閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

068 先發麦酒

 身近にあつて取敢ず呑める酒精と云へばわたしの場合は麦酒で併し麦酒を酒精に含めていいのかどうか。ピーター・オトゥールが酒は止めた、かるいものしか呑まないとシャンパン・グラスを見せたといふゴシップ…大急ぎで調べてみたが手元の中では見つからなかつた…を讀んだのは伊丹十三のエセーだつたがその伝で云ふと麦酒はアルコールですらないことになる。實際のところ麦酒の原形は古代の埃及にもあつたさうでピラミッド造りに駆り出された奴隷に与へられたといふ。出勤の台帳には宿醉ひで休むなどと記録もあるさうだからいつの時代にも駄目な連中はゐたものらしい。確か古代希臘でも将官は葡萄酒で兵隊は麦酒だつた筈で、つまみは玉葱とチーズだつたといふ。一ぺん試してみなくてはならないか。

 麦酒と云へば矢張り獨逸を忘れてはならず、古い友人は出張に行つた際に文字通り水と同じやうに呑まれてゐるのを見て呆れたといふ。いはく呑む量が日本人とは丸でちがつて連中にあはせたら

「次の日がえらいことになる」

らしい。わたしは渡獨の経験がないからえらいことの具合の想像が六づかしい。漠然と麦酒だけでえらいことになるのだつたらきつと大変な量なのだらうくらゐに留まつて仕舞ふ。それで留めるのはよいとして、果してさういふ麦酒の呑み方が旨いのかと疑問は残る。こちらの想像力なぞたかが知れてゐるから茹でたり焼いたりしたソーセイジとザワークラウトと種々の馬鈴薯料理と一緒に大きなジョッキに注がれた麦酒を呑むなら素敵だと思ふのだが、コーラのやうにひよいと呑むのはまづくはないにしてもそんならコーラでいいぢやあないかとも思へてくる。

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 そこで獨逸麦酒は獨逸人に任せると思ひ切つてから我がことを振り返ると、当り前だが最初に呑んだのは父親の晩酌のお相伴で麒麟のラガー。中壜。お酒を呑まないわけではなかつたけれどそれは冬に限られて(石油ストーヴにかけた藥罐に徳利を浸けてゐた)、年中お酒を呑む習慣だつたら最初からお酒を覚えたかも知れない。後年になつて尊敬する内田百閒(實家は志保屋といふ造り酒屋だつた)も初めに覚えたのは麦酒だつたと知つて安心したことを思ひ出した。尤も百閒先生の場合は祖母の訓戒を護つて“一人前になるまで”はお酒を控へたと書いてある。事情はどうあれ麦酒を最初に覚えたのは変らないと居直つてもかまはない気がされなくもないが、それでわたしが百閒先生並みにえらくなる道理はなく、踏み込んだところでこの稿と直接関はるわけでもないからその辺りは曖昧なままにして本題に話を進める。

 尤もその本題は麦酒を一ばん旨く呑むにはどうするのが最良かといふ疑問だから、好意的に云つて無邪気、身も蓋もなく阿房な話題と云はれても仕方ないのだが、身近な酒精の一番手を軽視すると續きがをかしくなりかねない。野球と同じく先發投手の役割は大きいのである。ただわたしの場合は麦酒に先發完投を期待はしなくて中継ぎ抑へへの継投を重視する。麦酒が旨くてつまみも旨ければ安心して本格的に呑める気分になる。さういふ視点で考へると幾つかの條件が浮んでくるかと思へて先づは適切に喉が渇いてゐることだらう。適切の範囲を決るのは六づかしいのだが、極端に渇いてゐると麦酒より水が慾しくなるもので、その心境での麦酒は却つてきつくなる。概ね半日ほど散歩をして風呂に入つた後くらゐと考へるのが宜しからう。

 罐か壜かといふ撰択も本來はあつて記憶を辿る意味では麒麟のラガーで中壜が慾しくなるのだが出入りの酒屋でもない限り事實上は罐麦酒にならう。罐麦酒でかまはないとする。銘柄も細々しく指定はしない。内田百閒はヱビス・ビールだつたさうだがアサヒのスーパードライでもサッポロの黒または赤ラベルでもサントリーのプレミアム・モルツでもオリオンでも再び麒麟に戻つて一番搾りでも、ギネスでもバス・ペールエイルでもハイネケンでもバドワイザーでもクアーズでも、銀河高原でもよなよなエールでも東京ブラックでもお好みになさればよい。経験的に云ふと暑い時期は軽めのあつさりした呑みくちの方が旨く、寒くなればそこは省略しても支障は少ない。この稿で想定するのは散歩とお風呂の後だから状況としては前者に近さうに思ふ。

 理想を云ふとグラスは罐麦酒と一緒に冷しておく方がいい。そのグラスが往々にして冷し過ぎになつて仕舞ふのは用心が必要で麦酒をまづくする要因のひとつになる。気を利かせた積り呑み屋で凍つてゐるのではないかと思はせるほどジョッキを冷すお店があるがあんなに迷惑な話はない。グラスは罐麦酒一本分くらゐの容量。厚手の硝子が望ましい。わざわざ厚手と断るのは麦酒の場合そのぼつてりした当り具合も味に含まれるからで、好みがあるのは承知するが葡萄酒や辛くちのお酒でない限り薄手の酒器は似合はない。そこにどう注ぐかの詳しいところまではいちいち触れないとしてある程度の時間は要することは覚悟しておく方がよく、待つ間につまみを用意すれば合理的でありまた樂しくもある。

 そのつまみを何にするかだが余り凝らない方が宜しからうと思ふ。継投が前提の先發投手なのもあるしそもそも麦酒に豪勢なつまみ…食事は似合はない。指でつまむか匙やホークでつつける程度でよく、麦酒の注ぎ待ちの間で用意するのだから冷や奴(木の匙で掬はう)や枝豆やチーズ辺りが妥当か。勿論散歩の半日を臓物の煮込みに費やして麦酒のお供に回しても異論はないし、散歩帰りに焼き鳥や鯖の味噌煮罐を買ひ込んでも文句は云はない。といふより寧ろわたしなら買つて帰る。盛りつけをどうかう云ふつまみではなからうが一応はお皿に並べて罐麦酒を呑む。残るは何時くらゐから始めればよいかといふ点で吉田健一に云はせたら、朝から始めて翌朝までと躊躇なく教へて呉れるにちがひないが、それはお酒だから当て嵌る箴言であつて先發麦酒には無理がある。晝の陽射しが何ともなく夕方に移つた辺りとするのがよささうに思はれてこれならなだらかにお酒でも葡萄酒でも継投が綺麗に決るだらう。