閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

103 ひよいざる

 暑い季節にはざる蕎麦である。と、わたしは必ずしも思つてゐるわけではない。冬のざる蕎麦だつて惡くはないもの。うまい麺ものは春夏秋冬うまいもので、ただざる蕎麦が旨く感じられるのは確かに夏かも知れない。ここで我われは、もり蕎麦といふ呼び名を思ひ出す。呼び名が異なるのは何かしらが異なつてゐるからで、何が異なつてゐるかはよく判らない。刻み海苔の有無とか、つゆに一番出汁を用ゐるかどうかとかの説は、聞いた記憶があるが、本当なのかどうか。この稿ではざる蕎麦で押し通す。

 蕎麦史は遡りだすと切りがない。日本の固有種でないのは確實で、縄文人も食べてゐた節があるさうだが、今の蕎麦と同じ系統なのかどうか。そこのところは判らない。ある程度は信用してよいだらう記録でも、八世紀以前にははつきりとあつたらしい。よくもまあそんな時期(上代から古代への移行期…やうやくヤマトの政権が固まらうかといふ頃である)にと思ふが、もしかしたら佛教と一緒に調理法がやつてきたのだらうか。尤も現代の我われが蕎麦と呼ぶ食べもの…蕎麦切りが出來たのは十六世紀くらゐだといふから、意外なほど歴史は浅い。それ以前はお粥や蕎麦掻きの類で、我われの遠いご先祖は、蕎麦が喉を滑り落ちるあの感覚を知らなかつたことになる。

 今に繋がる蕎麦切り…蕎麦がいつ頃、成り立つたのかも、よく判らない。どれだけ遅くても、十八世紀には野田や銚子の醤油が大完成に到つてゐることから、その頃には蕎麦つゆも現代に繋がるものが出來てゐたと考へられるから、蕎麦の完成もその前後ではなからうか。何かで調べ、また確かめたわけでもないから、ただの推測だけれど。但し蕎麦を備荒食から、ちよいと恰好のいい食べものに昇華させたのは、間違ひなく江戸人で、東都の人間は胸を張つていい。後はさう、天麩羅と早鮨を含めてもいいだらうか。たかだか三百年かそこらで、これだけ作り上げたのだから大したもので、どうもこれは、江戸町民の外食好みが原因らしい。さうなつたのは人口の男女比で云ふと、あの町は男性が多い…といふより多すぎたらしく、そこそこの腕があれば日錢を稼ぐのは困らなくて、“宵越しの錢は持たねえよ”といふ見栄はそれで成り立つた。かういふ連中がめしを炊き、まめまめしく魚を焼いたり、味噌汁を作つたりするものか。小錢があれば屋台の天麩羅をつまみ、或は風呂上り早鮨をつまみ、そして蕎麦を啜りもしただらう。店の親仁だつて、客を呼び込む工夫を凝らしたにちがひなく、詰り町全体に外食…蕎麦を洗練させる環境が整つてゐたと想像出來る。その洗練の速さは何かを連想させて、わたしの場合はニュー・ヨーク…もつと大きく亞米利加と云つてもいい…である。外の土地からひとが流れ込んできて、流行りが凄い速さで変化する騒がしい町。但しニュー・ヨークは今に到るまで、変化しかないと思はれてならないけれども。

 江戸とニュー・ヨークの比較に意味があるのだらうかと訊かれたら、何となくさう感じたのですと応じざるを得ないとして、江戸人は変化の継續より、洗練の完成を歓んだのだらうとは、容易な想像である。ざる蕎麦がほぼ完成したのがいつ頃かは口を噤む…噤まざるを得ないが、所謂“名店”で啜るざる蕎麦は、変化する味覚の嗜好に対処はしてゐても、骨組みはそのままの筈で、ニュー・ヨークに“メイフラワ・バーガー”があつたとして、当時の味や作り方を偲べるかと考へると、首を傾げるのがごく当り前の気分ではあるまいか。良し惡しではなく、これは文化があつて文明を手にした日本と、いきなり文明で成立した亞米利加とちがひなんである。…失礼、無駄な方向に広がつて仕舞ひましたね。ざる蕎麦に話を戻すとして、ざる蕎麦それ自体を旨いと思つて食べたいなら、立ち喰ひではない蕎麦屋に足を運ぶ方がいい。立ち喰ひ蕎麦屋の場合、必要以上に冷すことで、蕎麦やつゆを誤魔化す傾向がある。ここで我われはハーヴェイ・ロヴェルを思ひ出す。あの名高いアル中のガンマンが、パリのマーティニを懐かしんで云ふ場面。菊池光の名訳を引きますよ。

「グラスがうっすらくもるていどに冷すのだ」やわらかい声で続けた。「凍らせてはいけない。凍らせるとたいがいのものは一応うまく見せかけることができる。ついでだが、それがアメリカを治める秘訣なんだよ、ケイン。本当はくだらないオリーブやオニオンは入れない。ただ夏の薫りだけなんだ」

哀切きはまりない科白で、“くだらない”オリーヴやオニオンを入れない、“グラスがうつすらくもる”くらゐのマーティニを、パリでゆつくり、呑みたくなつてくる。まあパリに行ける気配は当面、見当らないから無理にざる蕎麦へ引き寄せると、これは殆どそのまま当て嵌る。殆どと云ふのは、蕎麦とつゆを冷しすぎることが、我が國を治める秘訣かどうかあやしいからだが、政治の話は面倒だから省略して、立ち喰ひのざる蕎麦は、蕎麦を冷たく喰はせることに八割方の力を注いでゐるから、冷静な気分で啜ると、大して旨くない。但し蕎麦それ自体ではなく、蕎麦の食べ方を試すなら、あれは惡くない。つゆに半熟卵を落としたり、蕎麦に七味唐辛子を振つたりするのは、蕎麦屋好きに云はせると、信じられず、許し難い蛮行であらうが、さういふ蛮行を認める妙な懐の深さが立ち喰ひ蕎麦屋にはある。慌てて念を押すが、流石にしやんとした蕎麦屋では、さういふ眞似はしませんよ。それくらゐは心得てゐる。心得つつも併しざる蕎麦は食事なのか知ら。蕎麦屋で呑むのがちよつとした贅沢なのは判るのだが、食事の部分は、鴨や玉子焼き、板わさ辺りが担当して、蕎麦自体で空腹を満たすのは、本筋から半歩ほど逸れてゐさうな感じがされる。さう思ふと寧ろ午后の中途半端な時間帯、それほど空腹ではないとして、何か腹に入れてもいいかと感じた時に、ひよいと啜るのが、ざる蕎麦に一ばん似合ふ景色かと思へる。

 …とまあ、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏よ、くだらない能書きは横に置いて、共に蕎麦の薫りを樂しまうではありませんか。