閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

618 好きな唄の話~番外篇

 たれかが踊つてゐる。

 ひとりで踊つてゐる。

 

 その周りには人びとがゐて、しづかな踊りを見るでなく、目の隅に入れてゐる。

 一心不乱の踊りはいつしか、周りの人びとに移り、大きなうねりになつてゆく。

 

 ラヴェルが呉れた十五分間の奇蹟。

 たれが云つたのか忘れた。

 忘れはしたが、ここまで書けば、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏は、成る程モーリス・ラヴェルの『ボレロ』の話かと解つてもらへると思ふ。また"唄の話"なのに詞が無いから、"番外篇"なのかと納得してもらへるとも思ふ。いや矛盾してゐるのはいかんと、咜られるだらうか。

 

 音樂にはちやんと理論があるさうだが、そこは解らないから措く。素人の耳には、単純な旋律が複雑に絡んで、気が附けば、こちらの躰まで大きく動く不思議な一曲だから

 「凄いすごい」

手を拍ちたくなるだけで、その背景に潜んでゐる筈の膨大で緻密な理論まで気がまはらない。優れた音樂はきつと、さういふものなのだらう。

 

 色々な演奏を聴いた中で、最も印象的なのは、平成廿七年末の東京で、シルヴィ・ギエムが踊つた『ボレロ』だつた。

 円い舞台で華やかではない衣裳…といふより無愛想な姿のまま、シルヴィはひとり、踊る。

 

 時に緩かに。

 また烈しく。

 

 彼女の周りに控へた東京バレエ団が、軟らかく靭やかな動きに視線を送る。ちらりちらりだつたその視線は、やがて釘附けに変じ、我慢出來なくなつた若ものが二人、四人、八人と、舞台の周りで踊り出し、シルヴィと彼女に導かれた踊り手たちは、最後の瞬間に到る。

 どんな瞬間だつたのかは云はない。

 併しそれは疑ひなく、奇蹟の十五分間の幕切れに相応しい瞬間だつたし、もしかするとラヴェルの頭の中にあつた『ボレロ』の、あれこそ忠實な再現だつたかも知れない。

 

 百万の詞を費やすより雄弁な時間。

 クライバーが振るウィーン・フィルや、カラヤンが振るベルリン・フィルが、この曲を完璧に演奏しても、シルヴィ・ギエムの肉体ひとつには及ばない。カルロスやヘルベルトをくさすのではなく、その雄弁がシルヴィの肉体が發する言語…いや、肉体と言語が熔けあつた時間に根差してゐるからで、こんな例はまつたく稀と云つていい。