閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

619 イミテイション

 助惣鱈などの擂り身をどうかうして、細くほぐれる加工を施し、蟹に似せた味を附けたのを、英語では imitation crab stick と呼ぶさうで、素つ気無いねえ。これを日本では蟹(風味)蒲鉾…略してかにかまといふ。

 昭和四十年代の終り頃、我が國で開發されたらしい。半世紀そこそこの歴史。例によつて元祖については議論の余地があるけれど、いづれも最初から、かにかま(後にさう呼ばれる食べもの)を作らうとしたのではない点が共通してゐる。今ではマーケットで当り前に見掛けるかにかまは、蒲鉾業界の製品としては、当時異例の賣行きだつたさうで、何とか協会だかのひとが、"神武以來"と云つたとやら。

 確かに便利ですな、あれは。サラドに混ぜ、胡瓜もみにあはせ、酢のものに入れれば實際はどうあれ、手を掛けた気分になれる。なに、面倒なら、マヨネィーズに生姜醤油を混ぜたので、そのままつまんでもいい。

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 さてここでわたしは、蟹…蟹を含む甲殻類を大して好んではゐないと、白状しておかう。体質が理由ではないから、出されれば食べる。但し進んで蟹や海老の何とかを註文はしない。まあ蟹クリーム・コロッケだの甘海老の早鮓だの、多少の例外はあるにせよ、甲殻類には積極的でないのは、間違ひのないところである。食べれば旨いと思ふのに。

 白寿で往生した母方の祖母が存命の頃は、正月二日に親族が集まるならはしがあつた。麦酒やお酒を振舞つてもらふのだが、堂々の主役は蟹すきが不動の地位を占めてゐた。当時は年に一度とはいへ、贅沢だなあとしか考へなかつたが、蟹の他に白菜と豆腐と葱があれば、十分過ぎるくらゐに豪勢である。尤もそれで蟹が大好物になつたわけではなく、その出汁を寧ろ喜んだと云つておく必要はあらうか。

 さうなると蟹擬き…かにかまを頻用する理由は奈辺にあるのか。自分で買ひだしたのは最近のことで、率直に云つて、単に特賣だつたからといふ事情に過ぎない。この時は崩した冷奴にほぐしたのを乗せ、生姜を乗せ、サラド向け(と思はれる)ドレッシングをちよろりとかけて…いや確かに中々旨かつた。勿論これを小さな、小さすぎる満足と呼ぶことは出來るし、それを否定する積りも無いけれど、小さな満足がいかんのかと、居直りたくはなる。これがかにかまぢやあなく、 imitation crab stick なら、ややこしく考へずに済んだのだらう。何しろ最初から imitation なんだもの。

618 好きな唄の話~番外篇

 たれかが踊つてゐる。

 ひとりで踊つてゐる。

 

 その周りには人びとがゐて、しづかな踊りを見るでなく、目の隅に入れてゐる。

 一心不乱の踊りはいつしか、周りの人びとに移り、大きなうねりになつてゆく。

 

 ラヴェルが呉れた十五分間の奇蹟。

 たれが云つたのか忘れた。

 忘れはしたが、ここまで書けば、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏は、成る程モーリス・ラヴェルの『ボレロ』の話かと解つてもらへると思ふ。また"唄の話"なのに詞が無いから、"番外篇"なのかと納得してもらへるとも思ふ。いや矛盾してゐるのはいかんと、咜られるだらうか。

 

 音樂にはちやんと理論があるさうだが、そこは解らないから措く。素人の耳には、単純な旋律が複雑に絡んで、気が附けば、こちらの躰まで大きく動く不思議な一曲だから

 「凄いすごい」

手を拍ちたくなるだけで、その背景に潜んでゐる筈の膨大で緻密な理論まで気がまはらない。優れた音樂はきつと、さういふものなのだらう。

 

 色々な演奏を聴いた中で、最も印象的なのは、平成廿七年末の東京で、シルヴィ・ギエムが踊つた『ボレロ』だつた。

 円い舞台で華やかではない衣裳…といふより無愛想な姿のまま、シルヴィはひとり、踊る。

 

 時に緩かに。

 また烈しく。

 

 彼女の周りに控へた東京バレエ団が、軟らかく靭やかな動きに視線を送る。ちらりちらりだつたその視線は、やがて釘附けに変じ、我慢出來なくなつた若ものが二人、四人、八人と、舞台の周りで踊り出し、シルヴィと彼女に導かれた踊り手たちは、最後の瞬間に到る。

 どんな瞬間だつたのかは云はない。

 併しそれは疑ひなく、奇蹟の十五分間の幕切れに相応しい瞬間だつたし、もしかするとラヴェルの頭の中にあつた『ボレロ』の、あれこそ忠實な再現だつたかも知れない。

 

 百万の詞を費やすより雄弁な時間。

 クライバーが振るウィーン・フィルや、カラヤンが振るベルリン・フィルが、この曲を完璧に演奏しても、シルヴィ・ギエムの肉体ひとつには及ばない。カルロスやヘルベルトをくさすのではなく、その雄弁がシルヴィの肉体が發する言語…いや、肉体と言語が熔けあつた時間に根差してゐるからで、こんな例はまつたく稀と云つていい。

615 利きすぎの塩

 画像は"中華風旨辛もつ煮丼"、八百五十円。"数量限定"の触れ込みに釣られて食べた。このお店は何度か足を運んでゐるから、下手を打つ心配は無い。

 さう思つて食べると、確かにまづくはなかつたけれど、感心も出來なかつたから、少し驚いた。蒟蒻や大根、人参への火の通し具合は申し分無かつたが、塩気が飛び抜けてきつかつたんである。一体このお店はおつとりした味附けが得意なのにで、珍しいこともあるものだと思つた。

 念の為に云ふと、この味附けで、小鉢に少し盛つて出されたら、わたしはきつと歓んだ。丼の種に適はないのと、まづいのとは分けて考へねばならぬ。

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 そこで、塩。

 我われのご先祖まで遡つて、おそらくは一ばん附きあひの古い調味料であらう。肉でも魚でも野菜でも、火に掛けて塩で味を附ければ、大体は食べられる。詰り最も古い調理法でもある。製塩の技術が未熟な時代…の稿は手を抜いてゐるから、製塩の技術史を調べてはゐないけれど…海水を天日で干し、或は煮詰めるのでなければ、岩塩を手に入れるとか、そんなところから始つた筈で、すりやあ時の支配階級が獨占したがつた気持ちも解る。

 さて。塩には諸々の種類がある。らしい。

 らしいと云ふのは、そこまで詳しい知識を持たないからだが、そこらのマーケットの棚を眺めるだけでも、複数の塩が並んでゐるのだから、あると云つても誤りにはなるまい。その諸々の塩は、化学的に造られたのと、さうでないのに大別されて、正確を期せば塩の豊かなちがひは、後者の受持ちかと思はれる。正しさの保證は出來ない。

 たかだか塩で、さうまで味がちがふものかね。さう思ひたくなる気持ちは解る。解るけれど、食べ…舐め較べたら、確かにちがふ。粒の大きさで口触りが異なるし、薄つすら甘みがあつたり、言葉にはしにくい何とも複雑さが感じられたりもして、天然塩と呼べばいいのか、その味はひの根つこは、ひとの手が入れられないのだなと思ふ。

 さういふ塩は肴になることがある。使ひこんだ桝の角に乗せ、或は小指の先にちよいとつけて、舐めながら呑む。戯画的な光景だなあと思ふでせう。その通りである。ではあるのだが、どうかすると、たいへんに旨い(と思へる)時がある。ただわたしは肴が無いと呑めないたちだから、何をどうすればさうなるのか、さつぱり解らない。更に云へば、お酒以外に"塩で呑める"酒精が浮ばないのも不思議で、これが山葵なら、日本の固有種だからまだ納得はゆく。塩は云はば必須ゆゑ、ありふれてゐるのだから、適はない道理は無い。残念ながら塩の利きすぎた中華風もつ煮丼を食べながら、紹興酒があればいいのにと思つた。