閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

342 冷す([341 麦酒!]の續き)

 古代以前まで遡つて考へると、我われの遥かなご先祖が最初に得た保存の方法は、焼く(干す)ことと塩漬けだつたのではないだらうか。かう云ふとそれは調理ぢやあないかと指摘されさうで、確かに調理の一種でもあるのだが、当初のかれらの頭にさういふ發想は無かつただらうと思ふ。確かに熱を通すのと塩に漬けるのは、保存以外にも

・味を佳くする。

・咀嚼や消化を助ける。

・毒性や寄生虫の危険も減らせる。

といつた利点があつて、別々に考へるのは適当とは云ひにくい。今回は話の都合があるからまあ、辛抱なすつてください。

 併し保存に限るともうひとつ、冷凍…冷藏も考へられる。こちらは地域が狭められるとしても(北方の山岳民だらうか)、矢張り有用な方法で、解凍の手間を厭はなければ、焼き干しよりは長保ちが期待出來さうでもある。何の本で讀んだのか失念したが、何千年か前の氷漬けになつた獸肉は、“臭ひを我慢すれば”食べられるさうだ。實證精神もここまでゆくと、やめておきなさいよと云ひたくなつてくる。

 冷凍乃至冷藏…ここからは纏めて冷藏と呼ぶ…の問題は、冷す為の設備をどう整へるか、有り体に云ふなら、氷をどう手配するかといふ点で、アルプスやスカンジナビアやシベリアやアラスカなら兎も角、たとへば我が國で氷を用意するのは、たいへんな労苦が伴ふ、詰り贅沢であつた。贅沢と断定出來るのは、朝廷に専門の部署(主水司…“モヒトリノツカサ”と訓む)があつたからで、あてられた文字からも解るとほり、水や氷の調達が仕事。律令制度下の職分といふことは、ざつと平城朝後期から平安朝の中頃と見ればいい。勿論この当時の平城京平安京で氷が作れる筈もない。冬の北陸辺りから氷雪を切り出して、みやこまで運んだのだらう。

 その貴重な氷雪を保存する為の設備は用意されてあつた。氷室と呼ばれる。山中に坑を掘つて氷を入れ、茅葺きの小屋か何かで覆つたらしい。これで夏まで保存出來たといふから、大した知恵である。やんごとなき方や(限られた)殿上人はこれで眞夏に冷たい水や冷した魚介を味はへたわけで、下層民には見当もつかない贅沢だつたにちがひない。現代文明の有難さを感じますなあ。氷室は我が國獨自の發明ではなく、たとへば伊太利や西班牙にも同様の設備があつた。アルプスやピレネーから氷雪を運んだのか知ら。さういへばハモン・セラーノだかハモン・イベリコだかは、肉を氷雪で凍めて使ふといふ話(それが氷室での工程かどうかまでは覚えてゐない)を聞いた記憶がある。我が國の殿上人もここまでは出來なかつたらうね。

 ここで考へるに、氷室の目的は大きくふたつに分けられる。第一は保存した氷自体を暑い季節に用ゐる為。もうひとつは氷から降りる冷気を利用して、飲食物の保存に使ふ為。詰り冷藏庫のごく原始的な形である。古志ノ山やアルプスが天然の冷藏庫だとすれば、そこから氷雪を切り出し、運び、収め、必要に応じて使ふのは、さういふこと(切り出す技法、輸送する路の整備と維持、そして勿論氷室を適切な場所に設置する技術)が出來る共同体…もつと乱雑に國家と呼んでもいいでせう…が無くては不可能に近い。その視点に立つと、氷室は原始的な構造とはいへ、長足の進歩…思ひ切つて文明のひとつの象徴ではなからうかと云ひたくなる。ちよいと大袈裟か知ら。

 山岳から氷室に到つた長いながいプレヒストリは、十九世紀まで續く。東芝の[日本初の電気冷蔵庫]によると

http://toshiba-mirai-kagakukan.jp/learn/history/ichigoki/1930refrige/index_j.htm

 

 圧縮式の冷凍方式を世界で最初に開発したのは1834(天保5)年で米国の発明家パーキンスである。日本で初めて冷凍機を用いて氷を作ったのは1870(明治3)年で、現在の東京大学で高熱の福沢諭吉のために少量の氷を製造したことに始まる。これはアンモニア吸収式冷凍機で、実験室用のものであった。

 

 と書かれてゐる。

 千八百三十五年の米國と云へば、南北戰争の終結からわづか五年後。翻つて天保年間の日本と云へば、天保山が築かれ、大塩平八郎が乱を企て、水戸で偕樂園が造営され、天保暦への改暦が實施された時期。序でながら、幕末から明治期にかけての有名人(孝明帝、徳川慶喜坂本竜馬伊藤博文大隈重信)が生れてもゐる。

 ここで東芝のウェブサイトから引用したのは、この会社が最初に國産の家庭用冷藏庫を造つたからで、上記のコラムによると容量は百二十五リットル。重量は百五十七キログラム(横綱白鵬の体重とほぼ同じ)もあつた。完成は昭和五年、發賣は昭和八年。気になるお値段は価格は七百二十円。これは“小学校教員の初任給一年分以上に相当”したといふから、御大尽か戰争成金でもなければ、慾しいと思ふのも無理だつたらう。因みに云ふ。現行の東芝製冷藏庫で一ばん小振りと思はれる型が容量三百三十リットル、重量六十九キログラム(最も重い型でも百キログラムを切つてゐる)だから、誕生以來八十数年、恐ろしい進歩ではあるまいか。天保生れの有名人はたれひとり、電気式冷藏庫の本格的な登場を知らないまま、世を去つてゐる。

 ここまで書いて、内田百閒の『阿房列車』をぼんやり眺めてゐたら、冷藏庫の文字が目に入つたから少しびつくりした。そのくだりを引くと

 

 今汽車の中で用もなくぼんやりしてゐる目の前を、バナナが頻りに行つたり來たりする(中略)さうして恐らくは冷藏庫で冷やしたのを出して來たに違ひない。皮の肌がさう云ふ色をしてゐる(後略)

 

 我らが百閒先生は東京發の第三特別急行列車(十二時三十分の[はと])の乗客で、車内の水菓子賣り持つ籠に、バナナがあると気がついた折に考へたのが上の箇所になる。先生は結局、バナナを買はなかつたから、それが“冷藏庫で冷やしたの”だつたのかどうかは(同行のヒマラヤ山系氏の返事のやうに)曖昧なままである。太平洋戰争後の特別急行列車に冷藏庫が乗せられてゐたのかも、はつきりしない。但し百閒先生は(ヒマラヤ山系氏を伴つて)食堂車で一ぱい呑んでから、コムパアトに麦酒を持つてこさせてもゐるから、電気式か氷室式かは兎も角、水菓子や麦酒を冷せる設備があつたのは間違ひなからう。特別急行の食堂車で麦酒を呑みながらフライやシチューをしたためるのは愉快にちがひない。その麦酒が冷藏庫できりつと冷されてゐたら、満足の気分はきつと高まる筈で、かういふ歓びは明治の元勲の知るところではなかつた。

「併しそんなことを云つても」

と首を傾げるひとが出てくるかも知れない。元勲は元勲で、上等のお酒や葡萄酒を嗜んだにちがひないでせう。我われはそつちの歓びを知らないんではありますまいか。さう云はれたら一理はありさうで、反論も無くはないけれど、話がとつ散らかりさうだから避ける。ただ伊藤博文辺りなら、上等も下等も区別出來なかつたんぢやあないかなと疑念は呈しておきませう。

 併し氷室に保存し、或は雪に埋めて保存する手法(雪室と呼ぶ)は今も現役である。尤もそれは純然たる保存ではなく、ゆつくり冷すことで、味はひを調へる、寧ろ技法としての現役。馬鈴薯だの人参だのを雪に埋めると、水分がどうかうとかで美味くなるさうだし、お酒だと低温で長期間寝かすことで矢張り味が佳くなるといふ。葡萄酒の保存藏の條件…天然で場所を撰定する場合…に似てゐると云へなくもない。かういふ微妙な調整を電気式冷藏庫に任すのは今のところ無理であつて、さう考へると古志ノ山やアルプスやピレネーから氷雪を運んだ先人の苦心は、現代でも報はれてゐると云へはしまいか。