閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

116 黄金の組合せ

 黄金タッグと云つて、ぴんとくるひとは多くないかも知れない。プロレスのタッグ・マッチで使はれるくらゐだらうから。

 ジャイアント馬場アントニオ猪木

 ザ・シークとアブドラ・ザ・ブッチャー

 ブルーザー・ブロディと“スーパーフライ”ジミー・スヌーカ(ブロディとスタン・ハンセンの“超獸コンビ”も凄かつたなあ)

 タイガー・ジェット・シン上田馬之助

 黄金とは呼びにくい気もするが、三沢光晴小川良成のタッグもよかつた。武藤敬司太陽ケアを相手にしたGHCタッグ戰は痺れたもの。因みに云ふ。この試合が三沢武藤の初対決で、この後に全日本のマットで(武藤のデヴュー二十周年記念)ふたりはタッグを組んでゐる。相手は佐々木健介馳浩。こちらもお祭りに相応しいタッグ・マッチだつた。このタッグ・マッチほど、プロレスをプロレスたらしめてゐる要素はないかとも思へて、柔道にも空手にも相撲にもボクシングにも、それはまつたく見られずプロレスの側から云へば、すべてシングル・マッチなのがさう思ふ理由。

 …仕舞つた。

 プロレスの話をしたいのではなかつた。うつかり黄金タッグで始めたのはいいけれど、逸れすぎてゐる。大急ぎで戻しませう。では何の話をする積りだつたのか。さう、食べものの素晴らしい組合せ…これ即ち黄金タッグの結成で、かういふ時の変な連想は困りますな。

 それで今回は韮玉を取上げたい。何故かと云へば、玉子と香草はどちらもわたしの大好物だからで、外に理由がなくたつて、かまはないでせう。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏にだつて、自分が好きだから話したい黄金の組合せ(最初からかう書けばよかつたのか)が、きつとあるにちがひないさ。

 ところで韮玉と書いて、頭に浮ぶのはどんな仕上りだらう。多くのひとは韮の卵とぢ…親子丼の頭のやうな姿(さう云へば寡聞にして、韮玉丼といふのは耳にした記憶がない。何故だらう)を想像すると思ふ。わたしもさうである。そのとぢ方が、そのまま丼めしに乗せたくなるやはらかさか、卵焼きに寄つた堅さかの相違。わたしは匙で掬へる程度の柔らかい仕立てを好むが、併しさういふ仕立てでない韮玉もあつて、某居酒屋の韮玉は薄堅く焼いたのを、丘のやうに円く盛つたキヤベツに乗せてきた。お好み焼の変形といふか、亞流といふかそんな感じ。別の居酒屋では甘辛く煮立てたつゆで韮をさつと焚いて、そこに溶き卵を流し込む式で出してきた。どちらも旨かつた。

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 どちらも旨かつたが、ここで大事なのは、ひと口に韮玉と云つても色々な姿がある点。たとへば福岡の天麩羅饂飩は薩摩揚げが乗つてゐるさうだし、福井でかつ丼と云へばソースらしいから、うつかりするとこちらが思ふ天麩羅饂飩やかつ丼でないものが出てくる可能性があるのだが、韮玉のちがひはそれどころではない。韮玉煮だつたり、韮玉焼だつたりするわけで、どちらにしたつて韮と玉子の組合せの黄金タッグは揺るがない。そこに過日、仲間入りしたのが品書きに曰く、鶏肉入り韮玉。親子丼(の頭)風でくるかと思つたら、炒めもので登場した。塩胡椒の韮と玉子に、うつすら醤油風味の下味を纏つた鶏肉が乱入してゐて、實に旨い。定食だつたのだが、三分ノ一も食べない時点で、麦酒(ここで出すのはアサヒの熟撰)を呑まないのはひととしてどうだと気が変つた。適はない道理があらう筈もない。これは“親子韮玉”と名づけるべきだよなあと妙な感想を抱きつつ、すつかり平らげてから、韮玉と麦酒もまた、黄金タッグと呼ぶのに相応しいと確信した。

115 ひとつの理想

 カメラ…フヰルム、デジタルに関はりなく…の理想形は何だらう、と訊いた時、万雷の拍手をもつて受け容れられる結論が出るとは思へない。鳥を撮るひとと花を撮るひとと星を撮るひとで、それが異なるのは当然だから、結論が出ないのもまた当然と云つていい。その為にレンズ交換が出來るカメラがあるんだよ、といふ指摘は一応のところ正しいとして、併しレンズ交換式が望ましい形なのかとの疑問は残る。詰り結論が出ない。ただここで出ないのは、共有出來る“カメラの理想系”であつて、漠然でも具体的でも、カメラ好きには個々のそれがある。なのでここから先は、わたしが理想だなあと思へるカメラの姿を書く。

 

◾️コンパクトであること。

 小さく、軽く、持運びに不便のない形状を纏めて、かう呼びたい。これでなくては、そもそも使ふ積りになれないもの。

 

◾️操作はダイヤルとレヴァが中心で。

 古いカメラ…たとへばライカを見れば、絞り値とシャッター速度と焦点の位置が、直ぐに判るでせう。ああいふのが望ましい。

 

◾️フラッシュ及び動画撮影機能の類は不要。

 これはごく単純に使はないから。序でにモノクローム以外の画像加工や変換の機能も要らない。

 

◾️アクセサリ・シューと三脚穴は必須。

 案外省かれることがあるので、念の為。

 

◾️ストラップは二点吊り。

 三点吊りならもつといい。

 

◾️露光の調整はプログラムと絞り優先。

 これだけで十分だから。絞り環があれば切替へだつて樂だらうし。

 

◾️フォーマットは4:3と1:1で。

 これも十分。レヴァで変更出來るのがいい。

 

◾️マニュアルフォーカスは不要。

 多点測距も要らない。但しレヴァで焦点の位置を操作出來るなら、それはちよつと慾しい。

 

◾️スポツト測光は必須。

 多少の馴れは求められるけれど、そこを乗り切れば非常に使ひ易い。上記のレヴァで測光点を撰べれば、なほ便利だらうと思ふ。

 

◾️高速の連寫や超高感度は要らない。

 連寫に関してはまつたく興味がないし、感度もISO100~800が使へれば問題ではない。

 

◾️好みの設定は保存出來る方がいい。

 ダイヤル式ならその心配は要らないかも知れないが、細々しいところを一括で保存して、一發で呼び出せるのに越したことはないでせう。

 

◾️バッテリは乾電池にも対応で。

 さう滅多にあることでもなからうが、いざといふ時に、かういふ保険がある安心感は大切だと思ふのである。

 

◾️レンズは28ミリ/F3.5くらゐ。

 ぼけは求めない。開放から全体にシャープであればよい。現代の設計でこれくらゐのスペックなら、容易な解なのではないか知ら。併せて

①最短撮影距離は10センチ未満。

②ズームは要らないが、コンバージョンレンズ等で21ミリと50ミリに対応してもらひたい。

③最小絞り値はF16か出來ればF22で。

といふところを求めたい。仮にズームを採用するなら、24-35ミリのF4だらうか。そんなら28/50ミリの2焦点切替へにコンバージョンレンズも考へられる。たださうなると最初の“コンパクトな”といふ條件から外れるにちがひない。無理をするくらゐなら28ミリ単焦点に注力してもらふ方が、好もしい結果になるだらう。

 

 かう書くと、少々マニヤックな讀者諸嬢諸氏からは、なんだリコーのGRか、その前のGRデジタルがほぼ、相当するぢやあないかと云はれるかも知れず、またその指摘がほぼ正しいのは認めざるを得ない。實際、GRデジタルの2型は一時期愛用もしたが、そのGRデジタルは既に造られてゐない。現行のGRはスタイリングに難がある。その難を説明するのは六づかしいが、GRデジタルで完成したスタイルを、拡大コピーしたことで、それが弛んで仕舞つたと云へば、漠然とでもわたしの云ふところが解つてもらへるだらうか。自分で云ふのも何だけれど、この辺りの評価…といふより好ききらひは、それなりに微妙な要素、或は感情が混ざるものなんである。

 それで上に挙げた條件…要望を満たし、1インチかそれより小さい程度の程度の素子サイズの機種を、3万円~5万円で出してもらへはしないか。わたしは金属にフェティーソを感じないたちだから、プラスチックを多用しても(但しスタイリングはプラスチックを活かしてもらはないと困る)かまはない。それで2万円くらゐ追加すれば、3年とか5年とか、アップデートその他諸々、面倒を見ますよと云へば、飛びつくひとはゐるのではないか知ら。カメラ…ことにコンパクトなカメラが賣れないのは、カメラは賣れば終り、後は新型を買つてもらはうとメーカが考へて、そのカメラを含めた使ひ方や寫眞の見せ方を放擲してゐるからで、やつてゐますよと云ふなら、その方法は間違ひだと知つた方がいい。カメラに10万円を出させるのではなく、10万円にはカメラと寫眞の樂しみ(それからトラブルへの対応)も含まれてゐるんだよと、そろそろ方向を変へたつていいんではないかと思へるし、その先鞭をつけるのが、わたしの理想だと思ふカメラであれば、實に喜ばしいのだけれど。

114 閑文字流

 讀書感想文といふ夏休みの宿題は今でもあるのだらうか。課題図書を讀んで、感想を書きなさいといふやつ。本に親しみ、讀書の習慣を身につけるとか、そんな名目だつた記憶があるが、その名目に讀書感想文ほど不似合ひな課題もない。小學生中學生程度の作文術では、まだまだ未熟なのが理由の第一。感想文は批評の一種なのだから、小中學生には余りに高度な思考が要求されるのが理由の第二。嘘だと思ふなら、書評と称する文章を二つ三つ、讀んでみればいい。相当の讀み巧者が書いたものでない限り…詰り圧倒的且つ絶望的に少数…、詰らないと気づくだらう。具体的にどこのたれと喧嘩を賣るのはあれなので、惡い例として、この手帖の“本の話”を挙げておかう。大人が書いてそれなのに、子供にそれを求めるのは、最早いぢめの域ではなからうか。大体、讀むのを強制された本なんて、残さず食べませうと強要された給食のピーマンくらゐ厭なものである。

 ところで仮に今も、讀書感想文といふ虐め…ではなかつた、宿題だね、宿題があるのなら、手をつけないわけにはゆかないでせう。ではそれをどう書けばいいか。ここから[閑文字手帖]流に解説をするのだが、先づ、讀むのは讀んでもらはないと困る。詰らないかも知れないし、面白く讀めるかも知れない。それはきみと本の相性なのだし、面白く讀むべき理由はない。そもそも強制されて讀んだ本が面白かつたとしたら、それは幸運なのだから、気にしなくて宜しい。それで讀みながらでもいい、讀んでからでもいいから、その本がどうして、詰らない(面白い)のだらうと考へませう。

 ・主人公の言動が恰好よく思へた。

 ・登場人物の科白まはしが納得出來なかつた。

 ・お説教されてゐる気分だつた。

 ・愛らしい女の子が出てきて嬉しかつた。

 ・何が書かれてゐて、何を云ひたいのか、さつぱり判らなかつた。

全部を取上げなくたつて、かまはない。寧ろ幾つか出ただらうその中で、ひとつだけ…きみにとつて最も印象の強いことを取出して、たとへば主人公が恰好いいなあと思つたのなら、何故恰好よく思つたのかを書かう。痺れる科白があつたとか、危機一髪の時の決意とかね、さういふことを書けばいい。仮にそんなの丸でなくたつて、嘆く必要はない。丸でなかつたのだつて、讀んだ時に感じたことである。感動もせず、反感も持てなかつたのなら、それを率直に、その理由を出來るだけ書けばいいんです。

 それをね、どう書けばいいのかが、判らないんだよと頭を抱へるきみ、安心し玉へ。わたしは親切だから、その点もちやんと教へてあげます。非常に簡単で、たつたひとりを思ひ浮べませう。両親でも兄妹でも、親友でも、たれにも内緒にしてゐる好きなあの子にでもいい。そのたつたひとりを頭に浮べながら、この本は面白かつたよと、或は詰らなくて残念だつたなあと、伝へる積りで書かう…笑つちやあ、いけません。不特定多数の讀者を想定するのに、きみたちは未熟だし、担任の先生が大好きなら話はちがふが、でなければ、わざとらしい恰好つけになつて仕舞ふ。きみにとつて特別なひとりに、耳打ちするやうな気分(さう、ラヴレターみたいな)で書けば、自然と言葉は丁寧に撰ばれるのだから。

 さて。ここからはおまけ。詰り小中學生向けではない讀書感想文…別名を書評…に少し、話を広げませう。この場合、大切になるのは比較である。もうひとつの條件に俯瞰もあるのだが、そちらは今回、触れずに比較だけを取上げる。たとへば『私の食物誌』といふ本がある。吉田健一の名著。これについて書かうとする時、吉田が書いた外の食べものに纏はる文章は当然として、別の著者による食べもの話や、この本が發行された当時(昭和五十年前後)の食べものに関する話題や本も知つておきたい。さういふ事柄にすべて触れる必要はない。たださういふ流れや周辺と比較することで、一冊の本が著者の中、時代の中、ある範疇の中で、どんな位置を占めるのかが、立体的に浮んでくる(但しそれを緻密に行ふには俯瞰の作業が不可欠になるのだが)その位置づけを示し、また美点と欠点を示すのが、我われが求める“本についての文章”で、さういふ書かうとした場合、関連するところも含めれば五冊十冊(もしくはそれ以上)に目を通すのが基本になる。かう云へば、自称書評が詰らない理由がはつきりする。その一冊か精々前作しか讀んでゐなくて、底の浅い文章にならない方が寧ろ不思議ではなからうか。…書いてゐて、おれはどうなんだと自問が浮んできたから、最後に[閑文字手帖]で書いてゐるのは、あくまでも“本の話”であつて、書評ではないのだと云ひ訳をして終りにする。

113 贔屓

 初めて使つたスマートフォンはhtcのbutterflyで、型番は忘れたけれど、4年とか5年くらゐ前のモデル。3年ほど使つたが、2年かそこらでバッテリが駄目になつて、今の機種(シャープのAQUOS SHV33)に換へ、butterflyは家で目覚し時計とサイマルラヂオの専用機にしてゐる。尤も最近、加熱か何かでバッテリが膨らんできたから、そろそろ使へなくなるだらうと睨んでゐる。

 そのbutterflyで主に撮つたのは、居酒屋で出されたお刺身や、その辺の定食、母親が用意して呉れた晩ごはん、立ち喰ひ蕎麦、うまいお酒や葡萄酒のラベル、その他、諸々で、2,000枚とかそれくらゐは記録したのではないかと思ふ。勿論シャープでも續けてゐて、閑なひとだなあと呆れられるか知ら。それはその通りだが、かうでもしないと、何を食べ、或は呑んだか、記憶から抜け落ちることがあつて、詰り老人となりつつある脳みその、外付けハードディスクのやうなものだ。こんな場合はデジタルカメラだと、カメラである分、持ち重りが感じられるからいけない。

 但しbutterflyのカメラ機能には随分とこまらされて、何かと云へば、ホワイトバランスが破茶滅茶なんである。必要以上に赤が強調され、何と云へばいいか、サイケデリックな感じになる。まさかと思ふなら、添へた画像をご覧頂きたい。わたしが愛してやまないたぬき蕎麦だが、こんな莫迦げた色みのたぬき蕎麦なんて、あるわけないと思ふでせう。わたしもさう思ふ。そして實際のたぬき蕎麦も確かにこんな色合ひではなく、寫眞といふ言葉の意味を疑ひたくなつてくる。いやまあ寫眞が“眞實を寫す”のかと云へば、決してさうではない(この話は長くなるから、ここでは論じない)のだけれど、これだけ破茶滅茶だと、htcのひとが寧ろ、何らかの意図をもつて、こんな風に調整したのかとも思ひたくなる。

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 いやいや。そんなに穿つた見方は要らなくて、単にその辺の作り込みが下手だつたんだよ、と意地惡く、口惡く、見立てることも出來なくはないし、冷静に考へれば、そつちが正しいのだらうなとも思ふのだが、それだと詰らない。詰つたからどうだと云ふと、何でもなく、たとへば撮つたその場でたれかに見せて、なんだこれはと笑ふくらゐであらう。それにさういふ寫り方になると判つてゐれば、さういふ寫り方をすると思つて撮れるのだから、不便はあつても不快ではないし、一ぱい分ほどの話の種にもなる。だとすると、あのホワイトバランスの崩れは、ある種の個性なのだと理解することも出來なくない。スマートフォンのカメラ機能なんぞは所詮、おまけなのだから、思ひ切つて無理をしてもいいんではないか。ちやんと撮らうと思ふなら、ちやんとしたデジタルカメラを使へばいい。だとすればもしかして、butterflyのカメラ機能は、そのひとつの方向を示してゐたのかも知れない…と考へるのは、元ユーザの贔屓目に過ぎないけれど。

112 用件

 何用あつて月世界へ。

 月は眺めるものである。

 と嘯いたのは山本夏彦だつたと思ふ。斬れ味のすすどさは類を見ないけれど、そのすすどさはアナクロニスムを突き詰めた結果だから、そこに目を瞑ると惡醉ひして仕舞ふ。それで溺死まで進めれば李白のやうだと呼ばれるかも知れないが、疑ひなく、褒められる様とは呼べますまい。

 併し月は眺め、また見上げ、或は舷から手を伸ばすだけではない…即ち“月見”がそれ。

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 蕎麦でも饂飩でも“月見”はあるけれど、蕎麦の方が旨いと思ふ。東京風の濃いつゆに、黒々とした蕎麦、そこに卵が浮ぶと、如何にも月夜といふ感じがされて、いい眺めである。饂飩だとその辺りが曖昧になるし、ことに大坂風の淡泊なつゆだと却つて、卵が味を薄めるから感心出來ない。

 本当はここにひと刷毛、とろろ昆布が慾しい。それで丼に“月に叢雲”が出來上る。本來の月見蕎麦が果してさういふものなのかどうか、それはわたしの知るところではないが、その方が“月見”の名前に似つかはしいのではなからうか。そしてさういふ月世界は、我われにとつて大きに用件があることになつて、溺死の心配なく、その月は箸で摘まめもするし、眺めるだけでは収まらなくなる。