閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

345 カップコップ

 カップ酒といふのがある。

 コップ酒といふのもある。

 同じカ行でa音とo音がちがふだけで、それだけなのにえらくちがふ。カップ酒は酒造会社が出してゐる製品、酒造会社が出した製品を我が手またはたれかが注いだ状態がコップ酒。目の前にある結果としての姿は似てゐなくもないが、目の前に出るまでの経緯が丸で異なつてゐる。だからカップ酒とコップ酒は別ものである。

 コップ酒は滅多に呑まない。きらひなのではなく、機会に恵まれにくいだけのことで、第一にひとりで呑む時はお酒自体をあんまり呑まない。第二に知人と呑む場合、大体その知人はお酒に煩いから火入がどうとか精米の度合がああだとかなつて甚だ面倒である。わたしなぞは莫迦ツ舌だからメチルアルコールでなければそれでいいのに、八釜しいひとはそれを許して呉れない。こまる。

 最近は日本酒バーとかいふのがあるさうで、行つたことはない。お酒をバーで呑むのがどうも想像しにくいし、自慢気に香りを樂しんでもらひたいから葡萄酒のグラスでお出ししますと云はれても、要はコップ酒の変形としか思へないし、葡萄酒のグラスで呑まないと香りを樂しめないのかと莫迦ばかしくも思ふ。それで肴が一品八百円とかの値つけだと、そんな場所で呑むのは香りを樂しむ前にお財布の中身を気にしなくてはならず、そこは丸太が貧しいからだと云はれるかも知れず、またそれはあながち間違つた指摘でもないが、葡萄酒グラス入りのお酒も一ぱいと肴ひとつで二千円くらゐになりさうなお店で、ふらつと呑みたいと思へるものか知ら。

 カップ酒にさういふ心配は無い。さういふ形で賣られてゐるし、精々三百円とかそんな程度であらう。だから値札を見て納得すれば買ふだけのことで、品書きの銘柄と値段とお財布の中を深く考慮しないでも済む。と云ふと

カップ酒なんて三級のお酒、呑むに値しやしませんよ」

さう冷笑を浮べるひとが出てきさうで、さう思ふなら呑まなければいい。わたしも積極的には呑まない。尤もわたしが積極的に呑まないのは、お酒に対しての熱意が薄いからに過ぎず、三級だからといふ理由ではない。三級だなあと思へるカップ酒もあるけれど、そんなことを云ひだしたら、壜詰酒で三級ですなあと感じることもある。

 尤もカップ酒の側にも格下に見られる事情が無いわけではなく、お酒に纏はりつく惡い印象を一手に引受けた感がある。廉に大量に生産する為の醸造アルコール添加や加水がそれで(壜詰の廉い銘柄にもその手法は用ゐられてゐるのだが)、鼻に残る臭ひや甘つたるい後くち…総じてまづいと思はせる要素を一部のカップ酒が持つてゐるのは、認めなくてはいけない。慌てて念を押すと、醸造アルコールの添加や加水自体を非難してゐるのではありませんよ。一定の質と量を確保する為の有効な手法である。慎重な使ひ方が求められるのは云ふまでもないが、ごく広い意味でのブレンドと見立てておきたい。

 ヰスキィに目を向けると、ブレンドは特殊な技法ではないと解る。香りのきつい部分、穏やかな部分、舌触り、喉越し…詰り味はひと纏められる要件を幾つかの原酒(サントリーの白州蒸溜所では構成原酒と呼んでゐた)に分担させ、全体の調和を計るわけで、寧ろ巧妙だねと云ひたくなる。ブレンドの担当者はたいへんだらうなあ。

 マルキ葡萄酒での試飲でも、十年だか十五年だかの白を二種類ブレンドしたのを味はつたのを思ひ出した。ヴィンテージが曖昧になるのは感心しないと考へる向きもあるだらうが、その曖昧なブレンデッド・ヴィーネは實にうまかつたから、うまかつた分だけ曖昧ではない。

 思ひ出し序でに書くと、吉田健一のどの本だつたか忘れたが、北陸の料理屋だか旅館だかでそこの主人が吟味したといふお酒のブレンドを堪能した一節があつた。確かめれば本やその一文の題名は判る。併し吉田の文章は妙に後を引く。そこだけを讀んで終らないのは明らかなので、ここでは我慢をする。迷惑と云へなくもない。

 かう書いても厳密なひとは、ヰスキィや葡萄酒や吉田酒と、お酒の混ぜものを同じにしてはいけないと異論を呈するだらう。

「お酒の混ぜものは元來コストを下げるのが目的で、その目的の為に味が落ちるのを諾とした。だからいかんのである。況んやカップ酒なぞ、論の対象にもなりはせぬ」

肩を突つ張つてさう論じられたら、はあとうなづく。それで論者は論者が思ふ正統的で伝統的なお酒だけを呑んでゐればいいとも思ふ。ささやかな反論を試みるなら、わたしは混ぜるといふ技法自体をブレンドと云つてゐるので、その骨組だけを見れば同じである。何をどんな風に混ぜるかは別の課題にしたい。議論の種は色々ある方が酒席を愉しめる。

 議論の種にはちがふ機会に發芽してもらはふとして、地方のそんなに大きくない酒藏がカップ酒を用意することがある。これが中々便利なのは云つておかうかと思へる。単純に便利といつて惡い意味合ひでの合理性を連想されるのは併し困る。

「ではどんな意味合ひなのか」

と訊かれる筈で、未知の銘柄を験し易いのだと応じたい。

「験すのはいいとして、それで解るのかなあ」

と疑念を示すひとは必ずゐるだらうから、その疑念には大掴みには掴めると云はう。

「大掴みとはどんな程度だ」

と云はれたら、旨いかまづいかと口に適ふあはないの見当はつけられませうなと云ふ。

「旨いのと不味いの、口に適ふのとさうでないのは同じぢやあないか」

と文句を云はれれば、旨くても口に適はないのがあれば、旨いとはいへなくても口に適ふのだつてあるのだと云ひかへす。

 たとへば濃厚芳醇な仕上げのもつたりしたお酒は旨いけれど、わたしの口には適はない。混ぜものなり何なりが入つてゐて、少々わざとらしい醸りでも、舌から胃の腑までするりと駆け抜けるやうであれば好もしく思ふ。詰り旨い不味いと適ふ適はないは別々に考へる必要がある。それで未知の銘柄に戻ると、藏で試飲でもしない限り、不見転で四合壜を買ふのは躊躇はれる。まづいのを御免蒙りたいのは当然だが、旨くても口に適はないのだつて敬しつつも遠ざけたい。こんな時にその藏がカップ酒を出してゐればしめたもので、精々三百円かそこらの値段なら、口に適はなくてもかまふまい。まあ有料の試飲と惡くちをたたけはするが、口に適ふかどうか判らない純米大吟醸を、気取つたバーで、然も一ぱい八百円だかで葡萄酒グラスに注がれたので験すのに較べたら、失敗しても笑ひ飛ばせるだけ、遥かに健全であらう。

 お酒に対する眞剣みが足りない。

 と眉を逆立てるひとが出るか知ら。さう叱られたら、少なくともわたしの場合はさうだらうなあとは思ふ。とは云へお酒に対しての眞剣みとは何ぞやと訊き返して、ちやんとした答が示される期待はうすい気がする。それに笑ひながら気らくに呑んだお酒がまづくなるとも考へにくい。肩ひぢに力を入れず、罐詰の鯖や鰯なぞを肴にカップ酒を呑むのは、酒席の在り方のひとつではあつて、その席が特別急行列車の指定席でも問題にはならない。それもまたお酒を眞剣に愉しむ態度ではないかと云へさうで、さういふ愉しみを拒むにひととは呑みたくないなあと思へる。

 さうさう。散々非難してから云ふのも何だが、古臭ひ…訂正、古風な呑み屋で呑むコップ酒はうまい。どうかするとアサヒビールとかキリンビールとか印刷されたコップに注いで出してくるやつ。お酒そのものを味はひたいひとからすると、お酒とは別の液体なのだらうが、ああいふのを舐めながら、おでんをつまんだり、煎りつけた菎蒻を囓ると、そのおでんや菎蒻を含めてうまい。ひよつとして藏自慢の純米大吟醸はそれだけで旨い分、おでんや菎蒻を邪魔にするかも知れず、だとしたらその旨さは畸形的だと云へるのではないか。

344 出無精

 元來が出無精なので外に出ないで済むならその方がいいと思ふ。併し外に出ないままだと罐麦酒や煙草が無くなる。罐麦酒や煙草だけでなくお米も肉も魚も野菜も無くなる。それは困るから外に出る。今は何と云ふのか色々なあれこれを家まで運ぶサーヴィスがあるのはわたしだつて知つてゐる。知つてはゐるが使ひたくない。昔の出前みたいなものですよと云はれても昔の出前も使つたことがない。きらひかと訊かれたらきらひではないと応じるけれど、好きでもないのは確からしくてだから使ひたくないといふ結論になる。詰り出無精はその通りとして、但し断然外出はしたくないといふわけではなく、日に一ぺんくらゐは表に出るのでさう考へると三年寝太郎といふのは凄い。出無精界のチャンピオンでなくても挑戦者の資格は十分にある。

 とはいへわたしは出無精界のチャンピオンや撰手権のベスト・エイトを目指してゐるわけではない。大食ひ自慢が何十貫の鮨を平らげたとか聞くと凄いなあと思ふ。あれと同じで序でに凄いなあと思ひつつも頭の隅つこで莫迦だなあと呆れるのもまたさうである。莫迦げてゐるからいけないと云ふのが短慮なのは解る。何であれ突き詰めるのも娯しみではあつて、さういふ突き詰めを本の形にすると『ギネス・ブック』が出來上る。尤も眞似したい見習はうとは思はない。熱情の不足だと云はれてもこちらの勝手である。三年寝るのも百貫の早鮓も極端でこまる。敬シテ遠ザケ見物するに留めておかう。

 かう書くと丸太は如何にも中途半端な輩だと思はれさうだが確かにその指摘は正しい。なので出無精も中途半端であつて偶に外に出たくなる。この場合の外に出るは買物や散歩ではなくて遠くに行く…旅行の意味で、ただ旅行と云つても精々二泊くらゐしか思ひ浮ばない。十日でも一ヶ月でも思ふだけならただなのにそこまでの慾が広がらないのは、けちん坊なのもあるだらうが、矢張りどうも中途半端な性根が顔を出してゐるのだと思ふ。

 少々開きなほると遠くに行くといふのは必ずしも距離に比例するとは限らない。地図での遠さと気分の遠さはちがふもので、年に何べんか足を運ぶ青梅は遠いと感じないのに、銀座や渋谷や池袋は止む事を得ない事情が無ければ行かうとは思はないので、さういふ意味では随分と遠い場所なのだと云へる。どこかのたれかが、知らない町を歩きたい遠くに行きたいと唄つてゐて、その他はひどく感傷的だつたこと以外覚えてゐないが、わたしにとつては六本木も赤羽も知らない町で、気分としては矢張り遠い。遠いなら泊つていいと思ふかと訊かれれば頸を傾げるけれども。

 併し旅行の意味合ひで外に出るなら、地図の面でも多少の距離はある方がいい。地元から半時間か一時間、もうちつと離れてゐてもかまはない。と書くのはいいとして、では何を使つた半時間乃至一時間なのか。在來線の各驛停車と特別急行列車と新幹線では同じ一時間でも路線図上の距離が丸で異なる。在來や高速のバス、飛行機に船を含めると話はもつとややこしくなる。考へる分にお金は掛かりはしないが、ややこしいのは面倒なのでバスと飛行機と船は省かう。省けば簡単になるとも云ひにくいが、ましにはなる。

 在來線の電車と特別急行列車と新幹線でちがふのは同じ一時間で行ける距離だけでなく、費用も異なつてくる。挙げた順に高くなるので、高いのは困る。併し地図で遠い場所、わたしが住んでゐる東京からだと仙台や鶴岡、札幌、或は倉敷や米子や博多や鹿児島を目指すとしたら、どうしたつて特別急行列車と新幹線を使はざるを得ない。在來線を乗継いでも行けるけれど、さうなると目的の土地に辿り着くまでの間に一泊か二泊を挟むことになる。出無精の癖が顔を出せば途中で面倒を感じてたとへば庄内を目指して家を出ても新潟で踵を返すことにもなりかねない。新潟ならお酒も肴も旨からうからそこで引返してもかまはないとして、いつでもそんな風に具合よく進むとは限るまい。その都合はわたしの都合だから好きにし玉へと云はれると御説御尤とうなづく分に不平は無いが、わたしがどこかに出掛けるのはわたしの勝手なので優先されるべきはわたしの都合である。

 そこで切符代は節約する方針を立てる。片道二千円。かう決めると自動的に特別急行列車と新幹線は除外される。乗れないのではなく二千円で乗れる程度の距離なら在來線を使つても支障は出ないからで、支障の出ない距離に急行券を買ふのは勿体無いといふだけのことである。そこで簡単に調べると熱海千二百九十円、甲府千八百五十円、宇都宮千九百四十円と判つた。金額は少し超過するが水戸や沼津は二千二百七十円。いづれも新宿發の片道で急行券もグリーン席も使はない。乗継ぎも含めて二時間から三時間くらゐ掛る。時間の掛り方には疑義が呈せられるやも知れない。急行券でその時間を節約する方が賢明ではないか。親切な見立てだがそれは具体的に何処でどうしたいと希望がある時に勘案すれば宜しい。今はそこまで頭が働かないし二時間乃至三時間の乗車時間自体を娯しむのも一興か。

 ところで上に挙げた町或は驛は沼津を除いて泊つたことがある。泊つたからと云つてよく知つてゐるとは云へないけれど實績としてはさうなので自慢をしてゐるのではない。まただから今さら行きたくないと云ふのでなくただ今のところはその気になれない。沼津だつて未踏の地を理由に訪問したいとは思ひにくい。沼津をくさすのでなくこちらの気持ちの話であつて併し港町には何とも云へぬ魅力がある。早起きは苦手だしきらひでもあるが朝の漁港で呑みながら焼き魚をつまめたら愉快だらう。これは別の計劃に取つておくことにする。それに気がついたのだが切符代の片道二千円を上限まで遣ふ必要はなかつた。片道二千円が往復二千円になつて困りはしない。これだと秩父奥多摩辺が範囲に入る。どちらも山地なのが稍気になる。

 新宿から片道千円の港町なら小田原がある。正確には小田原からひと驛進んだ早川。二キロメートル程の距離だから時候に恵まれれば歩けなくもない。では仮に早川の漁港に行くとしてそこに何かしらの樂しみがあるのかといふ疑問がある。漁港でとんかつを食べる莫迦はゐない。ゐたとしても少数派にちがひないし文句を云ふ積りもない。蕎麦屋のカレーは旨いから漁港のとんかつだつてうまいかも知れませんぜと云はれたら、そこは認めていいとしても矢張り蕎麦屋に行つたら蕎麦を啜りたい。それと同じでわたしなら漁港に行けば魚を喰ひたい。鯛や比目魚の舞踊りに興味はないけれど鯵に鰯に鯖や鰤は大ご馳走である。定期的に朝市も催されてゐるさうだから早朝に起きねばならぬ條件をどうにかすればそれもまた樂しみになる。朝市で麦酒やお酒が賣られてゐるかは知らないが罐麦酒の一本や二本を鞄に忍ばせるくらゐ何と云ふこともない。規則違反ですよと叱られたら開けた分だけ飲み干せば済む。

 ここまではいいとして朝市または午前中から早川魚で一ぱい呑んだらそれからどうすればいいのか。早川から小田原を経由して新宿までは二時間余りだからそのまま帰宅しても帰宅が変な時間になることはない。片道千円を忘れて小田急ロマンスカーを奢ればもつと早く帰れもする。併し朝から呑んだ後に各驛停車だかロマンスカーだかに乗るのは面倒である。それに今考へてゐるのは一泊くらゐを伴ふ外出であつて、そんなら小田原に泊るのがよささうに思へる。小田原には具合のいいことに使ひ馴れたビジネスホテルが店ではなく建物を出してゐるから部屋が空いてゐれば文句はない。驛の周りに何があるのかよく判らないが蕎麦屋は一軒ある。観光地だから飯屋や居酒屋くらゐはあるだらう。仮に見当らなくたつて罐麦酒は驛で買へるし、驛前には蒲鉾屋が幾つか並んでゐたのを見た記憶があるから餓ゑる心配は無用である。蒲鉾がつまみになるのかどうか試したことが無い。鯵に鰯に鯖や鰤が酒席に歓ばしいのを思へば蒲鉾だつて似合ふだらう。蕎麦屋にだつて板わさといふのがある。それで安心したのはいいが、小田原なり早川なりをいつ訪れるのかはまつたく未定である。何しろ出無精だから仕方がない。

343 汽車めし([341 麦酒!]と[342 冷す]の續き)

 わたしが尊敬する随筆家兼小説家は敬称略で丸谷才一吉田健一檀一雄、内田百閒の四人。四人共、昭和の年号以前…丸谷が大正十四年、吉田と檀は明治四十五年、百閒は明治二十二年…に生れてゐる。結果はどうであれ、わたしが明治大正の大先達から影響を受けてゐるのは確かであつて、どこがどんな風に影響されてゐるかは、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏よ、夏やすみの退屈しのぎにしてくれ玉へ。

 上に挙げた四大先達の中で、一ばん眞似しにくい(影響が出にくい)のは内田百閒で、外のひとも同じなのかは知らない。簡単だよと云ふひとがゐれば、そもそも内田百閒に興味が無いよといふひともゐる筈で、そこに文句を云ふのは筋がちがふ。わたしにとつては眞似のしにくい文章家なのは事實で、併し理由がよく解らない。よく云はれるのは、百閒先生の“過剰な(正しくは過剰に感じられる)書込み”なのだが、そこを眞似するのは苦痛ではない(六づかしいとは云つてゐませんよ、念の為)丸谷は“無内容を内容に転じさせる藝”と評してゐて、これは絶讚である。とは云へこの手帖だつて無内容なのには自信がある。内容に転じてゐないのはこちらの浅學非才であつて、浅學非才の分を差引きしつつ、眞似のしにくさとは異なる気がする。気がするのと現實に大きなちがひがあるのは不思議ではないが、その大きなちがひが自覚出來てゐなければ、無いのと変らない。矢張りよく解らない。かういふのは自分でどうかうするより、『ウェブログ文化における丸太花道の文章と内田百閒の関連性について』とかいふ研究で論じてもらふのが宜しからうと思ふ。中學生辺りの自由課題にどうだらう。

 随筆だか小説だか何だか判らない文章といふのが世の中にはある。あつた。ある時期の永井荷風(明治十二年生)や晩年の司馬遼太郎(大正十二年生)がさうだし、吉田健一にもその匂ひが濃い。日本的な私小説の伝統に萌芽があるのか、随筆や小説に纏はりつく曖昧さが土壌にあるのか(併し荷風も司馬も吉田も、私小説の系譜ではないよねえ)、その辺は解らない。それに理由がひとつだとも限らない。ここでは文學的な考察はさて措いて、随筆と小説が混在する…どちらでもあつて、どちらでもない…文章があるかあつたかした、で留める。それで思ふのは、我が百閒先生の文章も、随筆と小説の曖昧な境界にあつて、その曖昧が過剰な厳密と混ざりあふところ…こつてりした肉の膏みを、たつぷりの大根おろしで食べるやうな感覚…が、眞似の六づかしい理由(のひとつ)ではあるまいか。

 かう書くと丸谷吉田檀は眞似し易いのかと思はれさうだが、勿論そんなわけはない。ただ何となく眞似出來さうな気はされる。勘違ひなのは云ふまでもない話で、さういふ文章をものに出來たなら、今ごろわたしは文士の端くれを自称してゐるだらう。文士の端くれがえらいのかどうかは知らないが、文士にとつて外の文士が書いたものは商賣敵の商品になるから、無責任に娯しみにくからう。そんなら文士になるより文士の文章を閑に任して讀む方がましな気もしなくはない。何しろ文士になつたことがないのだから、ましかどうかの保證は致しかねる。

 何の話をする積りでゐたのか。文學的な考察でないのは確かで、“麦酒”に“冷す”と續いたから、今後は呑まなくてはならないと考へたのを思ひ出した。順番通りである。それで近ごろまた『阿房列車』と『汽車旅の酒』の頁を交互に捲つてゐて、麦酒を呑むなら汽車がいいと考へたのも思ひ出した。我ながら軽薄である。だからと云つて、この稿だけ特別に重厚にするわけにもゆかない。なので軽薄なまま話を續ける。

 汽車…今はもう列車か鐵道と呼ばなくてはならないか…で麦酒を呑むのはうまい。汽車に乗り込み、鞄を棚に上げ、席に坐つて直ぐ呑むのは駄目で、駄目と云ふのが駄目なら、さういふ呑み方は家で呑んだり居酒屋で呑んだりするのと変らないから旨くないと云ふ。家や居酒屋で呑む麦酒がまづいのではないが、汽車で呑む麦酒は家や居酒屋で呑むのと同じ銘柄でもちがふ麦酒である。黒ラベルスーパードライの頭にそれぞれ“汽車で呑む”といふ冠がつくのがその理由で、理由になつてゐないと思ふひとは、さう思つておけば宜しい。わたしはさういふ冠をつける方が、汽車で呑む麦酒の味を佳くすると考へる。それでその冠が本領を発揮するのは汽車が驛を滑り出てからのことで、滑り出てから少し我慢するともつといい。たとへば東海道新幹線の東京驛から乗るとしたら、せめて新横濱を過ぎるくらゐ。さうして待つことで、躰が坐席に馴染んでくる。馴染んでくればおれは今、汽車に乗つてゐるんだと實感されてくる。そこで罐麦酒を開けて、ぐうつと呑むとうまい。待つてゐるうちに折角の麦酒がぬるくなりやしないかと心配する向きもあらうが、不思議なものでその少し計りぬるくなつた麦酒がうまい。家や居酒屋だつたら我慢ならないだらう。

 麦酒を呑むのだからつまみが要る。麦酒に限つたことでなく、葡萄酒でもお酒でも要るから、呑むならつまみが要ると云つてもかまはない。そもそも汽車で呑むのは麦酒に決つてゐない。現に百閒先生はお燗を入れた魔法壜を夜行列車に持込んだし、宰相の息子はシェリーやヰスキィを味はつたといふ。魔法壜やシェリーまでは眞似出來ないが、麦酒の外に葡萄酒の小壜や冷酒を持つてゐたことはあつて、さうなると余計につまみが欠かせない。本式の呑み助はつまみを要しないといふ説がある。塩や焼海苔があれば上等だらうとでも云ひたいのだらうが、どうも妙な意見に思はれる。塩や焼海苔で十分と云つたつて、麦酒や葡萄酒やお酒にあはせるのだから、その塩や焼海苔はそれ自体、つまみに出來る程度に旨くなくてはならない。その辺のマーケットで特賣になつてゐたやつが惡いとは云はないが、汽車に持込む麦酒或は葡萄酒乃至お酒は、普段より少し気張つて仕舞ふもので、そこを考へると特賣品は分が宜しからぬだらうと想像するのも容易である。第一気張つた銘柄を呑むのだから、つまみだつて色々と慾しくなるのは人情である。塩や焼海苔が佳品だつたとして、それだけではきつと物足りなくなる。矢張り何かしらを用意するのが無難な態度と思はれる。

 小學生の頃だから遡つて四十年余り前、新大阪から岡山まで、山陽新幹線に乗つたことがある。父親方の親族が大半、愛媛の新居浜近辺にゐて、今もゐるのだが、その時はお墓参りとかさういふ事情だつたのではないかと思ふ。こだま號で岡山まで出て(何かの唄で、“時速二百五十キロ”と聴いた記憶がある。そんな時代だつた)、瀬戸大橋が架かる前だつたから在來線で宇野まで。宇野から高松は宇高連絡船。高松から予讃本線の急行列車といふ面倒な移動だつた。今のわたしなら高松で一泊くらゐするだらう。かういふ思ひ出話をするのは、当時のこだま號にはビュッフェだが食堂車だかがあつたからで、両親は慎ましかつたのか、新大阪から高々一時間程度だから必要無いと考へたのか、それとも乗り物醉ひし易いたちの伜に気を配つたからか、そのビュッフェ乃至食堂車がどんなだか、わたしは知らない。残念だと思ふ前に新幹線のみならず、全國の特別急行や急行の食堂車は廃止されてゐた。残念と思つたのは廃止になつてからで、後悔の種は先に立つ前に枯れてゐたことになる。一部の編成には残つてゐるかも知れないけれど、食堂車を残す編成であれば、何十万円もする豪華絢爛な旅行列車の筈だから、今のところわたしから用事はない。

 食堂車やビュッフェが廃止されたのは儲けにならないからだらう。汽車で供する飲食だから割高になるし、そのくせ供する飲食は町中の洋食屋や定食屋を凌ぐわけでもなかつたらうと推測も出來る。だつたら客車にしてしまはうと考へたにちがひない。麦酒その他やお弁当の類は驛構内で賣ればいいし、車内で罐麦酒やピーナッツやあたりめを買へれば、文句は出ないだらうさ。と乱暴な口調の会議があつたかどうかは兎も角、形式…結果としてはさうなつてゐて、あれはいかんよといふ聲は耳にしないから、おほむね正しい判断だつたのだと思ふ。尤も食堂車を体験しないまま、現在に到つたわたしにはどうも面白くない。それは丸太の気分だから知らないよと云はれたらそれまでではあるが、實際上でも困惑を感じることがある。汽車の席に坐つたら、先づ折畳まれた卓を倒し、そこに罐麦酒や葡萄酒の小壜、お弁当やサンドウィッチの類を乗せるのだが、殆ど必ず卓上が一ぱいになる。溢れなければいいと云ふひともゐるだらうが、あの狭苦しさは見るだけで落ちつかなくなる。余裕を持てる広さにするとしたら、坐席の配分からなほさなくてはならない。何年か先にさういふ車輌が登場する期待はあつても、何年か先まで汽車に乗らずに済む保證はない。

 年に一ぺん、東京驛からこだま號で新大阪驛まで移動をする。新横濱を過ぎた辺りから米原近辺までの三時間余りを呑む為で、食堂車が無いのは現状の編成として、併しこだま號には車内販賣も無い。麦酒でも何でも追加したくなつたら、どうすればいいのか。かう云ふと旧國鐵のえらいひとは、通過待ちで五分かそこら停車する驛があるですから、そこの賣店でどうぞと応じるにちがひなく、理窟は判らなくもないけれど、その賣店でこちらの慾しいものがあるとは限らない。降りて賣店まで駆けて、サッポロを買はうとしてもサントリーしか残つてゐない可能性はある。サントリーがまづいとは云ふのではなく、呑みたい銘柄が見当らなければ、駆け出し損といふ気持ちになることを云ひたいのである。それに三時間余りのあひだ、同じ調子ではゐられない。少しづつでも醉つてくるもので、さうなると車外に出て賣店を目指して、停車時間内に戻れるかどうか、些か自信が持てなくなる。そこで食堂車でもビュッフェでもいいから、呑める車輌があれば安心出來るのになあと思ふ。東海道新幹線のこだま號は東京新大阪驛の運行だから、呑みすぎる恐れはあつても、乗り過ごす心配は無い。さういふたちの惡い醉つぱらひが迷惑だから、食堂車を廃止したのですと云はれたら、云ひ逃れの余地は失せて仕舞ふ。

 とは云へわたしは何も、汽車の中で獨り居酒屋を開店さす義務を負つてゐるわけではない。たとへば“道草”で吉田健一は汽車に乗る前、改札口に近い食堂に潜り込んで

「生ビールにハム・エッグスという風な」

ものをしたためたり、或は乗継ぎの驛で“かけに生玉子を入れたの”…月見蕎麦ではないのだな…を啜つたりしてゐる。或は途中の驛で焼賣やら鱒鮨、蟹鮨を買ひこんだりもしてゐる。乗る汽車走る路線次第では、今だつて眞似出來る期待を持てる。それは限られた路線の限られた汽車だらうから、實現は六づかしいんではないでせうかと気を揉むひともゐさうだが、またその揉み方には少なからず同意を示したくもなるのだが、今日明日の内に行かねばならぬわけではなく、食堂車のやうに失せたとしても、それはそれで止む事を得ない。“生ビールにハム・エッグス”をしたためるのだつて、惡い話ではない。罐麦酒を二本と葡萄酒半壜、おかずをちまちま詰めたお弁当かサンドウィッチにチーズとクラッカー。経験的に云へばこれで大体二時間かそこらは愉しめる。廉と云へば廉だが(高くても二千五百円とかそんなくらゐだらう)、切符代や特急料金や泊るとすれば宿代も嵩む。そこを含めると汽車めしはえらく贅沢な娯樂とも云へる。そこは廉に済んだと思つていい気持ちになつてもいいし、贅沢をしてゐるなあと御大尽気分を味はふのだつて惡くない。さういふことを考へて、汽車めしの為の計劃を立てたくなつたのは、ここだけの話にしておかう。

342 冷す([341 麦酒!]の續き)

 古代以前まで遡つて考へると、我われの遥かなご先祖が最初に得た保存の方法は、焼く(干す)ことと塩漬けだつたのではないだらうか。かう云ふとそれは調理ぢやあないかと指摘されさうで、確かに調理の一種でもあるのだが、当初のかれらの頭にさういふ發想は無かつただらうと思ふ。確かに熱を通すのと塩に漬けるのは、保存以外にも

・味を佳くする。

・咀嚼や消化を助ける。

・毒性や寄生虫の危険も減らせる。

といつた利点があつて、別々に考へるのは適当とは云ひにくい。今回は話の都合があるからまあ、辛抱なすつてください。

 併し保存に限るともうひとつ、冷凍…冷藏も考へられる。こちらは地域が狭められるとしても(北方の山岳民だらうか)、矢張り有用な方法で、解凍の手間を厭はなければ、焼き干しよりは長保ちが期待出來さうでもある。何の本で讀んだのか失念したが、何千年か前の氷漬けになつた獸肉は、“臭ひを我慢すれば”食べられるさうだ。實證精神もここまでゆくと、やめておきなさいよと云ひたくなつてくる。

 冷凍乃至冷藏…ここからは纏めて冷藏と呼ぶ…の問題は、冷す為の設備をどう整へるか、有り体に云ふなら、氷をどう手配するかといふ点で、アルプスやスカンジナビアやシベリアやアラスカなら兎も角、たとへば我が國で氷を用意するのは、たいへんな労苦が伴ふ、詰り贅沢であつた。贅沢と断定出來るのは、朝廷に専門の部署(主水司…“モヒトリノツカサ”と訓む)があつたからで、あてられた文字からも解るとほり、水や氷の調達が仕事。律令制度下の職分といふことは、ざつと平城朝後期から平安朝の中頃と見ればいい。勿論この当時の平城京平安京で氷が作れる筈もない。冬の北陸辺りから氷雪を切り出して、みやこまで運んだのだらう。

 その貴重な氷雪を保存する為の設備は用意されてあつた。氷室と呼ばれる。山中に坑を掘つて氷を入れ、茅葺きの小屋か何かで覆つたらしい。これで夏まで保存出來たといふから、大した知恵である。やんごとなき方や(限られた)殿上人はこれで眞夏に冷たい水や冷した魚介を味はへたわけで、下層民には見当もつかない贅沢だつたにちがひない。現代文明の有難さを感じますなあ。氷室は我が國獨自の發明ではなく、たとへば伊太利や西班牙にも同様の設備があつた。アルプスやピレネーから氷雪を運んだのか知ら。さういへばハモン・セラーノだかハモン・イベリコだかは、肉を氷雪で凍めて使ふといふ話(それが氷室での工程かどうかまでは覚えてゐない)を聞いた記憶がある。我が國の殿上人もここまでは出來なかつたらうね。

 ここで考へるに、氷室の目的は大きくふたつに分けられる。第一は保存した氷自体を暑い季節に用ゐる為。もうひとつは氷から降りる冷気を利用して、飲食物の保存に使ふ為。詰り冷藏庫のごく原始的な形である。古志ノ山やアルプスが天然の冷藏庫だとすれば、そこから氷雪を切り出し、運び、収め、必要に応じて使ふのは、さういふこと(切り出す技法、輸送する路の整備と維持、そして勿論氷室を適切な場所に設置する技術)が出來る共同体…もつと乱雑に國家と呼んでもいいでせう…が無くては不可能に近い。その視点に立つと、氷室は原始的な構造とはいへ、長足の進歩…思ひ切つて文明のひとつの象徴ではなからうかと云ひたくなる。ちよいと大袈裟か知ら。

 山岳から氷室に到つた長いながいプレヒストリは、十九世紀まで續く。東芝の[日本初の電気冷蔵庫]によると

http://toshiba-mirai-kagakukan.jp/learn/history/ichigoki/1930refrige/index_j.htm

 

 圧縮式の冷凍方式を世界で最初に開発したのは1834(天保5)年で米国の発明家パーキンスである。日本で初めて冷凍機を用いて氷を作ったのは1870(明治3)年で、現在の東京大学で高熱の福沢諭吉のために少量の氷を製造したことに始まる。これはアンモニア吸収式冷凍機で、実験室用のものであった。

 

 と書かれてゐる。

 千八百三十五年の米國と云へば、南北戰争の終結からわづか五年後。翻つて天保年間の日本と云へば、天保山が築かれ、大塩平八郎が乱を企て、水戸で偕樂園が造営され、天保暦への改暦が實施された時期。序でながら、幕末から明治期にかけての有名人(孝明帝、徳川慶喜坂本竜馬伊藤博文大隈重信)が生れてもゐる。

 ここで東芝のウェブサイトから引用したのは、この会社が最初に國産の家庭用冷藏庫を造つたからで、上記のコラムによると容量は百二十五リットル。重量は百五十七キログラム(横綱白鵬の体重とほぼ同じ)もあつた。完成は昭和五年、發賣は昭和八年。気になるお値段は価格は七百二十円。これは“小学校教員の初任給一年分以上に相当”したといふから、御大尽か戰争成金でもなければ、慾しいと思ふのも無理だつたらう。因みに云ふ。現行の東芝製冷藏庫で一ばん小振りと思はれる型が容量三百三十リットル、重量六十九キログラム(最も重い型でも百キログラムを切つてゐる)だから、誕生以來八十数年、恐ろしい進歩ではあるまいか。天保生れの有名人はたれひとり、電気式冷藏庫の本格的な登場を知らないまま、世を去つてゐる。

 ここまで書いて、内田百閒の『阿房列車』をぼんやり眺めてゐたら、冷藏庫の文字が目に入つたから少しびつくりした。そのくだりを引くと

 

 今汽車の中で用もなくぼんやりしてゐる目の前を、バナナが頻りに行つたり來たりする(中略)さうして恐らくは冷藏庫で冷やしたのを出して來たに違ひない。皮の肌がさう云ふ色をしてゐる(後略)

 

 我らが百閒先生は東京發の第三特別急行列車(十二時三十分の[はと])の乗客で、車内の水菓子賣り持つ籠に、バナナがあると気がついた折に考へたのが上の箇所になる。先生は結局、バナナを買はなかつたから、それが“冷藏庫で冷やしたの”だつたのかどうかは(同行のヒマラヤ山系氏の返事のやうに)曖昧なままである。太平洋戰争後の特別急行列車に冷藏庫が乗せられてゐたのかも、はつきりしない。但し百閒先生は(ヒマラヤ山系氏を伴つて)食堂車で一ぱい呑んでから、コムパアトに麦酒を持つてこさせてもゐるから、電気式か氷室式かは兎も角、水菓子や麦酒を冷せる設備があつたのは間違ひなからう。特別急行の食堂車で麦酒を呑みながらフライやシチューをしたためるのは愉快にちがひない。その麦酒が冷藏庫できりつと冷されてゐたら、満足の気分はきつと高まる筈で、かういふ歓びは明治の元勲の知るところではなかつた。

「併しそんなことを云つても」

と首を傾げるひとが出てくるかも知れない。元勲は元勲で、上等のお酒や葡萄酒を嗜んだにちがひないでせう。我われはそつちの歓びを知らないんではありますまいか。さう云はれたら一理はありさうで、反論も無くはないけれど、話がとつ散らかりさうだから避ける。ただ伊藤博文辺りなら、上等も下等も区別出來なかつたんぢやあないかなと疑念は呈しておきませう。

 併し氷室に保存し、或は雪に埋めて保存する手法(雪室と呼ぶ)は今も現役である。尤もそれは純然たる保存ではなく、ゆつくり冷すことで、味はひを調へる、寧ろ技法としての現役。馬鈴薯だの人参だのを雪に埋めると、水分がどうかうとかで美味くなるさうだし、お酒だと低温で長期間寝かすことで矢張り味が佳くなるといふ。葡萄酒の保存藏の條件…天然で場所を撰定する場合…に似てゐると云へなくもない。かういふ微妙な調整を電気式冷藏庫に任すのは今のところ無理であつて、さう考へると古志ノ山やアルプスやピレネーから氷雪を運んだ先人の苦心は、現代でも報はれてゐると云へはしまいか。

341 麦酒!

 普段は出來るだけ感嘆符を使はない。あの記号はどうも下品…訂正、軽薄で、気分としてはさうであつても、用ゐればその気分も含め、實際からは離れて仕舞ふ。腹の底で呟くのと、聲に出すのと、文字にするのでは、色々とちがふのだ。

 併し眞夏の麦酒は例外であつて、これは数少ない世界の眞實でもある。

 葡萄酒。シャンパン。泡盛。焼酎。ウォトカ。アイリッシュにスコッチ。紹興酒。思ふままに挙げてみたが、麦酒以外に感嘆符は似合はない。もしかするとわたしの知らない眞夏の酒精で、麦酒を蹴散らすくらゐ、感嘆符の似合ふ一ぱいがあるのかも知れないが、知らなければそれは無いのと同じである。なのでこの稿では麦酒を、感嘆符が似合ふ唯一の酒精とする。

 外の酒精と同じく、麦酒の歴史を遡つても、その最初はよく解らない。それでもざつと俯瞰するには、ビール酒造組合の[ビールの歴史]項が、中々具合が宜しい。これと併せて麒麟麦酒の[日本のビールの歴史年表]とサントリーの[ビールの歴史を教えてください]を参考にすると

http://www.brewers.or.jp/tips/histry.html

https://www.kirin.co.jp/entertainment/museum/history/nenpyo/bn_01.html

https://www.suntory.co.jp/customer/faq/amp/001716.html?transfer=pc_to_mobile&utm_referrer=https%3A%2F%2Fwww.google.com%2F

四千年かそれ以上前に、メソポタミア…シュメールが發見したと考へるのが妥当らしい。わざわざ發見と書いたのは、最初の最初は天然の醗酵に気がついただらうからで、物好きでなければ風変りなたれかが口に含んで

「こいつは、うまい」

と思つたにちがひない。そのうまい液体を偶然に頼るのはどうも、あれだと、技術として昇華出來たのが、歴史の靄のあちら側の事情ではなかつただらうか。ここで引用(以下特記しない限り、引用は上記から適宜おこなふ)すると

 

 当時のビールの製法は、まず麦を乾燥して粉にしたものをパンに焼き上げ、このパンを砕いて水を加え、自然に発酵させるという方法だったようです。

 

とある。さう考へるとシュメール・ビアを技術的に醸つた栄冠は、メソポタミアの麺麭屋か飯屋の頭上に飾るのが似つかはしいかも知れない。尤もメソポタミア麺麭や定食屋には云ひ辛いが、現代の視点で見ると、この飲みものを麦酒と呼んでいいのか、疑問は残る。麦酒工場の見學に行くと、どこでも必ず

「麦酒に大切なのは、水と麦とホップです」

と云ふ。具体的な醸造の手順は見學に行けば解るから、ここでいちいち触れない。試飲も愉しめることだし、實際に足を運ぶのがいいと思ふ。ここではシュメール・ビアにはホップが欠けてゐたと知つておけばいい。かうなるとホップを用ゐだしたのはいつ頃のたれだらうといふ疑問が浮んでくる。ここで再び引用しませう。

 

 いわゆるユダヤ人の「バビロン捕囚」の時代に、彼らの書き残したものがあります。彼らはワインも飲みましたが、ビールをセカールと呼び、その製造に大いに力を注ぎました。ユダヤ教の教書『タルムード』の中にカスタと呼ばれる植物がありますが、フーバーはいろいろな根拠からこの植物をホップと判断し、この時代からホップが使用されるようになったと推測しています。

 これに対しブラウンガルトは、その著書『ホップ』の中で、現在、メソポタミアの近くでホップの野生しているところはコーカサスであると書いており、この地方には今でも古代印欧語を話すオセッテという民族が居住し、野生のホップを使い、極めて原始的な方法でビールをつくっているということを明らかにしています。

 また、コーカサスの南に居住していたアルメニア人の紀元前の酒盛の絵には、ホップとビールの絵が描かれています。

 

 紀元前七世紀から六世紀頃、ネブカドネザル二世治下の新バビロニア王國の話である。記録に残つてゐるといふことは、それ以前から麦酒は“カスタ”を用ゐて醸られてゐたと考へるのが妥当であらう。我われが想像する味はひや香りの為といふより、保存目的の面が強かつたらしい。

「ひよつとして、ホップを使つた方が、麦酒は旨くなるんぢやあないか」

と気がついたのは、十一世紀から十五世紀にかけての基督教の修道院…大雑把に神父さまや司祭さまが、信仰だけでなく科學も受持つてゐた時代と云つていい。ネブカドネザル王から二千年も掛つたのかと呆れることは簡単だが、新しい醸造法が成功するかどうかは、實際に醸つてみないと判らないし、醸り手が成功だと思つても、それが受容れられるかどうかは、更に別の問題である。修道院時代まで麦酒が二千年の命脈を保てたのは、それまでの麦酒が受容れられてゐたからで、たかが何年かの醸造でそれが引つ繰り返せるだらうか。

 甲州勝沼のある葡萄酒藏で聞いた話だと、葡萄酒醸りは、大体二十年前後で新しい技法を験さなくては、従來の手法が旧くさくなるさうで

「但しそれ(詰り新しい醸造)がうまくゆくかどうかは、醸つてみないと解らない」

のだといふ。葡萄酒の場合、醸造の後に貯藏があるから、成否が明らかになるまでに三年とか五年とかの時間が掛かる。さう教へて呉れたのは元工場長で、冗談混りに

「(現工場長に)うまくいかなかつたら、馘首だと云つてある」

と笑つてゐた。いやたつた今、冗談混りと書いたけれど、半分くらゐは本気だつたかも知れない。数百年前の修道院で麦酒醸りに携はつたのがたれだつたかは歴史の常で判然としないが、トライ・アンド・エラーの繰返しだつたのは疑ふ余地がない。もしかして院長が醸造係を

「失敗したら、破門だな、これは」

などと嚇したかも知れず、係は係で

(おれが醸るんだぞ、まちがひなんて無いさ)

と流石に面と向つて口には出さなかつたとして、腹の底で毒づくくらゐはしても不思議ではない。

 さういふ試行錯誤と洗練が現代の麦酒に繋がることになる。詰り高名な“麦酒純粋令(ドイツ語ではReinheitsgebot)”である。西暦で千五百十六年四月二十三日にバイエルン公ヴィルヘルム四世が制定した。麦酒の原料は“麦芽(大麦)とホップ、水に酵母のみとする”といふ内容の一文で、驚くことに現在でも有効である。因みに云ふ。千五百十六年は我が國の元號でいふと永正十三年(時の御門は後柏原帝。足利将軍は義澄、義稙)伊勢宗瑞…後の北条早雲が相模國でのしてくる頃…寧ろ名高い田樂狭間ノ戰に先立つこと五十四年といふ方が、掴み易いかも知れない。余談を續けると北条早雲の領國経営は丹念で、見方によつては“近所の無類に親切で時にお節介な爺さん(この方針は甲斐國の信玄入道が引き継ぐ)”なのだが、かれですら

「酒ヲ醸スニアタツテハ米ト水ニ限ルベシ」

と布告してゐない。それだけ酒醸りの技法が確立してゐたと見ても誤りにはならない筈で、バイエルン公がこれを知つたら、どう思ふだらうか。

 ここで驚くのは、ヴィルヘルム四世の“麦酒純粋令”發布から僅か百年後の慶長十八年、日本に寄港した英國船の積荷に麦酒があつたと記録されてゐる。更に世紀を隔てた享保九年には、オランダ経由の麦酒を

「何ノアヂハヒモ無御座候」

といふ感想も残つてゐるといふ。十七世紀半ばからの百年である。当時の西欧が貿易で沸き立つてゐた傍証のひとつと考へていい。“何ノアヂハヒモ無御座候”とは辛辣な批評だが、坂口謹一郎博士の『日本の酒』(岩波文庫)を参照すると、明治以前のお酒は恐ろしく辛かつたらしく、さういふ味はひに馴染んでゐれば、麦酒は如何にも頼りなく苦い水にしか思へなかつただらう。尤も享保九年から更に百年余り経た万延元年(前年の安政五年に横濱が開港してゐる)になると、“アヂハヒ無シ”と云はれた麦酒が

「苦味ナレドモ口ヲ湿スニ足ル」

と変つてゐる。まあ呑めなくはないねといふ語感か。褒めてはゐないにしても、惡意までは感じられない。麦酒醸りが巧くなつたのか。

 万延元年からわづか二年後(文久二年)には横濱で牛鍋屋が開業する。居留外國人と外國人相手に交渉した商人や武家が、日本で麦酒を嗜んだ最初の人びとであらう。前後関係は兎も角、神戸でも似たやうなものだつた筈で、駐留した英米人が東洋の僻地…横濱も神戸も当時は辺鄙な田舎の港町であつた…に持ち込んだこの時期辺りまでが、我が國麦酒史のプレヒストリにあたると考へていい。ネブカドネザル王に遅れること實に二千数百年、バイエルン公から三百数十年。歴史を感じるなあ。この長いながいプレヒストリは四半世紀ほどの転換期を経て、ヒストリ…詰り日本の麦酒史へと遷るのだが、ここから先を詳しく触れる必要はないでせう。ざつと眺めれば、我らのご先祖は我われが思ふより早く、麦酒が美味いと気づき、またこの手で醸るのだと決意した(ここで明治三十四年まで、麦酒には酒税が課されてゐなかつたのは、注意を払つてもいいでせうか)ことに、感謝の意を捧げたくなつてくる。

 といふよりその感謝の意が、“!”マークの形をとるのではないかとも思へる。外ツ國から入つてきた酒精が我われ…でなければ、わたしの毎日に不可欠な飲みものに到つたのは、熱心で眞面目な醸造家の意志があつたから(お酒や焼酎にそれが無かつたとは云ひませんよ、念の為)だが、それと同じくらゐ、麦酒と麦酒が入つてきて以降の我われの食事が、うまく合致した…國産の葡萄酒やヰスキィのつらさはここにある…ことも挙げておかなくてはならない。そこでこれから、冷たい麦酒を呑まうと思ふ。焼鳥にするか冷奴にするか、それとも餃子か鯵フライかコロッケか。兎にも角にも、一本を呑んでから、考へると致しませう。