閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

1105 夏が來た

 近畿人にとつては、祇園祭の鐘の音と鱧の湯引きが夏の訪れだけれど、東都では聞くのも口にするのも、中々に六つかしい。その代り、東都にはエイサーとオリオン・ビールと苦瓜がある。即ちチャンプルーフェスタ。

 

 開催は去る文月の十三日。

 場所は東京中野。

 

 昨(令和五)年も足を運んだ。だから今年も行かう。と考へたのは、我ながら軽薄と思ふ。ニューナンブの面々にさういふ話をしたら、クロスロードG君が

 「いいですねえ」

と反応を示し、頴娃君も似た反応で續いた。S鰰氏は所用があるのだらう、穏やかな態度を崩さなかつた。これが水無月の半ば頃の話。

 

 文月に入つて早々、頴娃君が、新宿でお晝を食べないかと云つてきた。かれの云ふお晝は、お蕎麦とお酒にちがひない。新宿にうまい蕎麦屋があるのかどうか。まあその辺り、頴娃君は信用出來る。だから、よ御坐んすと応じた。

 その話が出て暫く、お天道さまが何とも云ひにくい顔つきを續けたのはこまつた。聯日の湿り気は甚だしく、大雨が降つた日もあつた。私の腰は坐らない。よつて週末が荒天だつたら、出掛けるのは諦める積りでゐた。

 

 土曜日の朝は曇り、お日さまの姿も散らちらしてゐた。湿気は酷いけれど、雨に較べたら何層倍もましといふものだ。S鰰氏からはお酒は夏季休業中と、クロスロードG君は中野に直行すると聯絡があつた。さて新宿に出ませうか。

 髙島屋の十三階にある小松庵に入つた。席に着いたら、頴娃君がこちらに品書きを寄越した。親切だなあと思つたら

 「註文は決つてゐるから、見なくてもいいのです」

なんだ、嬉しがるまでもなかつたのかと思ひながら、渡しも註文を決めた。春霞を一合と蕎麦豆腐。頴娃君は五喬の一合に穴子の天麩羅、鴨の塩焼き。蒸篭は後に廻す。

 

 舌に乗せた春霞は、くつきりした輪郭が溶けるやうに胃の腑へと滑り降りて、好もしい味はひ。五喬をお裾分けしてもらふと、たいへん落ち着きのある舌触り。頴娃君は山廃生酛を歓ぶ筈だつたが、嗜好が変つたのか知ら。

 莫迦ばかしい話をしてからお蕎麦。藥味は葱と山葵、昆布塩に鰹節の粉末、更にオリーヴ油まで添へ、店員さん曰く

 「お好みでお蕎麦に乗せてください」

私は素直なたちだから、少しづつ試してみた。蕎麦つゆが東京風のしつかりした仕立てだからか、劇的なちがひは感じなかつた。ややこしい手間を掛けるくらゐなら、本山葵を摺つてくれればいいのに。お店の名誉の為、お蕎麦も蕎麦つゆもまことに結構だつたと申し添へておく。

 

 新宿から中野は快速でひと驛。

 昨年までの主な會場だつた中野サンプラザと区役所前は、どちらも閉つてゐる。そこからもう少し足を延ばした四季の森公園が今年の會場で、クロスロードG君とは、そこで落ち合つた。G君は紙コップのオリオン・ビール、頴娃君はどこかのクラフト・ビール、私はオリオンの罐。

 「さあて。始めませう」

一年ぶりの乾盃である。實にうまい。軟らかな塊のやうな湿気も、この際は気にならない。手に持つた罐をよくよく眺めると、名護工場謹製と判つて、味がぐつと佳くなつた。

 「S鰰氏が來られれば、全員集合だつたのに」

さう惜しみ、叉みなで集まる切つ掛けを、作らにやあなりませんなあと話し合つた。叉このフェスタを夏の入り口にしたいねえと意見の一致も見た。

 麦酒が空になつた。これ即ちお代りを意味してゐる。我われの坐るベンチの直ぐ傍に、泡盛を何銘柄か扱ふ屋台が出てゐた。運がいい。両君はカリー春雨をオンザロックで。私は龍の水割り。龍を呑むのは何年振りになるだらう。含むと頭のどこかに埋もれた場所から、かういふ味はひだつたと思ひだされたから、飲み助の記憶もたまには役に立つ。

 泡盛を干してからサンモールに入つた。そこで頴娃君が寿司屋に目をつけ、あすこでちよいと摘みませんかと云つた。クロスロードG君曰く、有名であるらしい。サンモールは何度も通つてゐるのに、そこに寿司屋があることすら、気がついてゐなかつた。そこからブロードウェイを抜け、昭和新道に到つた辺りで、G君が時間切れになつた。かれは家庭を大事にする男なんである。お疲れさま。

 

 「矢張り先刻の寿司屋、行きませうぞ」

と頴娃君が云ひだした。我慢ならなかつたらしい。改めて店先に立つと、待たずに入れた。店内は立ち喰ひと椅子席があつた。我われが椅子席を撰んだのは、念を押すまでもない。品書きを見るに、立ち喰ひだと、酒精の一部が廉になるらしい。私は麦酒(黒ラベル)のジョッキ、頴娃君は獺祭。

 註文は紙に書いて中のひとに渡す形式。受け取つたひとが握つてくれて、衛生的にどんなものかねえと思つた。ひと先づは炙りの三貫盛り。惡くない。

 かう書いたら如何にもえらさうだが、正直に云つて、早鮓の旨いまづいはよく判らない。まづいと思はなかつたのは確かだから、ここはよしとしておかう。流石に三貫では少々物足りない。頴娃君は獺祭のお代りに鰹、更にはお刺身まで註文してゐた。こちらの追加は鮪の赤身と烏賊。一人前はそれぞれ二貫。東京の早鮓と云へば、この二種の印象がある。当時の漁に就ては無知なんだが、昔日の江戸湾で獲れたのか知ら。疑念は兎も角、お寿司をすつかり平らげた我われは、お勘定を済まして店を出た。外はぽつりと雨が落ちてゐた。

 

 頴娃君を見送つてから、瑞穂を呑んだ。古酒の水割り。久しい味はひで、嬉しくなつた。陽が暮れきつてから、エイサー聯に手を拍つて〆にした。醉ひを感じながら、夏が來たと思つた。