閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

235 おでん礼讚

 冬はおでん。

 と決めつけていいのかどうかは、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏に委ねなくてはならないかも知れないが、わたしにはさう思はれる。尤も毎日食べたいものでもない。但し食べたくなると食べるまで我慢出來なくなる。

 不思議である。

 いや本当に不思議なのかどうかには疑問が残つて、たとへば毎日食べたいわけではないから、美味くないかと云ふと、そんな筈がないのは今さら強調するまでもない。ならば不思議だと思ふのもをかしなことになる。

 といふよりも。

 さういふ理窟を捏ねるのがそもそもの誤りなので、背中に寒さの欠片が貼りついたまま、湯気の立ち上る壺だか鍋だかを見て、思はず頬を緩めるのが、おでんへの望ましい態度である。まづはお燗酒を一本もらはう。

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 品書きを見つつ、さて何から食べませうか、と考へ…いや迷ふところから、おでんは樂しい。目移りするのは、旨さうな種がたくさんあるからで、旨さうな種がたくさんあるのだから、ゆつくり飲んでも困る心配はない。まつたくのところ、嬉しいではありませんか。

 大根。

 厚揚げ。

 牛すぢ。

 餅巾着。

 結び菎蒻。

 飯蛸。

 焼き豆腐。

 註文はまあ精々ふたつづつくらゐ。熱いのを食べたいもの。なーに、気取つた鮨屋ぢやあないんだから、順番なぞ、どうだつてかまはない。変り種があれば、試すのも一興だらう。

 食べては追加し、追加しては食べる。

 途中に飲む。飲み切つたらお代りを頼むだけだから、實に安直である。また安直だから旨くもあるので、これが仮に昆布と練り物には山廃生酛、それ以外なら純米吟醸が常道だとか云はれると、煩はしさが先に立つ。さういふのは儀礼的な宴席に任せ、我われはそれを横目に飲めばいい。とは云へ、わたしにはひとつだけ、〆る直前にうで玉子を頼む決り事がある。黄身をつゆに崩して飲むのがまた美味い。

234 積極的に

 前々回、前回とパナソニックGF3を題材にはしやいだので、それに関連させ、もう少し續ける。

 GF3はマイクロフォーサーズ(以降はMFTと略す)といふ規格を採用してゐる。MFTはフォーマットの大きさのひとつ。ほらフルサイズとか、APS‐Cとか、聞いたことがあるでせう。あれらの中でMFTは小さい方に属する。

 この小ささに長所短所があるのは勿論で、長所短所は使ひ方の範疇だから区別せずに云ふと


①ボディがそれなりに小さく出來る。

②レンズは中々小さく出來る。

③ぼけを出しにくい。

④望遠の撮影に強い。


ことが挙げられる。③に関しては異論もあるだらうが、基本的にはさうだと考へればいい。いづれもMFTといふ大きさ…小ささゆゑか。わたしの場合だと、④以外は長所と呼べる。ことに①と②の組合せは大切である。

 小型軽量。

 且つそこそこ寫るのがMFTの利点。そこそこでは困る。何がなんでも画質なのだと云ふひとは、より大きなフォーマットを使へば宜しい。但しボディやレンズの大きさと重さは、そのサイズに正比例するから、色々の覚悟は必要になるが、わたしはその覚悟を持合せてゐない。

 といふより、わたしくらゐ擦れると、カメラとレンズの性能が、寫眞と直接関係しないのを理解出來るから、大きく重い、持ち出すのに躊躇はれるフォーマットを撰ばうとは思はなくなる。極論を云ふと(失敗りの可能性は高くなるかも知れないが)、使ひ捨てカメラでも優れた1枚は撮れる。寫眞といふ遊び…稀に表現であり藝術は、技術(テクノロジ)ではなく、技術(テクニック)に属するからで、さう考へれば、非常にプリミティヴな樂しみだとも云へる。

 話が堅苦しい方向に逸れさうだ。

 元に戻しませう。

 勿論、室内…家の中でもスタジオでも…で撮らうといふなら、フォーマットの“小ささ”に膠泥しなくてもいい。ジッツオやハスキーを立て、フルサイズでもブローニーでも好きに出來る。或は明確な目的があるなら、合目的的なカメラ(とレンズ)を撰ぶのが正しい。当り前の話。この手の撰択をするひとはプロフェッショナルか、それに近いと思はれて、詰りわたしとは丸でちがふ。こちらは何といふ理由もなく持出し、何といふ理由もなく撮る為のカメラだから、ジッツオもブローニーも遠慮したい。

 成る程、それでMFTか。とは云へ小さいのが好もしいなら、1インチのニコン1や更に小さなフォーマットのペンタックスQがあるよ。といふ指摘があつても不思議ではない。そこは尤もであると、一応は認めた上で、併し手に持ちまた撮るには、掌に適切な大きさがあるもので、わたしにとつてはとちらも小さすぎるのだと呟かざるを得ない。仮にその点は目を瞑れたとしても、操作性がたいへん惡くなるのは我慢ならない。その点を含めると、MFTくらゐが限界のサイズだらう。


(但し我がGF3の操作性が優れてゐるとはとても云へない。“解り易い”タッチパネルに機能の多くが隠されてゐる所為で、露光補正も面倒になる。にも関はらずそれを諒としたのは、ボディキャップ・レンズを使ふといふ目的なら問題にはならないと判断したからに過ぎず、もしMFTの1台目を撰ぶとしたら、検討の対象にも挙がらないことは、念押ししてもいいと思ふ)


 要は“失敗りの恐れが(比較的)少なく”、また“操作に不便が(少)ない”、それで“持ち歩くのに躊躇を感じにくい”バランスを感じられるのがMFTなんである。勿論この感覚はわたしひとりのもので、ライカM3こそ最高ですとか、ニコンDfに勝るものはないのだよとか、さういふ意見があつても不思議ではなく、またそれらは、それぞれの個人で正しい。その中で“敢て”ではなく…“敢て”といふひとは少なからずゐるのだが…積極的にMFTを撰ぶ人間もゐるのだと主張してみたくなつた。最後にひとつ文句を云ふと、この3年くらゐ、MFTのボディはスタイリングが本当に酷くなつてゐる。無闇に巨大なフラグシップと玩具めくエントリーに別れて仕舞つて、これぢやあ(最初の)撰択肢には入れない。勿体無いと思ふんだがなあ。

233 買はないよ([232 これしか出來ない]の續き )

 どうもGF3を気に入つたらしい。

 何しろきはめてコンパクトな組合せである。

 本体にボディキャップ・レンズが2枚と充電器。

 これ以上増えるかどうか…仮に増えるとして、パナソニックの14ミリ/F2.5でなければ、オリンパスの17ミリ/F2.8程度だから、容積を考へれば、殆ど同じだらう。マイクロフォーサーズの主役機がGF1なのは、今のところ変更の予定はないから、その辺も一応は頭に入れておく必要はある。

 さて。これくらゐコンパクトになると、問題になるのは、GF3をどう持ち運ぶといふことで、意外に六づかしいから、驚いてゐる。廉価に入手したのだから、何かを買ひ足さうとは思はない。それで手元のがらくた箱を引つ繰り返すと、LOGO by hama のソフトケイスとシグマのポーチがあつた。どちらもボディキャップ・レンズの9ミリをつけて綺麗に収まる。15ミリの方は、UNのリアキャップ(両面式のやつ)をつけ、コンタックスG1のフラッシュ用ケイスに、充電器は無印良品の小物入れに入れた。

 ここまではいい…少なくとも惡くない。

 但しこれで解決ではなく、これらをどう持ち歩くのかといふ問題が續く。いやいや充電器まで持ち歩かなくたつていいでせうにと反論が出るだらう。正しい指摘だと思ふ。GF1だとそんなことは考へない。ただGF3だとミニマム(と云つても許してもらへるだらう)なので、全部を纏めたい慾求を感じて仕舞ふ。呆れられるにちがひないが、さういふ性分だから仕方がない。エツミのE-3139といふ小さなカメラバッグなら、すつきり収まるのは確かめたが、こちらは普段使ひの鞄にはふり込みたいから、即採用とは云ひにくい。

 悩ましい…まつたく悩ましい。

 ひとつに決める必要はないのだ、と居直る方法もあるにはある。併し居直り気分が残るのはどうも宜しくない。さう思ひながら、更にがらくた箱を引つ掻きまはすと、オリンパスのレンズポーチ(LSC-0918、これは何故かふたつもあつた)、コニカのレンズポーチ(CAMH28--00)と、型番がはつきりしないニコンとキロンのレンズポーチが見つかつた。自分で買つた筈なのに、何がなんだか判らない。尤もあれこれ入れてみたが、中途半端であつた。レンズポーチだからだらう。

 だつたらカメラ絡みのアクセサリに膠泥しなくてもかまふまい。さう思つて別のポーチを探してみたが、入りはしても気持ちよく収まらない。気持ちよくとはどういふ意味だと訊かれても、ぎちぎちにはならず、緩すぎもせず、無理なく綺麗に入つて、それが持出し易い、そんな感じかなあと云はざるを得ない。甚だ曖昧である。気持ちの話だもの、仕方ないぢやあないか。といふのも居直りであるかと思へる。そこまで煩く云ふなら、納得出來るポーチでも何でも買へば済むですよと忠告して下さる方もをられさうで、合理的な解決だらうなとは思ひつつ、それだと敗けた気がする。何と戰つてゐるのかは知らないが。

 といふことは、今はのんびり構へる外はないのだらうか。確かに毎日使へば、落ち着くところに落ち着くといふ期待は持てるし、おそらくその収まりが最も好もしいとも思はれる。ただそれはそれ、これはこれでもあつて、我ながら曖昧で腰が坐らない。その理由を考へるに、GF3を気に入つたから、持出す時もさうしたいと感じてゐるのだらう。そこで大切なのは物慾に走らない態度である。どう纏まるかは判らないが、敗北を喫さない為にも、己に“買はないよ”と云ひきかせなくてはならない。ぜんたい、何と勝負してゐるのかは、この際だから別の問題としておきませう。

232 これしか出來ない

 オリンパスのアクセサリに“ボディキャップ・レンズ”といふのがある。文字通り、ボディキャップにレンズを組み込んだもので、扱ひはあくまでもアクセサリ。レンズの製品紹介には載つてゐない。15ミリと9ミリが用意されてゐて、どちらも手元にある。ボディキャップなのに、目測で距離の設定が出來るのは、中々に生意気ではなからうか。調整はレヴァ。オリンパスが大昔に出したXAのやうだ。

 以前はオリンパスのE‐PM1につけてゐた。あの小ささはボディキャップ・レンズに似合ふ。ただそのE‐PM1は調子が惡くて、シャッターが時々、正常に切れなかつたから、手放した。それで残つたGF1につけてみたが、どうも見映へが宜しくない。ボディキャップに見映へも何もなからうと思はれるかも知れないが、カメラは手に持つもので、手に持つものの見た目は大切である。賣り払はうかとも考へたが、幾何になるでもなし、あつて困るものでもないので、そのままにしてゐた。

 過日、久しぶりに中古カメラ屋を覗くと、ペンタックスのMZ‐3が5,000円くらゐで出てゐた。先日触れた通り、尊敬する植田正治が使つてゐたカメラなので、危ふく物狂ひさうになつたが、好みではないシルヴァだつたので、何とか我慢した。おれも冷静だなあと自讚しながら、別の中古カメラ屋を覗くと、パナソニックのGF3が目に入つた。MZ‐3より廉である。値札には“傷あり”と書かれてゐるが、こちらの目にはよく判らない。出してもらふと、確かに細かい傷に、文字の印刷も掠れた箇所があつたが、別に気になるほどでもない。えらくコスメティックな評価である。尤もGF3のやうな機種を今も慾しがるひとは少なからうし、仮にゐるとして、綺麗な個体を求めるだらうから、お店の判断も誤りとは云ひにくい。併し液晶に傷はない。動作だつて、をかしくもない。値段は許容範囲だし、何よりこの小ささなら、ボディキャップ・レンズに似合ふ。さう考へて買つた、と書けば矢張りおれは冷静な判断が出來るものだと自讚を重ねられるが、實際のところはさうでもなかつた。GF3と後継のGF5は以前からちよいと気になつてゐて、納得出來る値段なら慾しいなと思つてもゐた。なので少々昂奮しながら財布を取り出したのが本当で、これでは自慢にならない。

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 持ち帰つて最初に“レンズ無しレリーズ”をオンにした。でなければボディキャップ・レンズが認識されない。後は動画のボタンと電子音をオフにして、弄つたのはそれくらゐ。ボディキャップ・レンズをつけると、予想通り、よく似合ふ。残る問題はストラップで、肩掛けのそれはあるけれど、これはポケットなりポーチなりに、無造作に突つ込むカメラなので、長々しいストラップを使はうとは思へない。ただ残念なことに、手首に巻きつける式のストラップが見当らない。あつたとしても、GF3のストラップ通しは細いから、取りつけるのは無理かも知れないけれど。それでも流石に何もつけないのは不安なので、がらくた箱を引つ繰り返すと、紐の太い指を通す式のストラップ(と呼んでいいのだらうか)があつた。つけてみると見た目はそんなに惡くない。使ひ心地がどうなのかは、實地で試してからの判断になる。まあ試すと云つても、GF3にボディキャップ・レンズの組合せは、デジタルカメラの“写ルンです”だもの、なーんにも考へずに撮るだけである。といふより、それ以外に出來ることがないとするのが正しい。勿論それは外のカメラでも出來なくはないだらうが、GF3はあれを買つてこれを追加してといふ物慾を刺戟しない。メーカーの思惑はさて措いて、わたしにすれば有り難い話で、残るはどんな寫眞が撮れるのか。これは後日、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏の膝下にお届けしたい。

231 連想チース

 吉田健一は詩を引用する時、本をあたつて確かめることをしなかつたさうだ。だから原稿に誤りが散見されるのは珍しくなくて、編輯者は中々にたいへんだつたらしい。無精をしてはいけませんといふ教訓ではない。吉田は詩を暗誦して樂しむものだと教はり、またさうしてゐたからで、文學者はすごい。こちらの頭の中にあるのは、和歌が二首か三首と、ごく短いライト・ヴァースくらゐが精々だもの。とても眞似出來ない。なのでわたしの場合は、“確か”とか“大意”とか、そんな枕詞をつける。

 確か『ご馳走帖』(中広文庫)に収められた一篇。内田百閒が若い頃お世話になつたフンチケル先生と四半世紀ぶりに食事を共にする機会を得た折、先生がしきりに、チース、チースと云ふのを聞いて、ひどく混乱する一幕があつた。フンチケル先生が云ふチースはチーズの意。確かに昔はチースと讀んだのに、いつの間にかチーズになつてゐたところに、忘れてゐた發音が突然飛び込んできたから、驚いたのである。

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 そこでチーズの綴りを確かめると、cheeseであつた。成る程、チースと發音しても不思議ではなささうだが、ズとスの音はそんなに遠くない。實はフンチケル先生は当時からチーズと發音してゐたのに、百閒先生がそれを誤つて耳にした可能性もある。まだまだチーズが珍しい食べものだつた時代の話だらうから、聞き間違ひをしても怪しむには及ばない。尤も、明治の日本で、チーズをどんな時に食べたのか、といふ疑問は残る。フンチケル先生が學生を招いて、母國風の食事を供したのか知ら。さうなると気になるのは、葡萄酒があつたかどうか。メッケル小佐…獨逸軍人。明治陸軍の教官であつた…が來日した頃は、横濱なら手に入つたさう(司馬遼太郎の『坂の上の雲』に逸話が紹介されてゐる)だから、フンチケル先生が葡萄酒を用意するのは、簡単だつたかどうかは兎も角、無理ではなかつた筈だ。

 併しチーズを葡萄酒のお供と決めつけるのは誤り…ではないとしても短絡で、サローヤンの『パパ、ユーア・クレイジー』では、主人公の少年にパン屋の親父さんが、パンとチーズを忘れてはいけないと諭す場面がある。この場面のチーズは、パンの(おそらく最良の)友人と扱はれてゐる。貧窮や陰惨ではなく、幸福と希望の暗喩。フンチケル先生が振舞つた(かも知れない)チーズが、(もしかすると)西洋文明の徴だつたかと思ふと、あの食べものには色々の役割…遡ると古代の希臘では兵隊の糧食でもあつた…があるのだなあと呟きたくなつてくる。ここで疑問ひとつ。イエス様は使徒

「私の血であり肉である」

と云つて、葡萄酒とパンを振舞つたさうだが、その場にチーズはなかつたのだらうか。ナザレ人には、チーズ食の習慣がなかつたのか知ら。まさかそんな筈はないと思ふのだが。

 さういへば丸谷才一が随筆で、あるヨーロッパ人が中華料理を絶讚しつつ、ミルクやバタ、クリーム、それからチーズの類が見当らないのが不思議だと書いてあつて、意外の念に打たれたといふ一文を草してゐたのを思ひ出した。云はれてみればその通りで、隋唐の帝がチーズに目がなかつたとか、六國の風流人が清談のつまみにチーズをこよなく愛したとか、桃源郷に迷ひこんだ若ものが仙女にチーズでもてなされたとか、そんな話は聞いたことがない。机以外の四ツ足は食べ尽したとまで云はれる料理なのに、不思議だなあ。北方の遊牧民はどうなのだらう。馬乳酒は耳にした記憶はあるが、かれらは大遠征に際して、チーズを糧食にしなかつたのだらうか。『韃靼人の躍り』でその栄誉は太陽に等しいと讃へられたハンが、チーズを食べる場面があれば面白いのに。

 チーズ…乳製品に縁が薄いのは、翻つて我が國でも、事情は似てゐる。皇族と一部の豪族くらゐに許された贅沢だつたのは確實。牛乳司だつたか、そんな名前の役職が乾や酪、醍醐…この辺はミルクにバタ、クリームやチーズの曖昧な親戚らしい…を採つた。搗栗などと一緒に下賜されたとか記録があるさうだから、特別だつたのだらうな。殿上人は濁り酒の肴にチーズ(の親戚)をつまんだのか。さう考へると、かれらの嗜好は甚だ現代的だつたと想像したくなる。烏帽子を被つた麿たちが、濁り酒を飲み、チーズをつまみながら、戯れ歌を詠んだ一夜を想ふと、愉快な気分になれる。百閒先生には、我われのご先祖だつて(ごく一部だけれど)、チーズを愉しんだのですと云つてもらひたかつたが、フンチケル先生がどう応じるのか、見当もつかない。