閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

068 先發麦酒

 身近にあつて取敢ず呑める酒精と云へばわたしの場合は麦酒で併し麦酒を酒精に含めていいのかどうか。ピーター・オトゥールが酒は止めた、かるいものしか呑まないとシャンパン・グラスを見せたといふゴシップ…大急ぎで調べてみたが手元の中では見つからなかつた…を讀んだのは伊丹十三のエセーだつたがその伝で云ふと麦酒はアルコールですらないことになる。實際のところ麦酒の原形は古代の埃及にもあつたさうでピラミッド造りに駆り出された奴隷に与へられたといふ。出勤の台帳には宿醉ひで休むなどと記録もあるさうだからいつの時代にも駄目な連中はゐたものらしい。確か古代希臘でも将官は葡萄酒で兵隊は麦酒だつた筈で、つまみは玉葱とチーズだつたといふ。一ぺん試してみなくてはならないか。

 麦酒と云へば矢張り獨逸を忘れてはならず、古い友人は出張に行つた際に文字通り水と同じやうに呑まれてゐるのを見て呆れたといふ。いはく呑む量が日本人とは丸でちがつて連中にあはせたら

「次の日がえらいことになる」

らしい。わたしは渡獨の経験がないからえらいことの具合の想像が六づかしい。漠然と麦酒だけでえらいことになるのだつたらきつと大変な量なのだらうくらゐに留まつて仕舞ふ。それで留めるのはよいとして、果してさういふ麦酒の呑み方が旨いのかと疑問は残る。こちらの想像力なぞたかが知れてゐるから茹でたり焼いたりしたソーセイジとザワークラウトと種々の馬鈴薯料理と一緒に大きなジョッキに注がれた麦酒を呑むなら素敵だと思ふのだが、コーラのやうにひよいと呑むのはまづくはないにしてもそんならコーラでいいぢやあないかとも思へてくる。

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 そこで獨逸麦酒は獨逸人に任せると思ひ切つてから我がことを振り返ると、当り前だが最初に呑んだのは父親の晩酌のお相伴で麒麟のラガー。中壜。お酒を呑まないわけではなかつたけれどそれは冬に限られて(石油ストーヴにかけた藥罐に徳利を浸けてゐた)、年中お酒を呑む習慣だつたら最初からお酒を覚えたかも知れない。後年になつて尊敬する内田百閒(實家は志保屋といふ造り酒屋だつた)も初めに覚えたのは麦酒だつたと知つて安心したことを思ひ出した。尤も百閒先生の場合は祖母の訓戒を護つて“一人前になるまで”はお酒を控へたと書いてある。事情はどうあれ麦酒を最初に覚えたのは変らないと居直つてもかまはない気がされなくもないが、それでわたしが百閒先生並みにえらくなる道理はなく、踏み込んだところでこの稿と直接関はるわけでもないからその辺りは曖昧なままにして本題に話を進める。

 尤もその本題は麦酒を一ばん旨く呑むにはどうするのが最良かといふ疑問だから、好意的に云つて無邪気、身も蓋もなく阿房な話題と云はれても仕方ないのだが、身近な酒精の一番手を軽視すると續きがをかしくなりかねない。野球と同じく先發投手の役割は大きいのである。ただわたしの場合は麦酒に先發完投を期待はしなくて中継ぎ抑へへの継投を重視する。麦酒が旨くてつまみも旨ければ安心して本格的に呑める気分になる。さういふ視点で考へると幾つかの條件が浮んでくるかと思へて先づは適切に喉が渇いてゐることだらう。適切の範囲を決るのは六づかしいのだが、極端に渇いてゐると麦酒より水が慾しくなるもので、その心境での麦酒は却つてきつくなる。概ね半日ほど散歩をして風呂に入つた後くらゐと考へるのが宜しからう。

 罐か壜かといふ撰択も本來はあつて記憶を辿る意味では麒麟のラガーで中壜が慾しくなるのだが出入りの酒屋でもない限り事實上は罐麦酒にならう。罐麦酒でかまはないとする。銘柄も細々しく指定はしない。内田百閒はヱビス・ビールだつたさうだがアサヒのスーパードライでもサッポロの黒または赤ラベルでもサントリーのプレミアム・モルツでもオリオンでも再び麒麟に戻つて一番搾りでも、ギネスでもバス・ペールエイルでもハイネケンでもバドワイザーでもクアーズでも、銀河高原でもよなよなエールでも東京ブラックでもお好みになさればよい。経験的に云ふと暑い時期は軽めのあつさりした呑みくちの方が旨く、寒くなればそこは省略しても支障は少ない。この稿で想定するのは散歩とお風呂の後だから状況としては前者に近さうに思ふ。

 理想を云ふとグラスは罐麦酒と一緒に冷しておく方がいい。そのグラスが往々にして冷し過ぎになつて仕舞ふのは用心が必要で麦酒をまづくする要因のひとつになる。気を利かせた積り呑み屋で凍つてゐるのではないかと思はせるほどジョッキを冷すお店があるがあんなに迷惑な話はない。グラスは罐麦酒一本分くらゐの容量。厚手の硝子が望ましい。わざわざ厚手と断るのは麦酒の場合そのぼつてりした当り具合も味に含まれるからで、好みがあるのは承知するが葡萄酒や辛くちのお酒でない限り薄手の酒器は似合はない。そこにどう注ぐかの詳しいところまではいちいち触れないとしてある程度の時間は要することは覚悟しておく方がよく、待つ間につまみを用意すれば合理的でありまた樂しくもある。

 そのつまみを何にするかだが余り凝らない方が宜しからうと思ふ。継投が前提の先發投手なのもあるしそもそも麦酒に豪勢なつまみ…食事は似合はない。指でつまむか匙やホークでつつける程度でよく、麦酒の注ぎ待ちの間で用意するのだから冷や奴(木の匙で掬はう)や枝豆やチーズ辺りが妥当か。勿論散歩の半日を臓物の煮込みに費やして麦酒のお供に回しても異論はないし、散歩帰りに焼き鳥や鯖の味噌煮罐を買ひ込んでも文句は云はない。といふより寧ろわたしなら買つて帰る。盛りつけをどうかう云ふつまみではなからうが一応はお皿に並べて罐麦酒を呑む。残るは何時くらゐから始めればよいかといふ点で吉田健一に云はせたら、朝から始めて翌朝までと躊躇なく教へて呉れるにちがひないが、それはお酒だから当て嵌る箴言であつて先發麦酒には無理がある。晝の陽射しが何ともなく夕方に移つた辺りとするのがよささうに思はれてこれならなだらかにお酒でも葡萄酒でも継投が綺麗に決るだらう。

067 金魚とセロリ

 外で呑み歩く機会がぐんと減つた。

 いつ頃からかはつきりしない。

 確實に云へるのは厭になつたからでなく、弱くなつたことで、家で呑む方が樂になつた。

  併しどちらが先の事情か知ら。

 考へたつて詮のないことであらう。

  念を押すと外で呑むのを止めたわけでなく、偶にはさうしたくなる時もある。さうしたくなつたら留まる理由は(お小遣ひ以外に)なくて、画像はさういふ夜に撮つた。

  お店の名前は出さない。この手帖の影響力なんて無いに等しいけれど、小さな立呑屋だから、混雑するのはこまる。尤もそれなりに有名でもあるらしいから、いちいち挙げなくたつて、かまはないでせう。

  バゲットにクリーム・チーズを塗つて、生ハムを乗せ、貝割れ大根をあしらつたものがつきだしで、ちよいと洒落てゐる。

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 上段は“金魚”と名づけられてゐる。焼酎のソーダ割りに大葉と唐辛子を入れたもの。コップが金魚鉢。唐辛子は金魚で、大葉を水草に見立てた一ぱい。お代りの時に二匹めと頼めば、二本目の唐辛子が入る。少しづつ辛みが出てくるさうだが、さういふ変化を愉しむには、三匹以上の金魚が必要になるらしい。

  下段は品書きに“牛肉とセロリーの黒胡椒炒め”とあつた。近畿人にとつて、肉と牛肉はほぼ一直線に結びつくし、つきだしが旨かつたのだから間違ひはないだらうと註文した。胡椒のきかせ方が穏やかなのに、セロリーの癖を巧く抑へたのには感心した。尤もさういふ癖を好もしく感じる向きには物足りないかも知れない。

 画像では見せないが、外に焼き餃子(羽つき。註文してから焼いてくれる)と鶏の天麩羅(こちらも揚げたて)も食べた。後者は味つけぽん酢に練り辛子を添へたたれで。なくたつて十分に旨かつたけれど、お店からこれでどうぞと奨められてゐるんだもの、試さないと損だから、そちらでも食べたら、矢張り旨かつた。満足してお店を後にしたのは、改めるまでもないとして、暫く腹の底には二ひきの金魚が泳いでゐるやうな感じが残つた。

066 鯵フライ問題(仮)

 近所のマーケットで時々、特賣と銘打つて鯵フライが2枚98円(消費税別)で並べられる。普段は矢張り消費税別で128円だから、かういふ機会を逃す手はない。それで買ふ。キヤベツなぞと一緒にお皿に乗せ、さてそこで悩ましくなるのが何を掛けるのが望ましいかいといふこと。これをこの稿では仮に、“鯵フライ問題”と呼びたい。

 …いや我が親愛なる讀者諸嬢諸氏よ、呆れないでもらひたい。わたしは眞面目なのだ。

 ウスター・ソース。

 タルタル・ソース。

 醤油。

 マヨネィーズ。

 (味つけ)ぽん酢。

 塩。

 檸檬

 順不同で挙げるとこんなところか。勿論これらの組合せもあり得るし、ちよつとした追加(たとへば刻んだ葱)まで含めて考へると、實際の候補は倍くらゐになるだらう。…と書いたら、我が鯵フライを愛する讀者諸嬢諸氏から

「何を云つてゐるんだらうね、このひとは」

「鯵フライはそのままかぢりつくのが、王道なんである」

厳しく指摘される可能性がある。またそのご指摘はかなり正しくもある。併しそれをそのまま認めると、そもそも“鯵フライ問題”が成り立たない。従つてこの稿も成り立たなくなる。具合が惡い。そこで揚げたての鯵フライにソースは要らない。但し冷めて仕舞つた、またはマーケットで買つた鯵フライには何かしらの追加が求められる筈ですよねと、下手に出て、話を續けませう。

 先に念を押すと、我われはここで、結論をひとつに絞り込んではならない。どんな時間帯に、何と一緒に食べるかで、組合せは変化する筈だし、また変化しなければをかしい。

 先づ最初…当り前に浮ぶのは、ごはんのお供だらう。この場合は矢張り醤油が最良と思ふ。出汁醤油を含めてもいい。香りが薄つすら立つ程度。味つけぽん酢も同様ですね。ところが同じごはんでも、丼に乗せるなら話は別で、こちらは断然ウスター・ソースで、たつぷり掛けるのが望ましい。

 パンにあはせるならタルタル・ソース。そのままだと頼りなく思へるなら、ほんの少しのマスタードか、チリー・ソースを忍ばせるのがいい。尤も鯵フライがパンに似合ふかどうか、議論の余地は残されてゐると思はれる。

 酒精のあてにする時は悩ましいね。鯵フライにあふとすれば、麦酒や焼酎ハイがおそらくは筆頭格。マヨネィーズにチリー・ソースかウスター・ソースにマスタードで些か下品にくどくして、それを炭酸ですつきりさせるのがよささうに思ふ。お酒だと丸きり反対に、檸檬塩や大根おろしを使ひたい。

 さうなると葡萄酒では、ヰスキィでは、紹興酒では、どうなるだらうといふ疑問が浮ぶわけで、すりやあ試さなくては判らない。併し試すとなると大量の鯵フライが必要になる。幾ら特賣98円の日でも、それだけの数を揃へるとすると、結構な出費になる。“鯵フライ問題”の道は遠い。

065 本の話~番外篇

 最初に買つてもらつた小説は『太陽系七つの秘宝』だつた。エドモンド・ハミルトン野田昌宏…かれが宇宙軍大元帥と知つたのは、随分と後になつてからだつた…の翻訳で、ハヤカワSF文庫版。今は確か創元文庫に収められたと思ふが、挿し絵が水野良太郎でないと、落ち着かなくていけない。この『太陽系七つの秘宝』(發表は1940年)は極微の宇宙である原子…その鍵になるのが“七つの秘宝”と呼ばれる宝石…の中にキャプテン・フューチャーが飛び込む筋立て。いやあ、スペース・オペラの時代ですねえ。

 それを讀んだのが30年余り後の少年で、實にこれはわたしにとつて、讀書経験の衝撃であつた。何しろそれまで讀んでゐたのがロフティングの“ドリトル先生”シリーズやミルンの“プーさん”、スウィフトの“ガリヴァー”(但しリリパットとプロブディンナグのみ)だつたから、これは激変的な経験と云つてもいい。一体親が何を考へて買ひ与へたのか、今になつてもよく判らない。母親が撰んだのだらうとはほぼ確實だと思ふ。倅が云ふのも何だが、母親の本の趣味には些か文學少女めいたところ(たとへば“赤毛のアン”)がある。それとスペース・オペラを結ぶのは無理がありさうにも思へるんだが、引つ込み思案で内向的な息子(わたしのことですよ、念の為)に空想の樂しみを教へる積りだつたのだらうか。

 小説を讀む習慣が出來たのはおそらくハミルトン・野田元帥のコンビに出会つてからで、ドクター・ジョン・ドリトルやクリストファ・ロビンやレミュエル・ガリヴァー船長には申し訳ないが、今風に云へばプレ讀書期の主役たちなのは間違ひない。 そちらに邁進してゐたら、もしかすると英文學を志したかも知れないとも思はれる。まあこれは空想で、實態はそこから吉川英治の『織田信長』だつたり、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』だつたり、田辺聖子の“カモカのおっちゃん”や池波正太郎の“鬼平”に進んだから、娯樂としては兎も角、讀書の正統ではなかつたよね。

 参考までに云ふと、これらの本はおほむね母親の藏書…は大袈裟だな、母親の本棚にあつたのを手当り次第に讀んだ結果であつて、ここに詩集がまつたく無かつたのは、思ひ出しても不思議でならない。萩原朔太郎中原中也上田敏谷川俊太郎も(かれの名前を知つたのはチャールズ・シュルツ描く“Peanuts”の翻訳者としてだつた)、“柳多留”も“百人一首”も、“イーリアス”や“オデュッセイア”も本棚に無かつたのは何故だらう。わたしが詩に殆ど不感症になつたのは、これが原因にちがひない。今讀んでも…川柳や狂歌で笑ふのはわたしの娯樂のひとつである…理窟が先立つて仕舞ふもの。

 中學高校の6年間は司馬遼太郎池波正太郎、それからE.E.スミスの“レンズマン”に熱中した。司馬で云へば『国盗り物語』『燃えよ剣』『翔ぶが如く』『坂の上の雲』『尻啖え孫市』『義経』『功名が辻』『世に棲む日日』を。池波は云ふまでもなく“鬼平”に“仕掛人”に“剣客商売”、勿論『真田太平記』と『雲霧仁左衛門』も欠かさなかつた。

 さうだ。探偵小説を忘れてはいけなかつた。ドイルの“ホームズ”…アイリーン・アドラーほど魅力的なヒロインが外の探偵小説にゐるだらうか…、クリスティ女史の『オリエント急行殺人事件』『アクロイド殺害事件』『そして誰もいなくなった』、クイーンの“國名”ものと“ドルリー・レーン”もの。ヴァン・ダインの『ベンスン殺人事件』『グリーン家殺人事件』『僧正殺人事件』…さう云へば江戸川乱歩横溝正史を代表とする日本の探偵小説には手を出さなかつた。漠然と探偵小説は洒落たものでなくてはならぬ、と感じてゐたのだらうな。

 後は漫画ですね。記憶に残るのを順不同で挙げると、『うる星やつら』に『めぞん一刻』(高橋留美子)、『アリオン』(安彦良和)。『風の谷のナウシカ』(宮崎駿)は途中で投げ出した。『童夢』と『AKIRA』(大友克洋)、『サイボーグ009』(当時の名義は石森章太郎)、『キャプテン・ハーロック』(松本零士)、『ドカベン』(水島新司)、『コブラ』(寺沢武一)、『夢幻紳士』に『クレイジーピエロ』(高橋葉介)。外にも『スケバン刑事』(和田慎二)や“紅い牙”のシリーズ(柴田昌弘)、『V☆Kカンパニー』(山口美由紀)、『ライム博士の12ヶ月』(坂田靖子)、『前略・ミルクハウス』(川原由美子)と、少女漫画を手にしたのもこの時期だつた。漫画ではないが、集英社コバルト文庫は漫画に近い感覚で讀んだ。新井素子氷室冴子、大和眞也。但し新井素子早川書房から出した『…絶句』が一ばん面白かつたけれど。

 かうして眺めると、例外は認めるとしても…“ホームズ”がさうですね…、長篇(小説)嗜好がはつきりしてゐるのは、自分でも驚いて仕舞ふ。正直なところ、今でも短篇小説は苦手で、一連の“私本・源氏物語”(田辺聖子)は大好きだが、あれは“源氏物語”の枠を使つた連作だから、純然とした短篇小説とは呼びにくい。但しエセーは別枠だつたらしい。前述の“カモカのおっちゃん”や池波のエセーがさうだつた。池波のエセーには恩義があつて、何しろ[藪]や[たいめいけん]はかれに教はつたから、大恩と云つていいかも知れない。尤も文章自体はあまり好みではなかつた。後年、北大路魯山人の『魯山人味道』を一讀して、あれは著者一流の厭みへの反發だつたと気がついたのは鈍いのか、池波に触れたのが早すぎた所為か。

 學生でなくなつた頃から、讀む対象が小説からエセーに移つた。田辺聖子池波正太郎だけでなく、司馬遼太郎の“街道をゆく”…『坂の上の雲』を再讀した時、そつくりに思へたのが不思議だつたなあ…や伊丹十三がそれで、ことに伊丹の『ヨーロッパ退屈日記』には驚いた。きざが厭みと無縁に文章が成り立つのを知つたのは、この才人のお蔭である。同時期かそれより少し遅れて讀みだしたのが丸谷才一。最初に手にしたのは『裏声で歌へ君が代』(新潮社の函入り装幀)だつた筈だが、はつきりしない。若造には早かつたのでせうな。但しその文章はわたしの興味を弾くのに十分でもあつたらしく、手に入る随筆を片端から讀んだ。實に面白かつたが、この作家の本領は矢張り長篇小説と評論で、『女ざかり』や『輝く日の宮』で見せた繊細で花やかな技法…確か筒井康隆が“ディケンズ的な頽廃”と絶讚した筈だ…、『忠臣藏とは何か』で示した仇討ちとカーニヴァルの融合は、いづれを取つても最良の藝、文藝と呼ぶに足る。

 その丸谷から枝をわけるやうに手を出したのが吉田健一…『私の食物誌』や『酒肴酒』と、檀一雄…『檀流クッキング』に『美味放浪記』と、内田百閒…『阿房列車』に『百鬼園随筆』『御馳走帖』『東京焼盡』で、優れた書評家は必ず知らなかつた面白い本を教へて呉れるのだな。尤も吉田には少々手子摺つた。癖のあるヰスキィのやうな文章なので、こちらとの調子が合ふまではつつかへて仕舞ふことがある。その所為だらう、『金沢』は未だに讀み了へられない。ゆつくりと頁を進めるうち、具合がよくなつたのはいいが、その頃には最後の頁が近いなんてこともあつた。

 丸谷からの分岐ではない作家もゐて、女流である。高村薫塩野七生。どんな切つ掛けだつたかは記憶が曖昧になつてゐる。初めて讀んだ塩野の本が『チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷』なのは確實。題名がどうにも少女趣味にも思へたが、詳しく知らない時代の、詳しく知らない地域の、併し強烈に面白い人物…チェーザレマキャヴェッリダ・ヴィンチと同時代に生きた…の描冩は鮮やかで、續けて『コンスタンティノープルの陥落』『レパントの海戦』に手を出したのは筆者の力量といふべきか。但し塩野の代名詞とも呼べる『ローマ人の物語』はカエサルからアウグストゥス辺りで離れた。ローマ帝國が興味の範疇でなかつたのが原因だから、彼女の責ではない。さう云へば高村と塩野には、がつしりした長篇小説を書く腕力と、エセーが今ひとつといふ共通点がありますな。

 女流小説家であれば、宮部みゆきも挙げておかう。『レベル7』や『龍は眠る』は讀ませて呉れながらも詰めが甘つたるくて、弱つたのだが、『蒲生邸事件』が凄かつた。史實を題材(舞台は2.26事件の当日)にした苦みが、最後のあまさへと巧く絡んで、終章はもつと切り詰めてよかつたかとも思へるが、讀後感が非常によかつた。さういふ甘さを半ば逆手に取つたのが『図書館戦争』(有川浩)だらう。骨組みはしつかりしてゐて、到るところにチョコレイトやクリームがコーティングされたやうな構成は、本來重苦しくなる筈の“検閲”といふ主題への工夫でもあつた筈だが、それ自体が幕間の樂しみでもあつた。ああいふ作り込みは男性だとまあ無理だし、女流だつて余つ程耳がよくなくちやあ、ただの滑稽で留まると思はれる。

 と、ここまで書いて気がついたことがある。ひとつには海外の作家が極端に少ない。R.B.パーカーの“スペンサー”ものやヒギンズの『鷲は舞い降りた』、ライアルの『深夜プラスワン』、恰好をつけられるとしたらプラトンの“対話篇”とマキャヴェッリをほんの少し程度で、ダンテもジョイスもシェイクスピアチェーホフドストエフスキーもエミリとシャーロット・ブロンテガルシア・マルケスボルヘスも(今のところ)縁がない。もつと顕著なのは文學…古典からの距離で、『源氏物語』も『枕草子』も『方丈記』も『徒然草』も“新古金”を代表にするが和歌集も、『仮名手本忠臣藏』や『奥の細道』だつて遠い。近代に入つても森鴎外志賀直哉芥川竜之介太宰治からは遠いままである。例外は内田百閒と師匠筋の夏目漱石永井荷風谷崎潤一郎が精一杯。さうだらうなと思つてはゐたけれど、かうやつて文字にすると、本…讀書が好きだと称するのも憚られる気分になつてくる。ただまあ、今さら文學と斜に構へるのも莫迦げた見栄といふものでせう。折角余生に入つたんだもの、さういふ娯樂に身を委ねてもよからうと考へてゐる。『源氏物語』や『神曲』のやうな大物もいいが、まづはホメロスだらうか。これなら岩波文庫に松平千秋の優れた翻訳が収められてゐる。

064 幸せ卵

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 前回の[063 例外色]に續いて卵が登場する。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏からは、片寄つてゐるよと云はれさうな気もするが、卵はわたしの偏愛する食べものなので、ご容赦願ひます。それに偏愛なのだから、片寄りも仕方がない。

 立ち喰ひ蕎麦屋でわたしが好むのはたぬき蕎麦なのは、随分以前に触れた記憶がある。きつねや若布、掻き揚げを好まないのではなくて、ことの外、たぬきが好きなのだと考へて頂きたい。

 時々足を運ぶさういふ安直な蕎麦屋(但し値段を考へると中々うまい)では、お客のちよつとした我が儘…月見に若芽の追加や冷しの山葵抜き…に応じて呉れる。値段は掛け蕎麦(220円)を基準に、差額が追加料金になる。たとへば月見は260円だから、生卵の追加は40円。天麩羅だと300円で、掻き揚げは80円で追加出來る。實に判り易い。

 だから一ぺん、やつてみたいなあと思つてゐたのだが、いざとなると云ひにくいですね。ことに外のお客が待つてゐると、どうしても遠慮して仕舞ふ。かういふ時に限つて、常連さんがさらつと

「きつね蕎麦に若布」

なんて註文をして、おれの気遣ひは何だつたのかと腹立たしくなつてくる。顔に出さない程度、齢を重ねてゐてよかつた。

 ある日の午后おそく、偶さかその蕎麦屋の前を通ると、うまい具合にお客がゐない。都合よく小腹も空いてゐる。これはいい機会だと思つたから潜り込んで

「たぬき蕎麦…に卵を入れてもらへますか」

と註文した。亭主が厭な顔をする筈もなく、生卵入りたぬき蕎麦は恙無く、わたしの前に運ばれてきた。油つ気とつゆの辛みを、卵の軟らかい冷つこさが受けて、まことによろしい。黄身は蕎麦を途中まで啜つてから、ちよいと崩した。かういふ場合、卵は崩しても混ぜない方がいい。七味唐辛子は出合ひものだが、卵にかからないよう、気をつけて。260円のたぬき蕎麦に追加の生卵が40円。〆て300円の一ぱいは、味の変化に富んで、満足に値するものでありました。