閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

740 たれでも持つ一家言

 何のラヂオ番組だつたか、"けふのお便りテーマは、炒飯の具で、好きなのを教えへてください"ですとやつてゐた。莫迦ばかしくて宜しい。

 

 前提として炒飯は、ごはんと卵を塩胡椒で炒めて完成するのだ、と我われは認識しなくてはならない。ごはんの温度、卵を入れるタイミング、塩胡椒以外の調味なんぞは、百人ゐたら百通りの回答がある。でなければ、"けふのお便りテーマ"が成り立つまい。

 

 ではその炒飯の具には、何があるか知ら。

 煮豚と長葱。

 ハムやソーセイジ。

 竹輪或は蒲鉾。

 細切りの豚肉。

 海老に貝柱でなければ鮭。

 玉葱。

 レタース。

 

 生姜や大蒜は具の括りか、調味料か…使ひ方次第だらう。

 他にもベーコンや茸の類、蟹(またはかにかま)、高菜漬けを用ゐる例があるさうで、何でもありですな。更に味附けは塩胡椒なのか、醤油にするか、ウスター・ソースかオイスター・ソースか豆板醤か、組合せまで考慮すると、百通りでも済みさうになく、ラヂオ番組のひとは、莫迦ばかしいけれども中々巧妙な、"けふのお便りテーマ"を考へたものだ。

 

 こちらの好みを云ふと炒飯は、派手はでしくない方が旨さうに思ふ。あれこれ賑やかに入つてゐると、そのあれこれが喧嘩しさうな不安がある。刻んだ葱と少しの煮豚とか、鮭のほぐし身にレタース。お皿の隅には紅生姜がほしい。それからソップを一椀。流石にこの場合、お味噌汁はこまる。ほら町中の中華料理屋で炒飯を註文したら、ラーメンから転用したと思しきソップが附くでせう。ああいふのがいい。

 

 ここで気になるのは、ごはんを炒めるといふ手法である。わたしの記憶だから、信憑性はその分、差引いてもらふとして、焼き餃子は元々、水餃子の余つたのを翌日に食べる方法だといふ。炒飯も同じやうな切つ掛け…事情で成り立つた、とは考へられないだらうか。これもどこかで聞き及んだ話をすると、中華料理圏の人びとが來日して、どうにも閉口するのは、お弁当の冷やごはんらしい。あちらのひとにとつて、ごはんは熱い食べものなのだといふ。

 

 であれば、前日の炊き残りのごはんを食べる、といふ目的の為に、一方でお湯や出汁で烹る技法が生れ(要するにお粥だね)、他方(多量の油で)炒める技法に到つたと想像して、強引と批判される心配はせずに済みさうである。

 ぢやあ熱いごはんを重く視るのは何故だらうと思へて、ここからは推測といふより妄想だが、火や油を浪費、ではなく贅沢に使へたのが、王侯貴族を喜ばせたと考へたい。どこで目にしたか、初期の炒飯で用ゐられた具は卵ださうで、笑つてはいけません。卵…鶏卵を安定的に供給するのは中々の困難に属する。日本でいへば、明治以降にやつと成功したと思へば、古代中世の宮廷で炒飯は、たいへんな御馳走だつたと見る方が實態と云つていいと思ふ。

 

 うーむ。前段で、"派手はでしくない方が旨"さうに思へると書いたのは誤りだつたかなあ。

 確かにひとり当り、二個か三個の卵を奢つた炒飯を思ひ浮べると、豪華と呼べるかはさて措き、花やかなのは間違ひない。かうなると海老だの蟹、煮豚ですら多少なり、邪魔に感じられなくもなくて…莫迦ばかしいと笑ひつつ、ここまで考へさせられたのを、ラヂオ番組のひとの計算に乗せられたとは考へたくない。寧ろ簡潔な料理(たとへばお味噌汁や野菜炒め)を目の前に、たれでも持つ一家言の所為であらう。正直なところ、中々に愉快であつた。