たれかが踊つてゐる。
ひとりで踊つてゐる。
その周りには人びとがゐて、しづかな踊りを見るでなく、目の隅に入れてゐる。
一心不乱の踊りはいつしか、周りの人びとに移り、大きなうねりになつてゆく。
ラヴェルが呉れた十五分間の奇蹟。
たれが云つたのか忘れた。
忘れはしたが、ここまで書けば、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏は、成る程モーリス・ラヴェルの『ボレロ』の話かと解つてもらへると思ふ。また"唄の話"なのに詞が無いから、"番外篇"なのかと納得してもらへるとも思ふ。いや矛盾してゐるのはいかんと、咜られるだらうか。
音樂にはちやんと理論があるさうだが、そこは解らないから措く。素人の耳には、単純な旋律が複雑に絡んで、気が附けば、こちらの躰まで大きく動く不思議な一曲だから
「凄いすごい」
手を拍ちたくなるだけで、その背景に潜んでゐる筈の膨大で緻密な理論まで気がまはらない。優れた音樂はきつと、さういふものなのだらう。
色々な演奏を聴いた中で、最も印象的なのは、平成廿七年末の東京で、シルヴィ・ギエムが踊つた『ボレロ』だつた。
円い舞台で華やかではない衣裳…といふより無愛想な姿のまま、シルヴィはひとり、踊る。
時に緩かに。
また烈しく。
彼女の周りに控へた東京バレエ団が、軟らかく靭やかな動きに視線を送る。ちらりちらりだつたその視線は、やがて釘附けに変じ、我慢出來なくなつた若ものが二人、四人、八人と、舞台の周りで踊り出し、シルヴィと彼女に導かれた踊り手たちは、最後の瞬間に到る。
どんな瞬間だつたのかは云はない。
併しそれは疑ひなく、奇蹟の十五分間の幕切れに相応しい瞬間だつたし、もしかするとラヴェルの頭の中にあつた『ボレロ』の、あれこそ忠實な再現だつたかも知れない。
百万の詞を費やすより雄弁な時間。
クライバーが振るウィーン・フィルや、カラヤンが振るベルリン・フィルが、この曲を完璧に演奏しても、シルヴィ・ギエムの肉体ひとつには及ばない。カルロスやヘルベルトをくさすのではなく、その雄弁がシルヴィの肉体が發する言語…いや、肉体と言語が熔けあつた時間に根差してゐるからで、こんな例はまつたく稀と云つていい。