閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

073 偶に意味のない無駄遣ひ

 偶に意味もなくビジネスホテルに泊りたくなることがある。どうしてと訊かれても“意味もなく”だから説明は六づかしい。当り前に考へればビジネス抜きのホテルの方が快適ではないかとも思へるし、確かに間違ひではないのだが、どうもビジネスホテルでなければしつくりこない。そこには何か心理的な背景がありさうに思へる。

 単純に考へると馴れだらうか。小旅行で使ふのはほぼビジネスホテルで、要するに寝床だから、清潔なベッドとお風呂があればそれでよく、たとへば雄大な景色、たとへば豪勢な食事は不要といふことになる。景色や食事に使ふお金は、お酒と肴にまはす。自分の好きに費ふ点で、合理的と強弁出來なくもない。但し“意味もなく泊りたくなる” 理由とするには弱い。

 そこで、ビジネスホテルの、一応は特別だけれど、それほど特別でもないといふややこしい気分を挙げたくなる。説明を試みると、ビジネスではないホテルに泊るのは云はば日常からの逸脱である。豪壮な景色を家の窓から眺められるのは、 ごく限られた土地だらうし、贅を凝らした料理を行き届いたサービスで味はへる機会だつて、さう安直には恵まれまい。詰り非日常で、日常ニハ非ズなのだから特別に決つてゐる。それはそれで歓迎するとして、さういふ非日常…特別を満喫したいならホテルに籠らざるを得なくなる。何となくをかしい。出無精ならそれもかまはないかと思つたが、果して出無精が幾許かをはたいてホテルに行くものか知ら。それに対してわたしがビジネスホテルに求める機能は、前述のとほり風呂と寝床だから、花やかな風景も特別な食事も要らない。サービスは不快でなければ問題はなく、こちらが聲を出さない限り、はふつてもらへればいい。要は日常の幾分かを、お金を払つて省略出來る場所…詰り日常の自分にとつて都合のよい延長にあるのがビジネスホテルと見立てられる。ホテルほど特別ではないにしても、多少はその気分もあると述べた理由は、おほむねこの辺りではないかと思ふ。些か無理矢理な分析なのは認めるのに吝かではないが、だとすれば不意に無精をしたくなつた時、ビジネスホテルに行きたくなつても、筋が通るでせう。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏に納得してもらへるかどうか、自信は持てないのだけれど。

 それでどこに泊ればよいかと云ふと、“偶に意味もなく”泊りたくなるのだから、別にどこでもかまはない。自宅から一時間以内とか、そんな程度の距離でよからう。わたしの地元から考へれば、立川や福生、八王子。或は船橋から千葉か。横濱も範囲に入りはするが、あすこは意味もなく泊りたい土地と呼びにくい。その辺りは我が親愛なる讀者諸嬢諸氏の側でも勝手に撰んでもらひたい。

 素泊りか朝食つきで、出せるのは精々六千円とか七千円程度。呑み屋街が近ければ好もしいが、マーケットがあれば上等である。お酒と肴をちよいと奢つたつて、こちらのお小遣ひである。文句を云はれる心配はない。蕎麦でも定食でもやつつけてからひと風呂浴び、部屋でおもむろに罐麦酒を開けるもよく、呑み屋に繰り出すのもまた宜しい。勿体ないとか無駄とか云はれさうだが、これは遊びの一種なのだから、勿体なかつたり無駄遣ひだつたりも止む事を得ない。さてではどこに行かうか知ら。

072 思ひ出すまま

 旨かつたかどうか、そこは曖昧なのだが、何となく記憶に残る食べもの呑みものを、思ひ出すままに挙げてゆく。


 まづは心斎橋にあつた獨逸料理屋で出されたグリンピースのソップ。

 今もわたしはグリンピースが苦手なのだが、これは實に旨かつた。塩胡椒であつさりと仕立てた透明のソップで、鮮やかなグリンピースが敷き詰められてゐた。


 グリンピース繋がりで中之島図書館の食堂で喰つたオムライス。

 第一ホテルだつたかが入つてゐた筈だから、旨いに決つてゐる。当時で確か四百円くらゐ。些か寒々しい造りと記憶してゐるが、廉価で贅沢な食事だつた。


 天五中崎商店街にあつたバーのギムレット

 夜中にジャック・ダニエルズを二はい、呑んだ後に作つてもらつた。今もわたしにとつて、ギムレットの味の基準になつてゐる。刷り込みの一種なのだらうと思ふ。


 市川の定食屋で喰つた冷し中華と壜麦酒。

 特段に美味だつた記憶はないのに、無闇に註文したのは何故だらう。いつの間に覚えられたか、女将さんに“いつものですか”と訊かれて、照れ臭かつたなあ。


 沖縄市の食堂で喰つたポーク玉子定食。

 これも特別に旨かつた記憶はない。お味噌汁の代りに沖縄そばが添へられ、六百円とかそんな値段だつたと思ふ。オリオン・ビールをあはせたかどうかは忘れた。


 同じく沖縄市の別の食堂で喰つた野菜そば。

 野菜炒めをたつぷり乗せた沖縄そば。熱い丼にこーれーぐすを振つて啜るのは、宿醉ひの晝にまつたく効果的だつた。


 那覇で喰つた屋台のラーメン。

 沖縄のめしは大体、舌に適つたが、これは唯一の例外。ラーメンを積極的にまづいと思つた記憶は他にない。あれには笑つた。


 ラーメン續きは、武田神社から甲府驛に到る道中にあつたラーメン屋で喰つた味噌ラーメン。

 空腹だつたのに、他にめしを喰へる場所が見つからなかつた為の緊急避難。その割りにまあ惡い印象が残つてゐない。空腹こそ最上のソースといふのは眞實である。


 大久保にあつた[かぶら屋]のつくねの串焼き。

 下拵へを色々工夫して、蓮根を隠したり、生姜を効かせたりして、歯触りや味はひを変へてくるのが樂しみだつた。[かぶら屋]自体は今もあるのだが、八釜しくは云ふまい。


 田町にあつた[清瀧]のお刺身盛合せ。

 四点盛と謳つてゐるのにいつも二点多かつた。何が出るか判らないけれど、大体の場合はお酒に適ふ組合せで、實に有難かつた。


 中野にあつた[山ちゃん]のもつ煮と苦瓜のピックルス。

 “こてこて”を冠にするだけあつて、非常にとろりとした仕上げ。ホッピーでこいつをやつつけてから、泡盛に切替へてピックルスがルーティーンだつた。串焼きの店だつた筈だが、そつちを喰つた記憶は残つてゐない。


 他にもかういふ例は幾らもあつて、帰省の際、新大阪驛構内の饂飩屋で啜つたきつねうどん。都立家政の名前を忘れた呑み屋で喰つたトマトとモッツァレラ・チーズのサラド。中井の[ぺいざん]で喰つたハンバーグやフライ。同じく中井の何やらで喰つた野菜炒め定食。諏訪の[丸高藏]でのお味噌汁。或は登美の丘はサントリーの葡萄酒藏に併設されてゐたレストランでのポーク・ソテー。横浜スタジアムでのヱビス・ビールと[崎陽軒]のシウマイ弁当はちよつと趣旨から外れるが、野球見物をしながらの呑み喰ひは素敵なものです。それから試合終了後に中華街の隅つこで喰つた焼そば(焼いてあんかけだつたか)と紹興酒。横濱のどこだつたかの呑み屋の記憶は曖昧だが、肴がひどく旨かつたのは忘れ難い。今はない、または足を運ぶ機会に恵まれないところに絞つて、思ひ出すままに挙げてみた。

071 始めました

 気温が高くなると食慾がぐつと落ちる。それで大体は素麺に頼る。樂だもの。尤も樂ではあつても毎日毎食を素麺に頼るわけにもゆかず、勿論『檀流クッキング』(檀一雄/中公文庫ビブリオ)を参考に、“少しく奮闘して、さまざまの薬味を”用意すれば事情は異なるかも知れない。サラシネギからシイタケ、鶏の挽肉を経て、ダイコンおろしに到る七品の藥味を並べあげるくだりは、葱を刻むやうなリズムで、痛快と云ひたくなつてくる。序でに腹も減つてきて、かういふのを文章の力と呼ぶのだらうな。

 蕎麦をゆがくこともある。ただ残念ながら蕎麦には藥味の樂しみは少なさうで、葱に山葵、七味唐辛子、後は精々天かすか知ら。呑んだ帰りの立ち喰ひ蕎麦屋で、ざる蕎麦一枚に温泉玉子を落すと、咽の通りが宜しいのを思ひ出した。玉子以外はどれを取つても使ひ過ぎないのがこつで、極端な味を加へるのは蕎麦に似合はない気がする。世の中は広いから、蕎麦を啜るにはこれが無くちやあと、わたしの知らない藥味があるのかも知れない。何となく損をしてゐるのではないかと思へてきた。

 併し暑い季節に嬉しくなるのは冷し中華ではあるまいか。…と書いた時、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏の頭に浮ぶ冷し中華はどんな姿だらうか。わたしの場合は浅い器に冷たく〆た中華麺。酢醤油系統の酸つぱいたれで。そこに錦糸玉子に胡瓜と煮豚の細切りを乗せ、紅生姜を少々添へたのを“基本の冷し中華”だと考へてゐる。

 尤もこの場合の“基本”は単に刷り込みの結果であつて、そもそも冷し中華は曖昧な料理である。名前に中華と入つてゐるのに發祥は我が國で、料理の常でいつ頃に成り立つたのかは判然としないけれど、漠然と大正末から昭和初期には原型があつた。仙台説と神田説が有力といふ。どちらかが正しいのでなく、別々の事情と経緯があつたのだらうな。いづれもとあるお店の考案になるさうで、これが冷し中華の曖昧を深めてゐる。作り方も味つけも、時間によつてコンセンススを得たわけではないから、色々な冷し中華冷し中華として出してもかまはないことになり、冷し中華

「夏に食べる冷たい中華麺料理の一種」

といふ曖昧な立場のまま、現在に到つてゐる。幸か不幸かの判断は六づかしいが、素麺や蕎麦、或は饂飩(さう云へば饂飩は冷たく〆て食べたいとは思はない。何故だらう)のやうな安定感に欠けるといふべきか、勝手工夫の余地がたつぷり残されてゐると理解するべきか。

 前述の通り、わたしは酸味のあるたれ、錦糸玉子、煮豚、胡瓜が冷し中華の基本と考へてゐる。併し我が親愛なる讀者諸嬢諸氏から異論が出るだらうことは当然の話で、茹でもやしが慾しいとか、寧ろハムが好もしいとか、木耳の歯応へを無視してはならぬとか、若布を抜いてどうするとか、海月を欠かすのは論外だとか、紅生姜の代りに辛子を用意すべきとか、マヨネィーズを添へなくちやあとか、胡麻たれで喰ふのが旨いとか、トマトがいい具合なのだとか、思ひ浮ぶままに挙げてもかうだから、全國各地の冷し中華がどんな状況なのか、想像するのも六づかしい。たとへば『ドバラダ門』(山下洋輔/新潮文庫)には鹿児島は天文館通りの[呑竜]で冷し中華を貪り喰ふとある。年中食べられるさうで

 『しばらく前におれが「全日本冷し中華愛好会」というものの会長をしていたときにそれを面白がったマスターの中村信一郎さんがラーメン屋の主人をそそのかして冬でも作るようにしてしまったのだ』

 とある。註を入れると、“中村さん”は近くのジャズ喫茶[コロニカ]のマスター。ジャズと冷し中華の運命的な出会ひが記されてゐるわけだが、残念なことにこの[呑竜]で山下が喰つた鹿児島式冷し中華がどんなだつたかまでは判らない。何しろ薩摩だもの、黒豚と薩摩揚げは欠かせなかつたんぢやあないかとか、焼酎に適ふたれの味はどんなだらうとか、色々想像が膨らむけれど、註文したら案外と当り前の仕立てかも知れず、早い話が行つて喰つてみないと謎は解けない。博多でも呉でも高松でも米子でも神戸でも名古屋でも金沢でも宇都宮でも郡山でも米沢でも盛岡でも弘前でも小樽でも行つて喰はなくちやあ判らないのは同じ事情の筈で、(厭な言葉だが)複数の町が手を組めば、地域興しの種になりさうな気もされる。たとへば延岡で冷ツ汁風、氷見で蛍烏賊、松本で味噌、水戸でトマト、さういふ工夫があれば、中には首を傾げる結果になるかも知れないけれど、冷し中華は夏の豊かな食事に繋がるんではなからうか。だとしたら、あの“冷し中華、始めました”の幟はその象徴になる。

070 本の話~バイブル

文章読本

丸谷才一/中公文庫

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  bibleを単純に翻訳すると“本”の意味になるさうで、頭のbを大文字のB…即ちBibleにすると、キリスト教の『聖書』に意味が転ずる。頭文字が大文字か小文字か、定冠詞がつくかどうかで意味するところが異なるのは、どうも我われには理解しにくいが、欧米の言語はさういふものと諦めるしかない。かう文句を云つてからつけ加へると、カタカナ言葉のバイブルは更に広く、貴女やわたしにとつての“欠かせない本”といふ意味合ひを持つ。欧米人には失礼だつたか。讀書は一種の惡癖なのは改めるまでもないとして、その惡癖に浸つたひとには、一冊か二冊、さういふ本があるにちがひなく、わたしの場合はそれが『文章読本』に当る。

 同じ題名の本は異なる筆者の手になつてゐる。一ばん有名なのは谷崎潤一郎でせうね。中公文庫に収められてゐた時に一度讀んで、最近になつて新潮文庫で『陰翳礼讚』と合本された(實に贅沢な組合せではありませんか)のを讀み直した。三島由紀夫も書いた筈だし、丸谷の後には井上ひさしも書いてゐる。似た趣向まで含めると“文章読本”は幾らでも挙げられさうで、併し讀むに足る内容がどれだけあるかどうか。大谷崎や井上は兎も角、怪しいものだと疑念を呈せざるを得ない。だつて“文章読本”なのだもの、その本の文章が優れてゐなければ、何の為の“文章読本”といふ題なのかと云ひたくなつてくるでせう。さう考へると、この題で書かうとするのは、可也りの度胸を要することにちがひないのがよく判る。

 併し“文章読本”なら、文章の書き方指南なのだから、何人もが何冊も書く必要はないだらう。さう考へるのはあながち誤りとは云ひにくい。その一方で言葉も文章も、時間と共に緩やかな変化をするものだから、我われが生きる…詰り文章を書く時代に相応しい“文章読本”があつて然るべきだと考へることも出來て、わたしはこちらに与する。そして変化をするとしても、言葉や文章はその変化そのものを承けて用ゐられる(もつと簡単に“伝統に基づくのだ”と云つてもいい)のだから、我われの時代の“文章読本”は、過去を十二分に尊重した内容でなくてはならない。さう考へるとこの丸谷版『文章読本』の偉容と異様が浮んでくる。どこがどう偉容で異様なのかはこれから書くが、わたしは書評家ではない。個人の感想の範疇を出た評論にはならないので、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏には予めご理解をお願ひしますよ。

 

 この本の第三章は“ちよつと気取つて書け”と題されてゐる。前段(第一章と第二章)では、総論と基本中の基本、即ちよい文章を書く為の大前提は優れた文章を讀むことだといふ指摘が具体的な引用と共に記してあつて、これだけでもすこぶる示唆に富んだ内容となつてゐる。ことに第一章は谷崎版読本を

「巨匠の藝談、初心者に与へる適切な忠告がたつぷりと語られる合間に、ふと、現役の藝術家の危険な願望、無謀な野心が打明けられ(中略)うつかりしてゐたのでは何となく読みすごし、さらには、さすがに大したものだなどと感心さへするやう」

と批評しつつ、文豪がかういふ本を書いた…書かざるを得なかつた事情を我われに説明してゐて、これ自体が一篇の評論になつてもゐる。

 さういふ前段を経て、第三章から文章を書く上での才覚や心得、秘訣が惜しみなく語られるのだが、その事實上の冒頭の題で丸谷は、あつさりと才覚乃至心得乃至秘訣を明かしてゐるから、驚いて仕舞ふ。極論すれば第三章以降で書かれるのは“気取り方”の工夫で、それらはきはめて具体的に…もつと云へば病的と云ひたくなる執拗さで示されてゐる。具体的と云ふのは引用の多さで、谷崎潤一郎は勿論、志賀直哉石川淳佐藤春夫永井荷風折口信夫森鴎外田村隆一吉行淳之介夏目漱石柳宗悦と文字通りの百花繚乱に加へて、世阿弥荻生徂徠鴨長明、『古事記』に『伊勢物語』に『玉勝間』と一部を抜き出しただけでも、溜め息すら出ない豪奢さではないか。

 引用と丸谷の藝が鮮やかに絡んでゐるのは第九章“文体とレトリック”だらうか。井上版讀本で絶讚されたのがこの箇所。大岡昇平の『野火』とシェイクスピアだけでレトリックの技法と實際を解き明かすのだから、あのレトリカルな戯作者が昂奮しなかつた筈はないよ。併しわたしが感嘆したのは第四章“達意といふこと”で、その冒頭は

「しかし文章の最も基本的な機能は伝達である。筆者の言はんとする内容をはつきりと読者に伝へて誤解の余地がないこと。あるいは極めてすくないことが、文章には要求される。何よりもさきに要求される」

異論を許さない口調で断定する。そして

「どんなに美辞麗句を並べ立て、歯切れがよくても、伝達の機能をおろそかにしてゐる文章は名文ではない。駄文である。いや、文章としての最低の資格が怪しいのだから、駄文ですらないと言ふのが正しいだらう」

と痛烈に念を押す。一体にこの本の筆者は評論でも随筆でも、烈しい言葉遣ひを避ける…レトリカルな皮肉に転化することが多いから、何故だらうと思つてゐると、“伝達の機能”の例として大日本帝國憲法と日本國憲法を比較してくる。驚かされましたね、これには。非常に微妙な材料ではないか。さう感じつつ頁を進めると、矢張り大日本帝國憲法への批判が厳しい。但しその峻烈さは“勿体ぶつてゐて曖昧模糊”な文章に対してである。その一方で日本國憲法を“運動神経のない優等生が厚着したやうなモタモタ口調”に頭を抱へながらも、“下手であつてもとにかく”文章なのだと云ふ。これもまた痛烈で、政治的な色あひを打消すのは流石に無理があるとしても、確かに憲法といふ文章の持つ特異な役割を思へば無理はないし、達意といふ文章の“最も基本的な機能”について考へる時、憲法の條文ほど適切な題材も見当らないだらう。美事な視点と云はなくてはなるまい。いやこれは第四章を讀んで気がついた…實はおれも前からさう思つてゐたんだといふ気分にさせられるのは、丸谷の文章を讀んで屡々経験する…ことなのだけれども。

 

 併しここまでは偉容の部分である。ここからは異様の箇所についてで、谷崎版にも井上版にもない特色でもあるのだが、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏には前段に挙げた引用された作家群に念の為、目を通してもらひたい。宜しいですか、進めますよ。この豪華絢爛な文章群を丸谷はただの例示で終らせない。言葉遣ひ、文字の撰び方、比喩の用ゐ方、構成の作り方…詰り文章の書き方を丁寧に讀み取り、時に平然と感嘆の聲を洩らす。たとへば内田百閒の『蘭陵王入陣曲』(百閒らしい愉快な戯文)を引いた後に筆者は云ふ。

「小児語の特徴であるオノマトーピアがしきりに用ゐられるのは必然性があるのだが、それだけではなく、オノマトーピアの幼稚さと充分に釣合ひが取れるだけ、張合へるだけ、それ以外の語彙を取合せてゐるところがすごい」

我われにオノマトーピアの濫用を戒めつつ、凄いすごいと驚き且つ歓んでゐる。或は石川淳の『小林如泥』の剛直な一文を引いて

「ただ感嘆するしかない達人の藝」

と讚辞を呈してから、大急ぎで“のんびりと鑑賞に耽つてゐる余裕はない”とつけ加へる。かういふ例はこの本に幾らでもあつて、貴女もわたしも、“文章読本”といふ何やらもの堅いお勉強の本を手にしてゐるとは思へなくなる。寧ろここにゐるのは無類の讀書好き、讀み巧者で、優れた本…文章の紹介に熱中出來る人物で、その紹介がきはめて緻密且つ論理的だつた時に、かういふ一冊が成り立つのではないかと云ひたくなつてくる。

 極端な話をすれば、丸谷版『文章読本』は丸谷の文章を抜きに引用された文章だけを讀んでも、満足に値するにちがひなく、わたしの知る限り、これほど豊かな引用を散りばめた“文章読本”は外にない。あの膨大な讀書量を誇つた井上版読本にもかういふ花やかさは見られなくて(ただ井上版の引用にはキャバレーの求人や新聞記事、建賣の広告など、お祭りのやうな賑やかさがある。あの獨創的な作家が、引用に当つて、丸谷版を意識しなかつただらうか)、この豪華は丸谷版の獨壇場と云つていい。きつと丸谷が期待したのは第二章で指摘した“名文を讀め”の實践だつた筈だが、その意図はおそらく本人の期待以上に効果的だつた。引用と共に書かれた文章は、作文の技術に関はる話なのに、一種の書評ともなつてゐて、さうならざるを得ない面は確かにあるのだが、それ自体を樂しむといふ讀み方が成り立つて仕舞ふ。そこに気がつけたのは耻づかしながら、最近の話。その瞬間から丸谷才一の『文章読本』は、わたしにとつて二重の意味を持つことになつた。即ち

 

 文章を書かうとする時に讀む本

 文章を讀まうとする時に開く本

 

で、前者は本來の目的だから兎も角、後者は莫迦げてゐると云はれるか知ら。併し編輯者がこの本を一種の讀書案内の役割を果すと考へただらうとは容易に想像される。主な引用元の一覧を巻末に用意したのが何よりの證拠で、それは正しくまた丸谷の“名文を讀みなさい”といふ主張にも合致する賢明な判断でもあつた。

 ここで念を押す必要があるのは、“文章読本”には色々な在り方が許される。小説前提は勿論、論文に特化したり、或は恋文の為の“文章読本”だつてあり得るわけだが、たつたひとつ、すべての“文章読本”に欠かせない要件があつて、云ふまでもなく、その“文章読本”自体の文章が優れてゐなくてはならい。仮にまつたく引用を用ゐなくても、ロジカルにレトリカルに、適切な言葉と文字で書かれた“文章を書くことについての本”(併し成り立つのか知ら)ならば、“文章読本”の冠は許されるだらう。そこで丸谷才一の『文章読本』を考へるに、溢れるやうな引用は確かにある。但し受けて立つ文章も第一流…ロジカルでレトリカル、且つ随筆に較べると少ないがユモアにも富んでゐて、もし理窟を解するのが六づかしくても、じつくり讀めば丸谷の文章自体が優れたお手本になのだと気がつくにちがひない。時間を掛けて繰返し讀むに値する本は世の中にさう多くはないけれど、この本はその名誉に相応しい。

069 ヰスキィの希望

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 ウイスキーではなくヰスキィと書くのは内田百閒の眞似である。whisky乃至whiskeyの綴りを日本語に移すにあたつてどちらが適切か、の判断は我が親愛なる讀者諸嬢諸氏に委ねるとして、頭文字がwの点から考へると、百閒式の表記の方がわたしとしてはしつくりくる。

 そのヰスキィを普段はあまり…殆ど呑まない。蒸溜酒が苦手なのではなく、呑めば旨いと思ふし、同じ括りの(黒糖)焼酎や泡盛だつて矢張り旨い。併し焼酎や泡盛、或はウォトカも含めていいが、日常の中で呑みたいとは感じにくい。今夜はヰスキィの気分である、と明瞭に意識しない限りは。

 理由ははつきりしてゐて、わたしはつまみ抜きで呑めないんである。我われの周辺にある食べものをざつと眺めると、基本的にはお酒に適ふのだなと直ぐに解るでせう。後は葡萄酒が精々でこれは別に我が國の食べものが惡いのではない。要は醸造酒が我が國の酒精の眞ん中にあつて、食べもの…つまみがそれに適ふ形で發展したのは当然といふ話になる。焼酎泡盛ならそれでも樂、が妙ならどうにかなつて、臓物の煮込みや角煮、薩摩揚げを思ひ浮べれば納得してもらへるでせう。

 ではヰスキィに適ふ食べものは何があるか。残念ながらスコットランドにもアイルランドにも知人がゐないので、断定するのは宜しくないとは思ひつつ、併し事實上ないのではないかとも云ひたくなる。乏しい想像力を働かせても、牡蠣や鰯のオリーヴ油漬けにスモークト・サモン、後はナッツ類かドライ・フルーツ、チョコレイトくらゐしか出てこない。もしかするとアイリッシュ・シチューも似合ふかも知れないが、繰返すとアイルランド人の知合ひはゐないから、眞實は曖昧なままである。

 但しこれはヰスキィが駄目な酒精なのだといふ證にはまつたくならなくて、寧ろヰスキィはつまみを積極的に求めないのだと解釈する方が實態に近いのではないか。吉田健一はお酒…日本酒を

「つまみが要らず、ひとつの銘柄だけで呑める」

と云つてゐて、反論はしにくいけれど、矢張りお酒には何かしらの肴が慾しい。葡萄酒も同じでそれだけでも構はないが、そこには微妙な(ひとかけらのチーズやハムの切れ端くらゐ、あればなあといふ)気分が潜んでゐる。ヰスキィだとつまみがあればあつたで構はないよといふ気分が色濃く感じられる。

 鼻を擽る香り。

 舌触り。

 喉への滑り具合。

 奥から立ち上る香り。

 酒精の味はひは要するにそれらの組合せで、ヰスキィの場合、それぞれのピースの主張が際立つてゐる。スコッチでもアイリッシュでも、癖のきつい演奏家で編成されたオーケストラのやうなもので、それらを愉しむのに他の味は邪魔なのではないか。想像の域を出ない話だから、信用されてはこまるけれど、的外れでなささうな気もする。それで的外れでないとしたら、ニッカにしてもサントリーにしてもキリンシーグラムにしても、賣るのは六づかしからうね。何しろ我われのご先祖はお酒をお酒だけで呑む習慣を持つてゐなかつたもの。吉田流に逆らふことになるが、肴…つまみがあつて成り立つ酒精に馴染みきつた(お客が一緒になる舞台のやうに)ところに、いきなり(時間的な経緯を考へればさう云つていい)つまみ抜きで呑めるんだよとヰスキィを出されても、困惑するしかないぢやあありませんか。

 本当にさうか知ら。

 果して、と蒸溜所のひとが考へたかどうか。どうもそこは怪しいとして、賣る側は考へたでせうね。ソーダ割りに唐揚げだつたか、さういふ広告を目にした記憶があるし、水割りやソーダ割りの罐入りを用意したのは、罐麦酒や酎ハイのやうに呑んでくださいなといふ気分の顕れと思へる。その気分は判らなくもない。酒精と食べものの繋がりは地域や気候や作物に密接してゐて、詰り文化である。新参の酒精にこちらの口をあはすわけにはゆかないもので、さうなると原産地式を丸々入れるか、我が國の習慣に寄せるかの撰択が迫られる。原産地式を好もしいとする態度が本來ではあらうが、蒸溜所としてはさうも云つてゐられない事情があるにちがひない、といふのは容易な想像でせう。本格を志向しながら、変格に目を瞑れないのは複雑な心情だらうな。

 さうなると本格のヰスキィでうまいつまみをやつつけるのは不可能なのかと疑問が湧いてきて、原則はさうだねと応じなくてはならないのだが、抜け道がひとつ考へられる。日本の小さな蒸溜所を探すことで、これは期待が持てる。手広く賣らなくていい分、日本人の呑み方や地元の食べものを意識した蒸溜…焼酎や泡盛に近しい…が出來るだらう。少なくともその希望は持つていい。輪郭ははつきりしてゐながら、穏やかな表情(旧い日本人のやうに)のヰスキィを嘗めつつ、辛子をきかせた豚や苦瓜のピックルスをつまめる夜がやつてくれば、我われの酒席はきつともつと豊かになる。