閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

104 打掛け

 家の近所に小さな中華料理風のお店がある。十人余りしか入れない小ささなので、名前は出さない。お午時に定食。夕方からは呑み屋と食事処を兼ねた感じの営業で中々うまい。お午の定食は日替りではなく三日替り。月曜日から水曜日、木曜日から土曜日で品書きが変る。麺ものも同じく、三日毎に変るが、こつちはまだ、試したことがない。定食に添へられるソップが、ラーメンのそれのやうでゐて、微かに蕎麦つゆを思はせる匂ひが混じつてもゐるから、麺ものも期待していいだらうと思つてゐる。わたしにとつてのささやかな難点は、煙草を吹かせないことだが(だから何となく通ひにくい)、これはお店の見識。文句を云ふのは筋がちがふ。

 中華料理風のお店なら、炒めものが得意だらうといふのは、当り前の予想で、確かにこのお店は予想を裏切らない。先日は“豚肉のスタミナ炒め”といふのを食べた。豚肉に韮と玉葱を醤で一ぺんに炒めあげたのだと思ふ。大蒜がないのを不思議に思つたが、お午の定食だから、省いたのだらう。ちよつと、残念。これにごはん(大盛りは無料。わたしは普通の盛りにしてもらつた)とソップ、野菜少々に搾菜がついて七百五十円。特段に廉ではないにしても、廉と呼べるくらゐに旨かつた。が、たいへんに困らされもした。お店への苦情ではなく、外のお客への文句でもなく、まつたく個人的な嗜好の問題で、書くのも實は、何となく恥づかしさを感じて仕舞ふ。

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 詰りですね。

 何かと云ふと。

 えーと。

 えい、書いてしまへ。炒めもののお皿に、汁が残るでせう。あすこにごはんを打掛けたくて、仕方なかつたのだ。…ほらね。我が礼儀正しい讀者諸嬢諸氏の苦笑ひが、目に浮んでくる。併しここからは居直ると、あの汁は炒めものの、もしかすると、一ばん旨いところである。たとへばステイクのソースが上塩梅だつたら、パンで掬ふでせう。わたしならさうする。貴女だつて、さうするにちがひない。それは賛辞の表明であるし、こちらの樂しみでもある。上塩梅の炒めもので賛辞を示す樂しみがあるとしたら、お皿にごはんを打掛け、匙で綺麗さつぱり平らげることこそ、それではなからうか。いやわたしは本気で云ふんである。併し實行に移し…移せたのは、二へんか三べんかで、それもある程度馴染んでから、外のお客がゐない時に、こつそりとであつた。我ながら気の小さな態度だなあ。

 それだつたら家で青椒肉絲でも回鍋肉でも、肉野菜炒めでも作ればいい。好きなだけ、ごはんを打掛けても文句は出ないし、呆れられる心配もない。それに半熟卵を落したつて、かまはないぢやあない。といふご指摘はまことに尤も。ただその場合、大して旨くない。素人が作るのだ、塩胡椒と醤油、後は精々生姜か大蒜を使ふ程度だから当然のことで、お金を取れるひと皿を作れるひとは矢張りちがふ。さういふ旨い汁を残さざるを得ないのは、どうにも我慢が六づかしい。どうあれここは、近いうちに再訪して、炒めものをつまみに麦酒をやつつけてから、ごはんを打掛けねばならぬと思つてはゐるのだが、果して實践に到る勇気を持てるのか、甚だ自信がない。