閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

111 めくもの

 時々思ひたつて立ち呑み屋といふ場所に行く。大久保のPとか、中野のP(頭文字は同じだが無関係)やA(ここは葡萄酒専門とヰスキィ専門の二店がある。別名で麦酒のお店もあり)、或はK(焼酎の前割り…二、三日前から甕で水割りにしておいたやつで、所謂水割りより口当たりが滑らかである…を呑める)辺り。新宿にも気になるお店はあるのだが、そこはまだ行つたことがない。足を運んだお店はいづれも中々うまいと書くと、我が若い讀者諸嬢諸氏は首を傾げるだらうか。

「立ち呑み屋つて、鼻の頭の赤い小父さんが、廉な芋焼酎のお湯割りを舐めながら、煎りつけた蒟蒻をつまんでゐるやうな場所でせう」

なんて、古めかしい印象だらうか。…まさか、ね。わざとらしい“昭和ノスタルジー”映画ぢやああるまいし。さういふ小父さんが呑み屋街にゐないとは云はないけれど、上に挙げた立ち呑み屋では見掛けたことがない。単にわたしが幸運だつただけの可能性は一応、否定しないでおく。それに芋焼酎のお湯割りに煎り蒟蒻だつて、惡い組合せではないでせう。

 ところでわたしが属するニューナンブでは、立ち呑み屋を訪れたことはない。主な理由として、ニューナンブはじつくり二時間、お酒と莫迦話を樂しむのが流儀だから、詰り立ちながら呑むには不向きである。それに立ち呑み屋に行くなら獨りか精々ふたりが限度でもある。ああいふお店は大体、十人か詰めて十五人くらゐしか入れない。そこに三人四人で押し掛け、だらだら呑むのはお店とお客に迷惑な態度だし、また野暮な態度でもある。余程馴染めば、多少の我が儘も許してもらへるかも知れないが、立ち呑みは三杯、長くても一時間以内にお勘定をしてもらふのがいい。恰好をつけた話でなく、それくらゐで丁度いいのが立ち呑み屋といふ場所なのだといふことは、知つておいて、損にはならないと思ふ。但しさうなると、何を呑み、また何をつまむかが問題になつて、お腹の減り具合、この後どこに足を運ぶか(当然そこでも呑み且つ食べる)を考慮しなくてはならず、たとへばフィッシュ・アンド・チップスがあるとして、それが如何に旨さうでも、次にIPAを呑まうと思つてゐるなら、控へておく方がいい。詰りそれだけ旨さうな…旨いつまみものが、幾つか、或は幾つもあるのが立ち呑み屋なんである。

 「すりやあ何だか」と妙な顔つきになるひとが出てきさうで「落ち着かなくていけないなあ」

といふ気持ちは判る。併しぜんたい何べんか失敗すれば(それくらゐの手間は惜しんではならない)、どこの立ち呑み屋は何が得意かといふのは、漠然と掴めてくる筈で、たとへば上のお店で云へば、葡萄酒のAでシェリーとピックルスかハムをつまんでから、Pに移つて獨特の酎ハイか濁り酒を呑みながら、餃子だつたり、ちよつとした炒めものを頼む。これくらゐでお腹は落着き、いい具合の醉ひ加減にもなるだらうから、ここからは坐れるお店にすればよく、臺灣居酒屋でも沖縄居酒屋でも、思ひ切つて気にはなつてゐたが、入りにくいと思つてゐたお店でも好きに撰べば、夜は満足に到る筈だ。それで、と續ければ、前回の[110 波頭]の續篇になりさうで、實は少し、それを考へもしたのだが、同じ伝を二回續けるのは、幾らわたしが図々しくても気が引ける。それに最近はさういふ呑み歩きをしてゐないから、書きにくい事情も實はあつて、この稿は前回の贅言めくものなのだなと、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏には、考へて頂きたい。

110 波頭

 最近は控へ気味になつてゐるが、獨りで呑むことがある。外での話。外で獨りで呑むなんて勿体無いだけだらうと思ふひとがゐるかも知れず、さういふひとはそもそも呑むことに縁が遠い。何の準備も要らないし、片づけをしなくてもいいのは助かるし、それで旨い酒精とつまみにありつけるのだから、こちらとしては有り難い。尤も何の準備も要らないと云ふのは、もしかすると多少の修正が求められるだらうか。詰りお財布…お財布の中身の問題がさうで、併し家で酒精とつまみを用意するのにもお財布の中身は必要だから、特有の問題ではないことにする。かう云ふと今度は、獨りで呑んで樂しいのかなあと疑問の聲を挙げるひとが續くにちがひなく、さう訊かれたらわたしは樂しいよと応じたい。わたしの場合は、と念を押しておく方が宜しからうが、こんな時に外の基準などありはしない。そこで獨りで呑むのはどんな気分かと訊かれさうだから云ふと、どんなもこんなもなく、ただ呑む。偶に薄い文庫本を持ち込み、呑みながら讀んだりもするが、大体は頭に入らないから、途中で鞄にしまひこむ。なので持ち込むのは、頭に入らなくてもかまはない随筆がいい。ここで斎藤緑雨薄田泣菫の名前を挙げるのは非礼だらうか。併し再讀に値する作家だから、一ぺん試すのも惡くない筈である。ただどちらにしても、呑み屋の卓子で優先されるのは酒精とつまみだから、泣菫がジョイスやドストエフスキィであつても、序盤で鞄にはふり込むのは変らない。

 それでたとへば東中野のUといふ店なら最初は麦酒にする。サッポロの赤星があるから、それにもつの煮込みやポテトサラドをあはせて、何を食べ且つ呑むかを考へる。Uなら串焼きが旨い。ハラミやカシラを焼いてもらふ。赤星のお代りは多いので、空になつたらホッピーに切り替へる。この辺りまでは註文する時以外に聲は出さない。外にもお客はゐて、店員も賑やかに註文を請け、さあどうぞと運び、あちこちで乾盃の聲も挙がるから、寂しくもなければ退屈もしない。仮に寂しかつたとしても、それはそれで獨り呑みだから、気にしなくてもいい。カウンタにはわたしと同じ、獨り呑みをしてゐるひともゐて、稀に十年前なら妙齢と呼べるお嬢さんを見掛けることもある。さういふ時は、やるねえと思ひながら、何をつまんでゐるのか、こつそり眺めたりもする。話し掛けたりはしない。ふと見るとじやこ天のお皿がそこにあつて、こちらとしては気にせざるを得ない。わたしのご先祖は伊豫新居浜の人間で、あすこのじやこ天はまつたく旨い。さうなると註文したくなつて、それだとホッピーは格があはないから、お酒にしなくてはならず、ここでやつと、お店のひとに聲を掛ける。じやこ天をつまむから、お酒が慾しい。何がありますかね。それで淡泊だつたり濃厚だつたり、兎に角お薦めを教はつて呑む。たとへば[鳳凰美田]に[一白水成]だから、改めるまでもなく旨い。[梅錦]や[石鎚]といつた伊豫の銘柄があれば、万全と云へるだらうが、二はいも呑めば十分である。

 そろそろお勘定をしてもらはうかと考へると、カウンタが様変つてゐた。何がをかしいと思へたので、周りを見渡すと、何故か中野のKにゐた。ここは黒糖焼酎泡盛が旨い。気分が変るとまた呑める積りになつたので、お任せで黒糖焼酎の水割りを頼んだ。チリー・ビーンズのつき出しが用意されて、それをつまみながら、水割りを呑んでゐると、顔馴染みのお客がやつてきて、途端に賑やかになつた。かういふのを獨り呑みと呼んでいいのかどうかは判らない。お客はそれぞれ獨り呑みだから、一匹狼の大群といつた気配が濃いめである。一匹狼の大群を實際に見たことがあるわけではないから、正しい譬喩なのかどうか。尤もさういふ思考より、黒糖焼酎とチリー・ビーンズの旨さが優先されるのが酒席といふ場所で、結局その疑問は水割りと一緒に呑み干した。呑み干した以上、お代りが必要になるのは当然の帰結で、これはまつたく論理的だなあと自讚しつつ、またお任せで水割りを頼んだ。序でにがしや豆といふのを追加した。落花生に黒糖をまぶしたおやつのやうな食べものだが、黒糖自体が主張のうすい甘さな所為もあるのか、焼酎や泡盛に似合ふ。もしかしてヰスキィにも適ふかも知れない。Kには[マルス]といふ國産ヰスキィがあるのだが、またこれは中々うまい銘柄でもあるのだが、がしや豆とあはせた記憶はない。さう考へたら何だかひどく損をした心持ちになつてきて、そんならその場で[マルス]を呑めばよかつたのかも知れないが、黒糖焼酎泡盛とヰスキィは同じ蒸溜酒でもちがふ飲みもので、前者は食べものを求めるが後者はさうでもなく、ひよいと切り替へるわけにはいきにくい。今は南國の気分で呑んでゐるのだから、南國の酒席を味はふのが好もしい態度だし、夏は厭なものだが、南の國は旨いから話は別だと思つた。

 そんなことを思つてゐたら、何となく飛行機に乗つた気持ちになつて、航空券を買つた筈はないのだから妙だなとも思へたのだが、乗つた気持ちだけなら請求もされないだらうと決めつけた。窓の外を眺めたが、冥い波の頭が時折り、月の光に照らされるくらゐで、その光る波頭は温かさうであり、氷のやうでもあり、兎に角旨さうだつたから手を伸ばしてふたつみつ、つまみ取つて口に含んだら、温かいのか冷たいのか、堅いのかやはらかいのか判らないが、思つたとほりに旨かつたから嬉しくなつた。喉から胃袋に滑り落ちる間に、麦酒やお酒や焼酎の醉ひをとろかしたやうで、ああまだ呑めるなあと安心したところで着陸したらしい。何故さう思つたかといふと、ひどく静かなお店のカウンタに坐つてゐたからで、併しぜんたいどこなのか。構へから察してどうも和風の肴をつまましてくれさうな感じがする。青菜と油揚げをさつと焚いた小鉢が出てきたので、着物をきちんと身につけた女将さんに、何か焼きものとお酒を頼みますと云つたら、[鳳凰美田]はどうでせうかと奨めて呉れたので、栃木に着陸したのかも知れない。冷した硝子の徳利に入つた[鳳凰美田]は實にうまくて、気がついたら出てゐた焼き肴もすつかり平らげてゐた。ああ、かういふ呑み方もいいものだ。賑々しいお店で呑むのもいいけれど、と思つたところで、いきなりカウンタが賑々しくなつたから驚いた。

 周りを見渡して、お客の聲を聞くと、行つたことのない臺灣のやうでもあるが、品書きに書かれてゐるのは青梗菜の炒めものとか、豚肉と白菜の旨煮とか、わたしにも讀めたので、臺灣でも日本でもいいやと決めた。何を呑むのがいいか、見当もつかなかつたけれど、賑やかなお客がゐるのだから麦酒にした。日本語だか臺灣語だかたれかが話し掛けてきたので、何やかやと応じると、カウンタで爆竹がはぜるやうな笑ひ聲が響いて、いい気分になつた。それで麦酒だけでは詰らなくなつたから、百合根のカレー炒めとトマトと玉子の炒めものといふのを註文した。どちらも麦酒に好適で更にいい気分である。そこで麦酒のお代りを空にしてから、紹興酒にしたところ、燗酒に使ふ徳利に入れて出してきた。日臺友好なのだなあと感心したが、単に臺灣風の徳利が見当らなかつただけかも知れない。些末に気を取られても仕方ないので、からから笑ひながら、お皿と徳利を空にすると、Uの店員がにこにこしながら、こちらに勘定書を出してきてゐた。[一白水成]はすつかり呑み干し、じやこ天のお皿も空であつたが、黒糖焼酎や[鳳凰美田]やトマトの炒めものがどうなつたか、曖昧なまま、お勘定を済ませた。帰り路、空を見ると月がぽかんと浮いてゐて、あの欠片を波頭にまぶしたやつを、もう一ぺん食べるにはどうすればいいのだらうと思つた。

109 取敢ず乗せてみる

 今の丼めしの原型は鰻の蒲焼きに辿り着けるさうで、正確に云へば、蒲焼きを持ち帰る時の工夫だつたといふ。即ちお重に熱くしたおからを詰めたのを用意し、そこに蒲焼きを埋めさした。この場合、おからは保温剤の役割を果した筈だが、そこには蒲焼きのたれがたつぷり、染み込んでゐたにちがひなく、それを食べない法があるものだらうか。きつとそこ…おからも旨く食べられるところまで考へた工夫に決つてゐて、巧妙と云はなくてはならない。

 「そんなら」と、ここで喰ひしん坊のたれかが考へたのは疑ひの余地がなく「めしに乗せても旨いんぢやないか」

 その喰ひしん坊がお客だつたのか、鰻屋の若い衆だつたのかはどうでもよくて、ただ丼めしはかうして誕生した、と想像するのは妥当なところでせう。さう思ひつつ、気になるのは、鰻丼…鰻めしの後を受けて登場した丼めしが何かといふ点で、これが全然わからない。天丼やかつ丼でないのは確かだと思ふ。揚げものはたつぷりの油と強力な炎が不可欠でだから、明治以前の町なかで提供するのはほぼ不可能だつた筈だ。親子丼のやうな卵とぢもちがふだらう。玉子はどちらかと云へば、滋養の為の特殊な食べもの…いはば贅沢品だつたから、丼めしのやうに気らくな食べものには使へなかつたにちがひない。

 そこで、鰻に續いた種ものは何だつたのだらうといふことが気になる。当り前にあつて、気がるにごはんに乗せても不自然でないもの。そこで考へられるのは鮪である。正確には鮪の醤油漬け。さう考へる理由は単純で、早鮓に用ゐられたからである。もうひとつ云ふと、ねぎまといふのもある。焼き鳥を連想されては困るので、この場合のねぎまは葱鮪と書く。鐵鍋で鮪と葱を焚いたもので、肴になりさうだが、肴になるならごはんにも適ふ。要するに鮪(この場合は赤身)とごはんは相性がいいと、我われのご先祖は知つてゐた筈で、それを丼めしに乗せてみるかと、たれかが思ひついても、不思議ではないと思はれる。たた現代の我われの目の前にさういふ丼ものが殆ど見られないのも事實で、辛うじて鮪(漬け)丼はあるけれど、大きく見れば受け入れられなかつた。丼もののごはんは熱いのが基本だから、生魚が適はないのは当然の結果であるか。

 記録にも記憶にも残らない数多くの失敗があつたのは、歴史の必然だから、嘆く必要はない。大事なのは我らが喰ひしん坊のご先祖が

「目新しい食べものは、取敢ず、ごはんに乗せて食べてみる」

といふ方法論を見出だした点で、これを“方法論”と呼ぶのは大袈裟だらうか。とわざわざ書くのは、わたしがさう思つてゐないからで、何故なら我われは今、丼めしを大きに好んでゐるでせう。既に挙げた天丼やかつ丼、親子丼だけでなく、牛丼にかき揚げ丼(これは天丼と峻別せねばならない)、他人丼に豚丼に焼き鳥丼、カレー丼、中華丼に麻婆丼、海鮮丼、しらす丼、鮭といくらの親子丼、唐揚げ丼、ロコモコ丼にロースト・ビーフ丼。涎を我慢するのがたいへんなものがあれば、頚を傾げたくなるものもあるが、どの組合せが望ましかつたかは、半世紀くらゐは待たなければ判らないだらう。これは正しい意味で、歴史の審判なんである。

 かういふ応用力の高さは、ごはん(もしかするとジャポニカ種特有かも知れない)の特典ではなからうか。パンの応用力も、侮り難いのは認めるのに吝かではないとして、同じ土地の食べものでなければ、適ひにくさうに思はれる。たとへばフランスのバゲットアメリカの煮込み豆が似合ふだらうか。ロシヤの黒パンにギリシアのオリーヴが似合ふだらうか。さう考へると、欧州人が

「取敢ず、パンに挟んでみる」

といふ發想に到らなかつたのも、むべなるかなと云ひたくなる。中東に鯖のサンドウィッチがあるぢやあないかとの指摘には、何事にも例外はあるものだと応じるに止めるが、さう云へば鯖の丼つて、あつただらうか。わたしはキヤベツを乗せた丼めしに味噌煮罐を打掛け、生姜と刻み葱をどつさりと温泉卵(少量の麺つゆがあつてもいいだらうか)で食べるのを好むのだが、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏にも、“取敢ず、乗せて”みたら旨かつた丼めしはあるに相違なく、それがどんなものか、不意に気になつてきた。

108 最小構成

 パーソナル・コンピュータで“最小構成”といふのがありますな。CPUとメモリとドライヴ容量なんかの組合せ。大体の場合、どこかしら物足りなさがあつて、あれこれ撰ぶうちにいつの間にか、高額になつて仕舞ふ、困つた仕様のこと。併し最小構成であつても使へなくはないわけで、用途によつては、それで十分間に合ふことも考へられる。詰り用途次第の冠が必要になる場合も認めつつ、パーソナル・コンピュータがパーソナル・コンピュータとして成り立つ必要條件が、“最小構成”と考へていい。

 いきなり[閑文字手帖]らしからぬところから話を始めたのは、食べものにもさういふ“最小構成”があるのではないかと思つたからで、たとへばスパゲッティならバタと削りチーズで最小構成は満たされる。蕎麦や饂飩なら葱があればよく、ソース焼そばだと豚肉の細切れにキヤベツと紅生姜、冷し中華の場合はハムと胡瓜と錦糸玉子が相当する。ここまで考へて不意に、ラーメンの“最小構成”は何だらうと気になつた。…と書けば、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏には呆れられるかも知れない。以前から散々、ラーメンの格の低さを書き散らして、今さら、ラーメンの最小構成を気にするのですかねえ、なんて云はれるかも知れない。まあそれはさうで、ラーメンが格の低い麺ものと云ふ見立てを訂正する積りもないのだが、気になつたのは仕方がない。

 ラーメンの原型くらゐになる麺ものを食べただらう、おそらくごく初期のひとが徳川光圀朱舜水が用意したといふ。この朱先生は明末の儒者。異民族王朝の清から日本に逃れ、水戸徳川家の招聘を受けた。そこで光圀公に献じた麺ものが、日本初のラーメンといふ説がある。尤も再現されたものの寫眞を見ると、汁麺に香辛料や藥味の小皿が何枚も添へられたお膳で、これをラーメンと見るのはちよつと無理がありさうである。それに儒者である朱舜水が、ラーメン…明代の汁麺料理に果して通じてゐたのかどうかと思ふと、怪しいなあと呟きたくなる。尤も光圀には、手打ちの饂飩だかを、家臣に振舞ふ惡癖があつたといふから、明に麺ものがあると知れば、興味は示した筈で、ラーメンかどうかはさて措き、水戸の藩主が我が國で一ばん早い時期に、中華麺の汁ものを食べたと云ひなほせば、一応の話は通じることになる。

 では現代に繋がるラーメンはいつ頃、出來てきたのかと云ふと、十九世紀末から二十世紀初頭まで待たなくてはならない。開國して清人が横濱辺りになだれ込んできたのが、どうも切つ掛けであるらしい。舜水先生には残念な結果であらう。但しその明治ラーメンに、何が使はれたか、よく判らない。ざつと調べた限りでは、叉焼に支那竹、それから葱だつたと思はれる。成る程、説得力がある。と云ふのは、さういふラーメンが出てきたら、納得して仕舞ひさうだからで、仮に支那竹に代つて煮玉子が、葱の代りにもやしが乗つてゐたら、きつと釈然としないだらう。焼海苔や若布、なると、コーンなどはなくても困らないし、わたしの好みからすると、寧ろ積極的に邪魔だと云ひたくなる。

 そんなら叉焼と支那竹と葱の三点で決めていいだらうか。叉焼だけ、支那竹だけ、葱だけは流石に最小構成とは呼び難いとして、叉焼と支那竹か叉焼と葱、または支那竹と葱の組合せならどうか知ら。叉焼と葱、支那竹と葱なら何とかなりさうな気もされるけれど、ラーメン愛好の讀者諸嬢諸氏の賛同を得られるかどうかと云へばどうも自信が持てないし、實際のところ、品書きに書かれてゐるのが、叉焼葱ラーメンや支那竹葱ラーメンだつたら、註文は憚られる気分にもなる。なのでこの稿ではラーメンの最小構成は、叉焼に支那竹に葱だと、一応の結論を出しておく。一応と念を押すのは、ここで云ふラーメンは東京風の鶏のがらでソップを取つた醤油ラーメンだからで、味噌ラーメンや塩ラーメンの最小構成は別であらうと思はれる。では味噌ラーメンや塩ラーメンの最小構成は何かといふ疑問が出てくる筈だが、そこまでは触れない。

107 推測玉子

 玉子丼はうまい。

 甘辛く、やはらかく、あんなに丼めしに適ふ種もないんではなからうか。

 下品かなと思へる程度に濃いめのお出汁で、刻んだ油揚げ、蒲鉾、青葱に玉葱を焚いて、溶き卵でとぢる。それを素早く丼めしに盛つたら、仕上げに三ツ葉を散らす。要はこれだけで、出來れば大振りな木の匙があれば、週末の午后に似合ひの食事が完成する。

 だつたら鶏肉を入れて、親子丼にすれば、もつといいよねと聲が上がるだらう。それはまあ、その通りかも知れないが、この稿で取上げてゐるのは玉子丼なので、鶏肉に入つてこられると具合が惡い。第一、親子丼と云つても、卵が親なのか、鶏肉が親なのか、はつきりしないのは困る。今回ははつきり、卵を主役にしたいから、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏には申し訳ないと思ひつつ、親子丼には目を瞑る。併し両目を瞑るわけにはゆかない。何故かと云へば、玉子丼がいつ頃、登場したのかといふ疑問が浮ぶのは当然の筈だし、さうなると親子丼を無視出來ないんである。

 そこでざつと確かめると、どうやら東都は日本橋の[玉ひで]を源流としてほぼ、誤りではなささうに思ふ。その[玉ひで]の“親子丼誕生物語”によると

http://www.tamahide.co.jp/gansooyakodon.html

軍鶏鍋の〆に肉と割下を卵でとぢて(これを“親子煮”と称した)ごはんのお供にしたお客に發想を得て、盛り切りの丼で供するようになつたのが始りだといふ。これが明治二十四年辺り。岸田劉生の生年でもある。この岸田劉生の親爺が岸田吟香といふ實業家。以前にもこの名前に触れた記憶があるが、我が國で卵かけごはんを愛好したごく初期の人物である。食べだしたのは明治十年頃だといふから、西南戰争の頃ですね。生卵の衛生はどうだつたのか知ら。因みに吟香の歿年は明治三十八年。[玉ひで]から親子丼の出前を取つた可能性はあるだらう。尤もかれが卵かけごはんに熱中し、周囲にも勧めたのは、旨いまづいより、滋養強壮の効能ゆゑの気配があるから、日本橋の新名物には興味を示さなかつたとも考へられる。

 吟香でも親子丼でもなかつた。話を戻す…前に、今一度、“親子丼誕生物語”に目を通すと

『盛り切りの丼は汁かけめしとして軽んじ』

られてゐて、[玉ひで]でも最初は“出前限定”だつたと書いてある。立派な食べものとは認識されてゐなかつたわけで、何故この点に触れたかと云ふと、もしかして玉子丼は、卵かけごはんの変型または応用ではなかつたかと思つてゐたのだが、どうもそれは間違つた推測らしい。寧ろ親子丼の人気に便乗したたれかが、手間を惜しんで鶏肉を省き、玉子丼に辿り着いたのではないかと、推測を改めたい。さうなると玉子丼の登場から完成に到る時期は、明治の終り頃から大正の初期にかけてくらゐかと想像出來る。玉子丼史が編纂されてゐるわけではないから、あくまでも推測…想像に過ぎないけれど。併し手間を惜しんだとは云へ、油揚げを刻み入れたのは素晴らしい發案である。(蒲鉾にしても)鶏肉の代用だつた筈だが、出汁を吸ひ、風味を添へる点で、油揚げを撰んだのは、望ましい手の抜き方だと云つていい。

 かう賞讚してから不思議に思ふのは、厚揚げを撰ばなかつた理由だが、ここで根拠のない推測をすると、玉子丼(の原型)は関西…近畿圏に源流があるのではないか。大坂周辺には刻み饂飩といふのがある。刻んだ油揚げを種ものにして、一枚ものを用ゐたきつね饂飩とは区別される。刻んであると、饂飩と一緒に啜れるのが中々に旨い。詰りさういふ使ひ方は知られてゐたわけで、中には卵かけごはんにも乗せたひとがゐたかも知れない。

 「東京で、“親子丼”なんちふのが、流行ツとるらしいなア」

 「鶏肉を使ふンか。めンどでかなんわ」

 「せやけど、卵だけゆうのも、あいそなしで、あかンやろ」

 「ほなら、あぶらげでも、使こたらエエねん」

 「いけるンか」

 「いけるやろ。刻みもあるし、わし、卵かけでも使こてるから」

といふ会話があつたかどうか、保證の限りではないとして、玉子丼が眞面目な研究と苦心惨憺と試行錯誤の結果、やうやく誕生したとはどうしても思ひにくい。手を抜いて手間を省いて作つてみたら、旨かつた。さういふ結果論的なかるさ、いい加減さが、玉子丼の味の背景にありさうな気がされる。勿論わたしの推測だから、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏は、これをあてにしてはいけない。