閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

403 牡蠣喰へば

 冬といへば牡蠣であるらしい。何しろ手元の本をちよつと捲るだけでも

 

 この貝もただ漠然と貝の肉が我々に聯想させるものに止らなくて獨特の匂ひも味も舌触りもあり、広島のを食べてゐると何か海が口の中にある感じがする。

[広島の牡蠣/吉田健一]

 

 フライも牡蠣の代表的な食べ方でしょう(中略)レモンのひと切れを添えるのが常識ですが、橙をお使いになってごらんなさい。二つに切って汁を絞り、これに醤油を合せてとき辛子を少々つけ、カリカリの熱いのをポッとひと口に頬張るのです。

[牡蠣/辰巳浜子]

 

おそろしく幻想的な、きはめて具体的な讚辞が見つかる。もつと極端な

 

 カキは一体どうして喰べたらうまいだろう、などと思いわずろうことなどまったくないほど完全な地上の(いや海中の?)珍味であって、アイツは(中略)、レモンを少々しぼり入れ、液汁もろとも、口のなかに啜り込めばそれで終る。そのまろい舌ざわりも、甘味も、贅沢なほどの複雑なイキモノの味わいも、そこに尽きる。

[瀬戸内海はカキにママカリ/檀一雄]

 

といふ褒め言葉もあつて、ここまで昂奮されると…ことに"アイツ"とカタカナで書く辺りが…、愛情とサディスティックな感情が牡蠣とひと搾りの檸檬のやうに一体化してゐるやうに思はれてくる。

 と引用はしたものの、わたし自身はさう滅多に食べない。魚介が信用出來る呑み屋で、季節に二へんかそこら、フライをつまむくらゐではないか。何となく苦手な気分がある。中學生の頃だつたか、母親の友人が広島の牡蠣を送つて下すつた事があつた。生では食べなかつたが、鍋に入れ、フライにして家族ですつかり平らげたら、次の日に胸焼けを感じたからで、勿論それは牡蠣の所為ではなく、ひと晩で食べた方がいけない。とは云へ牡蠣との本格的な出会ひがそれだつたから、今に到るまで尾を引いてゐると云へなくもない。

 牡蠣といへば白葡萄酒だらうと思つて試した事もある。生牡蠣にシャブリ。正直なところ、世間が云ふほど、美味いとは思はなかつた。牡蠣は旨かつたし、シャブリもたいへん結構ではあつたが、双方が勝手気儘にうまかつただけで、その時はこの程度の組合せを歓ぶフランス人は、何を歓んでゐるのだらうと思つた。後になつて、フランスの牡蠣をフランス式に用意して組合せたら、味はひも変るのだらうと気が附いたが、矢張り最初の記憶は強いものだからか、未だにさういふ組合せを求めたいとは思ひにくい。

 

 古代のローマ人は牡蠣を好んださうで、それもブリタニア産を珍重したらしい。ブリタニアは云ふまでもなく現在の英國。意外の気も感じなくはないが、上述の吉田や檀は英國の鮃や鮭もたいへんに褒めてゐて、更に考へれば英國は島國なのだから魚介が旨いのは当り前と云ふべきか。凄いのは遠方の属州で獲れる牡蠣が美味いと知つたローマ人の方で、かれらは我われと同じく海産物を大事にしてゐたから、気持ちは判らなくもないにしても、冷凍も出來ない時代にどうやつて運んだものか。油か酒に漬けたのだらうとは思ふが、食あたりは起さなかつたのか知ら。

 それは不思議だ。ブリタニアとローマの間にはガリアがあつたぢやあないか。と我が親愛なる讀者諸嬢諸氏は首を捻るにちがひない。ただどうもガリア人は獸肉好みだつた気配が濃厚で、この辺りはライン河を隔てたゲルマン人と大して変らない。遅くとも(時代は随分と下るのだが)コルシカ人が登極する前には牡蠣を食べる習慣が出來てゐたらしく、サヴァラン教授が『美味礼讚』の中で、消化剤になるのと同時に、些かエロチックな効能を持つてゐると、あるご婦人の体験と共に記してある。我が讀者諸氏よ、愛らしい女性に牡蠣を振舞ふのはいい方法かも知れませんぞ。尤もくだんの体験を語つたご婦人は堅い意志で誘惑に打ち勝つたさうだから、失敗しても責任は負ひませんよ。

 ガリア贔屓の為にもうひとつ云ふと、ブリタニア人に牡蠣を食べる習慣があつたのかどうかははつきりしない。現代英國のスモークト・サモンやフライド・ソール、フィッシュ・アンド・チップス、或はジェリード・イールを見る限り、魚は兎も角、貝類には不熱心さうで(二千年といふ長大なタイム・ラグはあるが)、ローマの牡蠣好みはガリア経由で佛國に受け継がれたと想像するくらゐは許されるだらう。ド・ゴールだつたか、もしかしてチャーチルだつたかと思ひながら云ふのだが、ゲルマン…ドイツ人を

 「ラインの西の野蛮人」

と罵つた理由のひとつには、ローマの栄光を今に保つてゐるのはおれたちだといふ自負の面妖な顕れではなかつたか。カエサルが聞いたらきつと大笑ひ…何しろガリアを征服し、ゲルマンを退け、ブリタニアにローマ人として初めて上陸した男である…して、冗談のひとつも飛ばすにちがひない。あの将軍は覇を唱へた土地の、ローマとは異なる風習に甚だ鷹揚で、そこにはローマによる支配といふ様々の思惑があつたのは当り前だが世界中のどこにでも、議会制の民主主義を当て嵌めたがるアメリカの無邪気な善意(併しまつたく現實的ではない。二十世紀中頃に日本で大失敗したのに學ばなかつたのだらうか)より、余程知的な態度ではなかつたか。

 

 何か間違つた方向に進みさうな気がする。

 元に戻しますよ。

 

 カエサルには数々の誉れはあるが、"ローマ人として最初にブリタニアの牡蠣を味はつた"冠には無縁であつた。かれのブリタニア上陸は上陸それだけで、云つて仕舞ふとガリア制覇序での見物であつたから。今には名の残らないローマの大富豪が一ぺん食べてみるかと気紛れを起したのがそもそもなのだらう。アラブの石油王たちが自宅でスシを味はふやうなものである。

 「このマグロのトロといふやつは中々うまい」

 「私はイカがいいと思ふ。よいシゴトをしてゐるよ」

といふ風に富豪たちはお互ひを食事に招きあひながら

 「ブリタニアの牡蠣だよ。オリーヴ油に漬けて運ばせたのを、ガルムで煮たのだ」

 「葡萄酒に漬け込んでね、オリーヴの枝で羊と一緒に焼いたのだよ。なに、ブリタニアの牡蠣さ」

と自慢しあつたにちがひない。石油王…訂正、富豪の食卓なのだから、現代の我われには想像も六づかしい珍奇な牡蠣料理もあつたのだらう…おそらくは惡趣味と呼ぶ外のない。

 その辺りが一応でも整理されたのは矢張りガリアの末裔の功績だらうか。吉田健一の言を拡大して解釈するならあすこは飛び抜けた食べものに恵まれた土地ではないさうだから、そこそこやそれなりをより美味く喰べる為の工夫が欠かせない。我われがフランスの料理と聞いて頭に浮ぶ複雑で凝つた調理法は、さうせざるを得なかつた事情を示してゐると云へなくもない。その創意工夫は大きに感嘆するとして、では我が國での牡蠣喰ひはどうだつたのかと疑問を感じもする。例によつて遡るのは不可能として、少くとも漁撈民にとつては古馴染みかと思ふ。生か熾火で焼くかが精一杯だつたらう。食あたりも随分と出しながら食べ續けたのは餓ゑもあつた筈だが、それ以上に旨かつたからではないか。でもなければ、あの硬い殻を割らねばならぬといふ面倒を我慢出來たとは思へない。古代の漁撈民に知合ひは持たないから、實際のところは判らないにしても。

 さういふ人びとの後裔であるわたしが好むのは、火を通した食べ方で、フライもいいが(ウスター・ソールでもタルタル・ソースでも、数滴のチリー・ソースをしのばせるのが旨い)、もつといいのは天麩羅である。同じと笑ふのは間違つた態度で、海老フライと海老の天麩羅はまつたく別の食べものでせう。牡蠣も矢張り別もので天麩羅の方が穏やかな感じがする。天つゆや大根おろしがさう感じさせるのかも知れないが、その穏やかさはわたしのやうに全盛期を過ぎた胃袋には有難い。更に云へばお酒は勿論の事、葡萄酒にも適ふのも嬉しい。葡萄酒の場合、もしかすると佛國牡蠣を佛國式に用意するより、天麩羅の方が似合ふのではないかとも思ふのだが、牡蠣の天麩羅とシャブリをあはせて用意するやうなお店をわたしは知らない。残念だなあ。

402 引用鍋焼饂飩

 獨居自炊の身で絶対に自分では用意しない食べものの筆頭格に鍋焼饂飩を挙げて、そんな事はない、おれは毎晩作つてゐるぞと反論するひとは少からうと思ふ。何となく面倒さうな…手間も時間も掛かる感じがする。そこで先づ鍋焼饂飩の辞書的な意味を調べると

 

■実用日本語表現辞典

鍋に具を入れて出汁をとった上、うどんを入れて食べる料理。鍋から直接食する。

 

日本大百科全書(ニッポニカ)

煮込みうどんの一種。

鍋焼きの名称は『料理物語』(1643)のなかに、魚貝類をみそ煮する料理とある。

仮名手本忠臣蔵』の「祇園一力の段」には、「鶏しめて鍋焼させん」とある。

鍋焼きの名称は古いが、実質的には煮る意である。

鍋焼きうどんは明治末ごろから移動屋台の呼び売りから始まったものである。土鍋を用い、うどんを主材としてエビ、麩、かまぼこ、ホウレンソウなどを加えて煮込み、熱いうちに用いるのをよしとする。

※讀み易くする為、文面はそのままに少し改行を施した。

 

とあるが、どちらも曖昧である。前者は単に無愛想なだけだが、ニッポニカは非常に讀みにくい。記述の順番が変だからで、『料理物語』だの『仮名手本忠臣藏』だのは注釈程度でよかつた。それに『料理物語』は發行年(元号で云へば寛永二十年)を記してゐるのに、『仮名手本忠臣藏』は無視してゐるのも妙である。寛延元年/千七百四十八年(初演の年である)に触れておけば、"魚介の味噌煮"だつた鍋焼…併しそこに饂飩はあつたのだらうか…が、百年後には"〆た鶏"に変化してゐると判るのに。それに獸肉への忌避も現代の我われが考へるほど、厳密ではなかつた事も。

 さてそこで現代の鍋焼饂飩では何を使ふのだらう。信用出來さうなところを見ると概ね以下になるらしい。

 

■味の素パーク(四人前)

 卵四個

 椎茸四枚

 葱半本

 水菜五十グラム

 油揚げ半枚

 

ヤマキ(二人前)

 鶏股肉半枚

 蒲鉾四切れ

 長葱半本

 ※材料の項には上しか書かれてゐないが、作り方の方には"油揚げは油抜きをして 二センチの細切りに、小松菜はサッとゆで、四センチ長さに切る"とある。

 

■キューピー3分クッキング(四人前)

 鶏股肉(大)一枚(三百グラム)

 菠薐草半把(百グラム)

 長葱一本(百グラム)

 生椎茸四枚(九十グラム)

 蒲鉾四切れ(三十グラム)

 だし汁四カップ

 醤油大匙四

 味醂大匙四

 揚げ玉半カップ

 卵四個

 

土井善晴 きょうの料理(一人前)

 饂飩出汁二カップ

 干椎茸一枚

 鶏股肉六十~七十グラム

 油揚げ三分の一枚

 蒲鉾(薄切り)二枚

 青葱一本

 卵一個

 

 味の素を除くと鶏股肉を使つてゐる。といふ事は現代の鍋焼饂飩は、『仮名手本忠臣藏』の子孫になるのではなからうかと考へられてくる。たださうなると物足りなさを感じもして、何だらうと思ふと、海老の天麩羅である。わたしは海老の天麩羅をそれほど好む者ではない(出されたなら兎も角、自分から進んで註文はしない)が、鍋焼饂飩に欠かすのは如何なものかとも思ふ。それが様式ではなからうか。念の為にざつと確めると江戸の天麩羅は十八世紀の中頃に一応の完成をみたらしいが、仮名手本式鍋焼饂飩では採用されるには到らなかつたのか知ら。と思つて更に調べると、中々面白い記述に行き当つた。

 

■キンレイ

https://www.kinrei.com/news/201712/07100000.php

江戸三座で知られる芝居『粋菩提禅悟野晒』に「鍋焼きうどん」という言葉が登場します。明治11年頃に東京・深川をはじめ大阪で流行したという説もあり、明治13年頃には、東京で鍋焼きうどん屋が急速に普及しているといった記事が残されているのだとか。

 

■製粉振興会-「うどん」新旧合戦

http://www.seifun.or.jp/wadai/hukei/huukei-10_12.html

 文献にはまだ登場しないものの、江戸末期の元治二年(1865)、江戸三座の一つとして知られている市村座で掛かった「粋菩提禅悟野晒」という芝居の中で「鍋焼きうどん」ということばが登場します。

 大阪四天王寺山門前で屋台で夜売りを商う男が、客に向かっていう台詞に「ついこの前までは大阪名物のえんどう豆を売っておりましたが、近頃はやりの鍋焼きうどんにすっかり押されてしまいまして、それから宗旨(商売)がえをいたしました」という。

 

 仮名手本からもう百年過ぎた辺りの話で、先づ上の記述を信用すれば、鍋焼饂飩は大坂で(芝居に採られるくらゐに)流行り、その流行りが江戸にもたらされたらしいと判る。江戸といへば蕎麦と連想が働くが、蕎麦がいつぱしの顔を出來るまでは饂飩の天下でだつた事は覚えておいていい。どうやら饂飩料理は西國人に一日の長があつたらしいけれど。

 さう考へると前言を些か翻す必要がありさうだ。仮名手本版は鍋焼饂飩の原型で、百年かけて野晒版で完成を見たのではあるまいか。

 「それはまた、のんびりした話だなあ」

と笑ふひとは、流通だの情報の交換だの流行の伝播だの、さういつた速度の理解が誤つてゐる。馬や飛脚、稀に廻船が速さの限界だもの、工夫が広がり、眞似が成り立ち、やがて完成するまでに必要な時間は現代と比較にならない。だから駄目なのではなく、その遅さの分だけ熟成の余地があつたとも考へられる。莫迦ばかしいと思つてはいけない。ある新しい(或は新工夫の)食べものが舌に馴染み、また当り前になる…ひとつの料理として容れられるには時間が必要なのは、今も同じだし(その前に流行りの中で消費された食べものもあるのだらう)、それが寧ろ本筋だと我われは改めて考へたい。

 その本來の流れを汲んだ鍋焼饂飩の蓋を開けた瞬間の慶びを、"「うどん」新旧合戦"の筆者は、"小ぶりの土鍋で(中略)えびの天ぷら、かまぼこ、麩、しいたけ煮、鶏肉、長ねぎ、青葉、そして卵"と記す。わたしと、そしてきつと我が親愛なる讀者諸嬢諸氏の思ひ浮べる鍋焼饂飩の姿が、これにちがひない。豪華絢爛にして百花繚乱。三座に相応しい名優の共演と褒め言葉を並べたくなる。序でに、蕎麦ちふのは貧相なもンやなア、とも云ひたくなるが、蕎麦は貧相と痩せ我慢が一ばんの調味料だつた。取消しませう。

 

 それより気になるのは鍋焼の焼の字で、連想されるのは鋤焼きなのは云ふまでもない。鋤焼きは實際鋤で焼いたのが元らしいし、今だつて地域によつては最初に焼きもする。ある食べものの呼び名はそもそもの食べ方に由來する(事が多い)と考へれば、鍋焼も最初は(魚介を)味噌焼きだつたのが汁ものになり、饂飩が追加或は合体した…だとすればその正統的な後継者は味噌煮混みなのか知ら…と推測しても大間違ひではなささうな気がする。鍋焼饂飩を啜りながら、もう一ぺん考へてみる事と致しませう。

401 イロハの目玉焼き

 ある朝ふと、目玉焼きの定義を調べてみた。その"ふと"が一体どこからきたものか、別の問題になる筈なので、ここでは踏み込まない。

 

三省堂 大辞林 第三版

フライパンに二個または一個の卵を割り入れて焼いたもの。黄身を目玉にみたてていう。

 

■実用日本語表現辞典

生卵を溶かずにフライパンの上に投入し、白身と黄身が混ざらないように円く焼き上げた料理のこと。

 

■和・洋・中・エスニック 世界の料理がわかる辞典

フライパンに卵を割り入れ、かき混ぜたりせず割り入れた形のまま焼いた料理。白身と黄身の二重の円を目玉に見立ててこの名がある。「フライドエッグ」ともいう。また焼き方として、片面だけを焼くことを「サニーサイドアップ」、片面が焼けたらひっくり返して両面を焼くことを「ターンオーバー」という。さらに「ターンオーバー」の焼き加減として、黄身がほとんど生のものを「オーバーイージー」、黄身が半熟のものを「オーバーミディアム」、黄身が固まるまでよく焼いたものを「オーバーハード」という。

 

Wikipedia

卵料理のひとつで、平坦な鉄板などに卵を割り入れて焼いたものである。黄身と白身が共に平円状となり、見た目が目玉のようになることからそう呼ばれる。

 

一部は省略した(Wikipediaは概要部分のみ。また仮名遣ひは原文のまま)が、定義附けの部分はほぼそのまま引いてある。解り易いのは"世界の料理がわかる辞典"か。但し文章自体は下手ですな。調理法と呼び方の区別までひとつの流れになつてゐて、自分で改行を入れる必要がある。六づかしいものだねえ。上の四つを通讀するとおほむね

 

生卵(一個か二個)を割る。

 ↓

但し割つた卵は混ぜない。

 ↓

フライパンで円状に焼く。

 

のが目玉焼きで、焼くのが片面か両面か、また火の通し具合で分類されるのだなと判る。併しここで不思議なのは、(黄身の)見た目が"目玉のやう"だから目玉焼きの筈なのに、両面を焼けばその"目玉のやうな"見た目は失せて仕舞ふ。これはフライド・エッグのターン・オーヴァ(仮称)として、目玉焼き(サニー・サイド・アップ)とは区別すべきではないかと思へてくるが、上の四項はいづれもその点に触れてゐない。

 「それは云ひ掛りにすぎない」

 「惡しき厳密主義だ」

と批判されさうであるが、保守的且つ厳密主義が基本の辞書表記に矛盾がある…感じられるのだから、こちらに話を持つてこられても困る。いつそ四項を纏めつつ

 

■目玉焼き:生卵を掻き混ぜず、フライパンで焼いた料理。一般に片面を焼いた際の見た目(特に黄身の部分)が目玉を連想させる事に因む。

 ※両面を焼き、黄身が見えなくなつた仕上げでもかう呼ぶ場合がある。

 

として、フライド・エッグだのサニー・サイド・アップだのターン・オーヴァだのは更に別注で触れれば済むんではなからうか。日本語に資する提案とは思はないけれど。更に云へば目玉焼きは辞書的な定義に収まらないところに議論の余地がたつぷりあつて、そこが寧ろ面白い。基本的には

 

イ)片面か両面かの焼き方。

ロ)黄身にどの程度火を通すか。

ハ)調味料は何を用ゐるか。

 

の組合せなのだが、そこに何と一緒に食べるかといふ点が絡んでくる。パンにあはすとして食パンとバゲットとクロワッサンで考へ方は変る。ごはんと云つても別のおかずはあるのか、あるとしてそれが鯖の塩焼きかハンバーグかで対応は変る。目玉焼きの周辺には無数の組合せがあり、然も我われの気分といふ重大な要件まで考慮の必要を認めると、無差別級の決定版はあり得ないと云つていい。なので最初に挙げる

 

イ)片面焼き。

ロ)半熟。

ハ)醤油。

 

といふ組合せは、ごはんとあはせ、また外のおかずも焼き魚や鹿尾菜である事を想定したわたしの原則であると申上げなくてはならない。これが食パン(トースト)やバゲットなら

 

イ)両面焼き。

ロ)半熟よりややゆるめ。

ハ)ケチャップ。

 

と変つて、黄身をゆるくするのが好もしいのは、挟んで食べた後、溢れた黄身をパンの欠片で拭ひたいからである。但し同じパンでもクロワッサンだつたら挟んで食べないので

 

イ)片面焼き。

ロ)堅め。

ハ)ウスター・ソース。

 

の組合せを採用する。この場合はハムかソーセイジかベーコンが添へられてゐるのがより望ましいが、それだとマスタードを追加したくなる。一体に目玉焼きはその姿が見える時は片面、何かに挟む時は両面焼きにするのが旨いと思ふ。などと書くと異論や反論が噴出するだらうとは容易に想像出來る(ひよつとすると、揚げ焼きのやうに仕上げ、魚醤や豆板醤を愛用するひとがゐるかも知れない)し、それはそれで目玉焼きの味はひ方なのだから文句を附ける積りもない。こちらの知らない目玉焼きの樂み方があればご教示願ひたいくらゐで、さう云へば吉田健一

 「辛子をハムにも卵にも一面に塗り付けて、その上にソオスをたつぷり掛けると、不思議に正直な味がして」

實にいいと書いたのは、食堂車で註文する"ビイルとハム・エッグス"についての一節。この"食堂車のビイルとハム・エッグス"も目玉焼きのひとつの姿であるし、旅行に出る食堂車の車内といふ條件は辛子やソオス以上に効果的で、イロハも何も旨いに決つてゐる。かういふ目玉焼き…食堂車に乗ると意味ではないが…を一ぺんは食べてみたいと思ふ。

400 新しい機種について

 一ヶ月ほど前だつたか、スマートフォンを新しいの…シャープのAQUOS sense3(au版)にした。スマートフォンは通算で三台目。二台目に續いてのシャープ製端末。三台目に到つて初めて筐体の色が黒になつた。本当は赤がよかつたのだけれど(前二機種はどちらも赤だつた)、用意されてゐなかつたから止む事を得ないし、文句を附ける事でもないでせう。詳しい仕様までは触れない。幾らでも調べられるのだから、それくらゐの労を惜しむのはいけません。

 買替へた理由はごく簡単で、先代の電池が決定的に保たなくなつたから。朝八時頃、満充電で仕事に出掛け、十九時頃に帰宅したら残が六割程度では我慢ならない。たかが四年弱しか使つてゐないのに。大急ぎで念を押すと、仕事場では眞面目を気取つてゐるから、こつそり弄るなんてしませんよ。一体わたしはスマートフォンの電池の消耗に妙に神経質なところがあつて、だつたらモバイル・バッテリを持ち歩けばいいぢやあないかといふ指摘は尤もだとは思ふのだが、今度はそのモバイル・バッテリの消耗が気になつてくるだらう。

 もうひとつ。OSの問題なのか経年劣化なのか(後者だと思ふ)、三日に二へんくらゐの割りで強制的に再起動が掛かるようにもなつて、腹立たしいね、これは。繰返して云ふ、たかだか四年弱しか使つてゐないのに、脆弱すぎやしませんかね。などと云ふと

 「スマートフォンは四年も使ふものぢやあない。一年は早く買替へるべきだつたね」

と論評するひとが出さうな気もする。云はんとする事は判らなくもないが、わたしはスマートフォンでゲームをしたり、何か凝つた作業をするわけでもない。機能的な面だけで云へば先代でも支障は無かつたので、その指摘は使ひ方次第ですよのひと言で退けられる。詰り今回の買替へは概して止む事を得なかつた。愚痴のひとつくらゐ、云はせてもらひたい。

 この機種を撰んだのは電池容量に余裕がありさうだと思へた事と、新機種なので動作は安定するだらう…少くとも機械的な部分では…事で、上の不満はどの程度だか判らないにしても改善の期待が持てたから(實際の評価は三年以上使つてからになるけれども)である。もうひとつ、データの保存容量が先代に較べて大きくなつたのを挙げませうか。わたしが保存するデータなんて個々は小さなものだし、microSDカードも使ふから極端に神経質になる必要もないが、余裕があるのに越した事はない。更にひとつ、本体の代金がまあまあ納得出來たからなのもあつた。スマートフォンに五万円以上のお金を出すのはどんなものだらう。

 手續きはキャリア・ショップで、待ち時間を含めて二時間ほど掛かつた。担当したのはMさんといふ女性。事前に料金のプランだのを調べて、確認をしながら。それで

 「データの移行を含めた設定その外は全部するので、必要最小限の開通だけ、してもらへませんか」

とお願ひしての時間だから、プランの内容を最初から聞き、先代でのプランと比較しつつ検討をして、開通に伴ふ作業まて行つてゐたら、もつと長く掛かつたらう。面倒なものだなあと口に出して仕舞つたら

 「色々、すみません」

とMさんが苦笑を浮べた。手際が惡かつたのでなく、料金体系の複雑が原因だから、ちつと申し訳無い気持ちになつた。その一方で彼女はキャリアの看板を背負つてもゐるから、文句を附けられても仕方ないとも云へるわけで、曖昧に

 「まあ。貴女の責任ではないのだけれどね」

と誤魔化すに留め、電源が入つた端末をポケットに突つ込んでショップを後にした。

 最初にmicroSDクラウドにバックアップしてあつたデータを取り込んだ。それから先代機で使つてゐたアプリケイションを入れた。radikoにらじるらじる。EvernoteEdy、それとLINEも(履歴ははふつて)入れた。テキスト作成のアプリケイションが見当らなかつたのでCOLORNOTEを、画像の編輯が貧弱さうだつたからAdobeLightRoomを追加。待受画像の変更。アイコンの整理。ログアウトしてゐるサイトへの再ログイン。かういふ操作を充電しないまま進め、バッテリの減り具合は(当り前なんだが)酷くなかつたので安心した。

 この一連の作業は意図的に手持ちで進めた。掌への収まり具合を確めるのが目的で、惡くはない。細かい事を云ふと、音量と電源のボタンが先代と逆さになつてゐて、案外と使ひ易い。飛び出してゐるのが指先ではつきり解るのがいいのだらうか。全体に先代比で大きく重くなつてはゐるのだが、気になる程度ではない。わたしが不器用な所為もあるとして、片手での操作には少し無理がある。尤も片手で使ふ積りは無いから、ここは目を瞑つてもかまはない。充電の規格はタイプCが採用されてゐる。当面は変換アダプタで対処するとしたが、さていつまで対処出來るものやら、些か心許ない。

 未だ把握してゐないからだらうか、この機種はカメラ機能のレンズがふたつ搭載されてゐる。広角も標準のと同じくらゐ使へますとかいふ惹句を見た記憶があつて、また広角好きでもあるから期待してゐたのに、どうも怪しい。広角にすると、標準の状態で設定してゐる三分割のガイドラインが表示されなくなるし、タッチでのオート・フォーカスも無効にされるみたいで、何か見落しがあるのか知ら。併し見落しがあるとして、わざわざ探して設定しないといけないのなら、随分と莫迦にした設計だし、設定出來ないのなら"同じくらゐ使へる"惹句だか何だかは誤りだといへる。シャープの眞面目な設計者が

 「広角なんです。そこまで神経質にならないでもかまひませんし、ちやんと撮れますよ」

と反論する事も考へられるが、その手法が有効なのは風景やスナップである。こちらは広角で寄つて、焦点の位置も(ある程度になるのは仕方ない)指定したい。ひよつとしてかういふ撮り方は少数派に属するのだらうか。ファーム・アップか何かでの改善を望む。

 もうひとつ。こちらは期待してゐなかつたが、日本語入力の貧弱さには文句を附けておかう。S-Shoinといふ名前だからシャープ製だと思ふ。それともiWnn(オムロン製)の方だらうか。先代もさうだつた。バージョンがどうなのかは判らないが、相変らず歴史的仮名遣ひでの変換が出來ない。送り仮名も長い。またしてもシャープのひとは

 「使ふ頻度が低いんではないでせうか」

さう云ふかも知れない。併しシャープが提供するダウンロード辞書を見ると、顔文字だの葡萄酒の銘柄だのがあつて、寧ろかういふのをたれが使ふのか、さつぱり判らない。歴史的仮名遣ひの方が余程需要がありさうに思ふ。ここで話を無理に膨らませると、辞書は言葉の記憶を保存する巨大な倉庫なのだから(この譬喩はわたしの獨創ではないので念の為)、そこでは保守的…伝統的な言葉遣ひや文字が、より高い場所をあてがはれるのが本筋でせう。その理窟をスマートフォンの入力と変換と辞書に適用するのは当然だし、それは伝統の保守に資する事にも繋がるだらう。

 AQUOSに戻りますよ。不満序でに云ふと、充電のケーブルを外した時、画面の明度が一ばん暗い状態になるのも気に入らない。明度の自動調整を切つてゐるからだらうか。併しその自動調整の具合が好みに適はない。手動で調へるのはほんの少しの手間だといへばさうだとして、その手間を掛けさせないのが本当の筈である。自分で好きに設定出來るのがいいんですといふのは、元の作り方がいい加減で構はない事を意味しないんです。

 文句を附けて終らすのは本意ではない。なので最後にひとつ、褒めておく。この機種はどうやら筐体に金属を採用してゐるらしく(シャープへのインタヴューで触れてゐた記憶がある)、通信をどうするかに苦心したさうだ。先代と較べて手触りがちがふ。かどうかは判らないが、気分の部分としては實に嬉しい。カメラがさうでせう。プラスチック製が惡いわけではないにしても、金属だと(實際はどうあれ)如何にも手間を掛けたなあと感じられる。勿論それで機能は向上しないし、使ひ勝手が変りもしない。併し色々文句を云ひながらも、最近のスマートフォンなのだから、普段の利用に致命的な欠陥を感じはしない。外のメーカー、外のキャリアでも事情は同じ筈で、詰り機能に直結しない部分…マテリアルだとかボタンを押した時の感触、掌への収まりや手触りが大事になつてきさうに思ふ。さう考へた時、この機種は未完成であつても、ひとつの方向を示してはゐる。無駄に高機能化を狙はないで、どこまで進められるだらう。

399 目覚めなくてもかまはない

 理想的な食事といふのを考へる。

 栄養的にどうかうの意味ではなく、こんな飯を喰へれば後は死ぬだけでいいと思へる(のではないかと期待出來る)献立の事。それだけの目的だから、現實の問題…幾ら掛かるか、どうやつて準備するか、食べきれるか…は纏めて目を瞑る。

 シェリーから始めませうか。ティオ・ペペを一ぱい。少しの生ハム(ハモン・セラーノ)に黒胡椒とオリーヴ油を添へたのを一緒に。

 「いきなり食事ぢやあないよ」

と云はれさうな気もするが、前菜であると強調しておかう。それに理想的な食事を考へる上で、まさか酒精を外すわけにはゆかない。

 大鉢にお漬物を盛つてもらふ。野沢菜、白菜、胡瓜、梅干し(柔らかいのと堅いのの両方)にたくわん。苦瓜のピックルスとザワー・クラウト。それで麦酒。矢張り麒麟一番搾りヱビス。グラスで呑みながら焼き餃子をつまむ。韮と大蒜の当り前のやつが宜しい。鶏の唐揚げも少し慾しい。

 それから豆腐。冷奴もいいが、ここは温奴にしませうか。湯豆腐ほどではない程度に温めた豆腐にぽん酢に生姜と青葱と茗荷、たつぷりの削り節を乗せて木の匙で食べる。

 そろそろ食事らしい献立に考へを移しませう。牛肉を煮込んだのがいい。玉葱と牛蒡、トマト、鶉卵、白髪葱をたつぷり。勿論魚介も慾しい。鮭(塩焼きか燻製)や鯵(干物かフライ)や鯖(味噌煮)や鰤(お刺身かしやぶしやぶ、鰤大根も捨て難いねえ)、鯛は塩焼きとお刺身で。また烏賊の塩辛とお刺身は外せない。大葉と薑を忘れずに。それから穴子。濃く仕上げたたれでこの場合、山椒は要らない。

 さうなると麦酒では弱い。葡萄酒にする。マルキやサドヤも好もしいと思ひつつ、シャトー・メルシャンの"一文字短梢"か"キュヴェ・ウエノ"を、或は両方を撰ぶ(半壜があればいいのに)前者は白だが切れ味が非常にすすどく、濃い味の煮込みにも負けないだらう。後者はヴィンヤードのオウナーが信頼に値するからで、赤でも白でも問題は無い。或はシャトー・メルシャンを控へつつ、お酒にする手もある。初孫、鳳凰美田、蒼天なら間違ひない。お酒を何銘柄も呑むのは我ながら感心しないが、撰ぶのも六づかしい。舌に馴染んでゐるので、この稿では蒼天に軍配をあげておく。

 ソーセイジ(茹でたのと焼いたの。マスタードは勿論、どつさり)とハムカツ(ウスター・ソース)も献立に入れたい。

 「一体どのタイミングで食べる積りなのか知ら」

と訊かれたらそこはよく判らないけれど、ひよいと出されたらひよいとつまむのは間違ひない。そこに佛國のふくよかなご婦人が召し上つたといふ"匙が立つくらゐ"濃厚なソップ(サヴァラン教授が『美味礼讚』に記してゐる)が少しあれば、ちようどいい幕間ひになるだらう。併しソーセイジにハムカツだと断然麦酒であつて、ハイネケンが適切か知ら。

 さうだ。サラドを飛ばしてゐた。ここは伊丹十三の云ふサラド・ニソワースにしたい。うで玉子やトマトやレタース、キャベツ、セロリー、アンチョビーにサーディンその外諸々を、ドレッシングを作つたボウルに入れて(ドレッシングをかれるのではなく)賑やかに混ぜたお祭りのやうなサラド。甘辛く煮詰めた鶏のそぼろだの、茹でた豚肉だのなんだのを混ぜこんでもうまいにちがひない。

 〆は厚焼き玉子と生揚げにびつくりするくらゐの大根おろし(醤油と檸檬)、お味噌汁(薄切りの玉葱と生卵)と炊きたてのごはん。玄米茶。大鉢のお漬物や焼き魚も残つてゐる筈だから、それも含めて綺麗に平らげる。いやチーズを忘れるところだつた。ヴィンテージは判らないがマルキのデザート・ワインだつたかがえらく旨かつた記憶があるので、そつちを堪能してから〆…一ばん最後はお茶漬けですな…に移る。

 

 これだけの献立を朝から始めたとしたら、休憩を挟みつつ半日かそれ以上の時間が掛かる筈で、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏からは

 「それは一体食事と呼んでいいのか」

と疑義が呈せられるだらう。その疑念には食事は半時間、長くても一時間くらゐが精々で終るのだ、といふ思ひ込みが前提となつてゐる所為ではありますまいか。たとへば蕎麦屋で玉子焼きや板わさを肴にお酒をゆるゆる呑んでから、盛りの一枚も啜りこめば、それ以上の時間が掛かるのは云ふまでもない。ちよつと気取つた洋食屋でビーフ・シチューをやつつける場合も矢張りたつぷりの時間が必要になる。気障で云ふのではなく、食べものや食べもの屋がそれだけの時間を求めるからで、かういふのを贅沢と呼ぶのは誤りでせう。ましてやこの稿では現實的な要素を丸きり無視してゐるのだから、一日掛かりの食事があつたとしても不思議ではなく、また問題にもならない。食べ終へた後は眠りに就くだけの事で、そのまま目が覚めなくてもかまはない。