閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

402 引用鍋焼饂飩

 獨居自炊の身で絶対に自分では用意しない食べものの筆頭格に鍋焼饂飩を挙げて、そんな事はない、おれは毎晩作つてゐるぞと反論するひとは少からうと思ふ。何となく面倒さうな…手間も時間も掛かる感じがする。そこで先づ鍋焼饂飩の辞書的な意味を調べると

 

■実用日本語表現辞典

鍋に具を入れて出汁をとった上、うどんを入れて食べる料理。鍋から直接食する。

 

日本大百科全書(ニッポニカ)

煮込みうどんの一種。

鍋焼きの名称は『料理物語』(1643)のなかに、魚貝類をみそ煮する料理とある。

仮名手本忠臣蔵』の「祇園一力の段」には、「鶏しめて鍋焼させん」とある。

鍋焼きの名称は古いが、実質的には煮る意である。

鍋焼きうどんは明治末ごろから移動屋台の呼び売りから始まったものである。土鍋を用い、うどんを主材としてエビ、麩、かまぼこ、ホウレンソウなどを加えて煮込み、熱いうちに用いるのをよしとする。

※讀み易くする為、文面はそのままに少し改行を施した。

 

とあるが、どちらも曖昧である。前者は単に無愛想なだけだが、ニッポニカは非常に讀みにくい。記述の順番が変だからで、『料理物語』だの『仮名手本忠臣藏』だのは注釈程度でよかつた。それに『料理物語』は發行年(元号で云へば寛永二十年)を記してゐるのに、『仮名手本忠臣藏』は無視してゐるのも妙である。寛延元年/千七百四十八年(初演の年である)に触れておけば、"魚介の味噌煮"だつた鍋焼…併しそこに饂飩はあつたのだらうか…が、百年後には"〆た鶏"に変化してゐると判るのに。それに獸肉への忌避も現代の我われが考へるほど、厳密ではなかつた事も。

 さてそこで現代の鍋焼饂飩では何を使ふのだらう。信用出來さうなところを見ると概ね以下になるらしい。

 

■味の素パーク(四人前)

 卵四個

 椎茸四枚

 葱半本

 水菜五十グラム

 油揚げ半枚

 

ヤマキ(二人前)

 鶏股肉半枚

 蒲鉾四切れ

 長葱半本

 ※材料の項には上しか書かれてゐないが、作り方の方には"油揚げは油抜きをして 二センチの細切りに、小松菜はサッとゆで、四センチ長さに切る"とある。

 

■キューピー3分クッキング(四人前)

 鶏股肉(大)一枚(三百グラム)

 菠薐草半把(百グラム)

 長葱一本(百グラム)

 生椎茸四枚(九十グラム)

 蒲鉾四切れ(三十グラム)

 だし汁四カップ

 醤油大匙四

 味醂大匙四

 揚げ玉半カップ

 卵四個

 

土井善晴 きょうの料理(一人前)

 饂飩出汁二カップ

 干椎茸一枚

 鶏股肉六十~七十グラム

 油揚げ三分の一枚

 蒲鉾(薄切り)二枚

 青葱一本

 卵一個

 

 味の素を除くと鶏股肉を使つてゐる。といふ事は現代の鍋焼饂飩は、『仮名手本忠臣藏』の子孫になるのではなからうかと考へられてくる。たださうなると物足りなさを感じもして、何だらうと思ふと、海老の天麩羅である。わたしは海老の天麩羅をそれほど好む者ではない(出されたなら兎も角、自分から進んで註文はしない)が、鍋焼饂飩に欠かすのは如何なものかとも思ふ。それが様式ではなからうか。念の為にざつと確めると江戸の天麩羅は十八世紀の中頃に一応の完成をみたらしいが、仮名手本式鍋焼饂飩では採用されるには到らなかつたのか知ら。と思つて更に調べると、中々面白い記述に行き当つた。

 

■キンレイ

https://www.kinrei.com/news/201712/07100000.php

江戸三座で知られる芝居『粋菩提禅悟野晒』に「鍋焼きうどん」という言葉が登場します。明治11年頃に東京・深川をはじめ大阪で流行したという説もあり、明治13年頃には、東京で鍋焼きうどん屋が急速に普及しているといった記事が残されているのだとか。

 

■製粉振興会-「うどん」新旧合戦

http://www.seifun.or.jp/wadai/hukei/huukei-10_12.html

 文献にはまだ登場しないものの、江戸末期の元治二年(1865)、江戸三座の一つとして知られている市村座で掛かった「粋菩提禅悟野晒」という芝居の中で「鍋焼きうどん」ということばが登場します。

 大阪四天王寺山門前で屋台で夜売りを商う男が、客に向かっていう台詞に「ついこの前までは大阪名物のえんどう豆を売っておりましたが、近頃はやりの鍋焼きうどんにすっかり押されてしまいまして、それから宗旨(商売)がえをいたしました」という。

 

 仮名手本からもう百年過ぎた辺りの話で、先づ上の記述を信用すれば、鍋焼饂飩は大坂で(芝居に採られるくらゐに)流行り、その流行りが江戸にもたらされたらしいと判る。江戸といへば蕎麦と連想が働くが、蕎麦がいつぱしの顔を出來るまでは饂飩の天下でだつた事は覚えておいていい。どうやら饂飩料理は西國人に一日の長があつたらしいけれど。

 さう考へると前言を些か翻す必要がありさうだ。仮名手本版は鍋焼饂飩の原型で、百年かけて野晒版で完成を見たのではあるまいか。

 「それはまた、のんびりした話だなあ」

と笑ふひとは、流通だの情報の交換だの流行の伝播だの、さういつた速度の理解が誤つてゐる。馬や飛脚、稀に廻船が速さの限界だもの、工夫が広がり、眞似が成り立ち、やがて完成するまでに必要な時間は現代と比較にならない。だから駄目なのではなく、その遅さの分だけ熟成の余地があつたとも考へられる。莫迦ばかしいと思つてはいけない。ある新しい(或は新工夫の)食べものが舌に馴染み、また当り前になる…ひとつの料理として容れられるには時間が必要なのは、今も同じだし(その前に流行りの中で消費された食べものもあるのだらう)、それが寧ろ本筋だと我われは改めて考へたい。

 その本來の流れを汲んだ鍋焼饂飩の蓋を開けた瞬間の慶びを、"「うどん」新旧合戦"の筆者は、"小ぶりの土鍋で(中略)えびの天ぷら、かまぼこ、麩、しいたけ煮、鶏肉、長ねぎ、青葉、そして卵"と記す。わたしと、そしてきつと我が親愛なる讀者諸嬢諸氏の思ひ浮べる鍋焼饂飩の姿が、これにちがひない。豪華絢爛にして百花繚乱。三座に相応しい名優の共演と褒め言葉を並べたくなる。序でに、蕎麦ちふのは貧相なもンやなア、とも云ひたくなるが、蕎麦は貧相と痩せ我慢が一ばんの調味料だつた。取消しませう。

 

 それより気になるのは鍋焼の焼の字で、連想されるのは鋤焼きなのは云ふまでもない。鋤焼きは實際鋤で焼いたのが元らしいし、今だつて地域によつては最初に焼きもする。ある食べものの呼び名はそもそもの食べ方に由來する(事が多い)と考へれば、鍋焼も最初は(魚介を)味噌焼きだつたのが汁ものになり、饂飩が追加或は合体した…だとすればその正統的な後継者は味噌煮混みなのか知ら…と推測しても大間違ひではなささうな気がする。鍋焼饂飩を啜りながら、もう一ぺん考へてみる事と致しませう。