石にも荷風にも百閒も幼少の頃に漢文の素讀の経験がある。日本語を讀める英國人が、ラテン語を學んだ経験も持つてゐると云へば想像し易いだらうか。

 今だつて漢文に詳しいひとはゐる。そこは認めるのに吝かではないが、それは學問として収めたひとで、金之助壮吉栄造少年の周囲にゐた、男子ノ嗜ミとして収めたひととは性質が少し異なると指摘しておきたい。これが江戸の遺風なのは改めて強調するまでもなく、令和の御代にその遺風が残つてゐるものか。更に和文を含めれば、我われの大先達は、文藝のトライリンガルであつたと云つていい。その文章が多少古めかしく感じられたとしても、讀むのにさほどの苦心を要しない背景には、さういふ教養があるからだと考へるのは妥当すぎる見立てではないかと思へる。

 いきなりかういふ話をしたのは、最近荷風の随筆を讀んでゐるからで、大正から昭和前期に書かれた、口語文文語文の両方が収録されてゐる。どちらもたいへん讀み易い。すりやあ漢語の形容は解らない箇所もあるけれど、そこはテクストの文脈で見当くらゐはつく。詰り苦心を要さないわけで、わたしは最初それをば己の讀解力ゆゑかと思つて、直ぐさまそんな阿房な話がある筈がないと考へを改めた。

 では何故すつきり頭に入るのか。

 そこで話は冒頭に戻り、キーンの云ふ“欧文脈の骨骼”…學者の指摘は谷崎についてだが、佛語を學んだ荷風にも、その骨骼はあると見ても誤りではない…が、無視出來ない程度に大きいからではないかと今さら気がついた。取上げる話題やその語り口が大事なのは認めるし、また当然でもあるのだが、それは前提…素材といふ見方もあり得る。そちらに立てば、讀み易いコンテクストを書けるかどうか…詰り素材の扱ひ方は、文章の出來を左右しかねない要素とも云へる。そしてさうするには文學上でも言語上でも、単線ではどうにも駄目で、複線を咀嚼し昇華しなくてはならない。併しそれではこちらが困る。わたしの場合、文學上でいへば日本文學のごく一部しか知らないし、言語上は現代日本語のみ(近畿方言と東京方言のバイリンガルと強弁したい気持ちは無くもないが、そんなことを云ひだしたら、八戸方言と奄美方言のバイリンガルに叱られるだらう)でもある。そのごく限られた範囲の中で、我と我が身をどうにかせねばならず、さういふ眞似が可能なものかどうか。夏目漱石森鷗外永井荷風内田百閒谷崎潤一郎から孫引きのやうに學ぶ方法はあるかも知れないが、それで人並みの文章を書けるまでに到るのかは、學究キーン先生も示しては呉れてゐない。

286 言祝ぐ

 光格帝…十八世紀末から十九世紀初頭の御門。

 幼名は祐宮(さちのみや)、諱は初め師仁(もろひと)、後に兼仁(ともひと)

 在位は安永八年十一月二十五日から文化十四年三月二十二日。

 崩御天保十一年十一月十八日。

 三十八年に及ぶ在位中の元号は安永、天明、寛政、享和、そして文化。

 仁孝帝を経て即位する孝明帝は皇孫。その後を嗣ぐ明治帝の即位から我が國は“近世”から“近代”に移つた。結果論的に云ふと、仁孝帝に帝位を譲つた光格帝は、近代以前に太上天皇に就いた最後の御門になつた。

 譲位の事情はよく解らないけれど、ごく平和的だつたのだらうと思ふ。徳川の政権は十代家治と十一代家斉の時代。幕府の権力は未だ揺るぐ気配も見られなかつたから、後白河後鳥羽両帝の頃のやうに、世間を引つ繰り返しかねない状況での譲位でなかつたのは確かでせう。

 ごく大雑把に云ふと、藤原氏がのしてきてからの我が國の歴史で、天皇が受持つたのは権威であつた。例外的な一時期を除くと、権力…支配の正当性を担保する印璽のやうだと云つても誤りにはならないと思ふ。現在の権力が弱体化すると、別のたれかがその印璽を持ち出して、新しい権力を樹ち立てる。その最後の實例(今のところではあるけれども)が明治維新で、御門を担いだ側は、そのことを自覚してゐたにちがひない。

 「上皇が出てきて、治天ノ君がふたりになるのはまづい」

 露骨にさう思つたかどうかは知らないが、天皇の権威をもつて政権を獲つたのである。旧政権を支持する、或は自らに敵対する勢力に、“上皇といふ別の権威”を持ち出されるのは具合が惡いのは、肌触りとして理解してゐたらう。御門の即位は先帝の崩御があつてとしたのは、権威の一本化を謀つた知恵と考へてもいい。

 併し光格帝は上皇に就いたぞ。

 ここでさういふ指摘が出るのは当然として、それは安永から文化にかけての徳川の幕府が、出來た計りの復古政府より遥かに安定してゐた…権力が権威を抑へ込んでゐたからだと理解すればいい。裏を返すと譲位…権威の移譲…は、政権…権力担当…が相応に根を張つてゐてこそ、穏やかに行われる性質を持つ。さう考へれば、明仁陛下から徳仁殿下への“権威の移譲”が恙無く進んだのは、今の権力が二世紀前のそれ並みである(間接的な)證だらうかとも感じられる。政治のややこしくも面倒なところはさて措きませう。この手帖は生臭な話題を好まない。

 ではどうすればいいかと云ふと話は簡単で、我われは盃をあげ、まづは令和を言祝ぎたい。お酒でも麦酒でも焼酎でも葡萄酒でもヰスキィでもいい。要は呑む切つ掛けが慾しいだけだね、といふ指摘の正しさには、まつたくそのとほりと応じるが、芽出度いねえと呑む分には、不敬の謗りを受ける心配も無からうといふものです。文化の町民もきつと、芽出度いと盃を干したにちがひない。