閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

563 愚か者の物慾

 我が親愛なる讀者諸嬢諸氏は外題を見て、何を今さら云ふのだと苦笑ひを洩らしたにちがひない。わたしも今さらだなあと思ふ。こんなところで気が合つても、仕方ないのだけれど、まあそれも仕方がない。

 
 リコーのGRデジタルⅡを手に入れて、満足…が妙なら、無邪気に歓んだのはごく最近のことで、併しもつと最近、GRデジタルⅣが(ちよいと)慾しくなつてきた。これが今回の外題に纏はる裏話。
 
 GR1から續いた流れの、ひとまづは"完成形"である。
 
 わたしはGRデジタルⅣをかう位置附けてゐる。異論反論が多々あるだらうとは判るが、そこは
 「そんな考へ方もあるのだな」
さう受けとめてもらひたい。ぢやあ何が"(ひとまづの)完成形"なのだとも云はれさうで、それには
 「あの受光素子の大きさで出來る(だらう)GRデジタルの終着点ではありませんか」
と云つておかう。
 
 かう書いてから、おや、どうやらGRデジタルに、おれは何か決つた…ではなくとも、一定の印象を持つてゐるらしいと思つた。何なのかはよく判らない。
 
 掌に適ふ大きさとか、ニュートラルな広角レンズとか、寄つて撮れる機能とか、継續性のある部品の配置とかのひとつひとつでなく、それらの纏りが、GRデジタルである。
 
 大雑把にさういふことかとも思ふ。それで次の世代…"デジタル"無しのGRが、受光素子の大型化に伴つたリ・スタートの機種であることも含めれば、GRデジタルⅣを"(ひとまづ附きの)完成形"と見て、をかしくはなからう。
 
 とは云ふものの、手に入れてどうするのか。
 手元には既にGRデジタルⅡがあり、ゆつくりと使ひもしてゐる。追加する理由を見つけるのは六づかしい。
 いやGRデジタルⅡよりは實用的でせうと指摘されれば、すりやあさうだと頷きはする。頷きはするが、そんなら現行のGRを買ふ方がよつぽど實用的だし、慾しくもある。
 
 實用だの何だのを蹴り飛ばして、要するに(ちよいと)慾しいだけ…物慾なのだ。
 さう居直ることも出來る。友人がGRデジタルⅣの白いやつにコシナフォクトレンダーの小さなファインダを附け、革のケイスに入れたのを使つてゐるか、ゐたかでそれがどうも恰好よく思つたのを、一応の理窟に挙げてもいいが、今に到る直接の切つ掛けとは呼べない。
 
 少し眞面目に云へば、わたしにとつて、カメラの小ささ軽さは、齢を重ね、無視出來ない要素になつてゐる。正確には
 「持ち出すのに負担を感じない」
のが最優先もしくは前提の條件であつて、この負担は気分も含む。現行のGRⅢが小さく軽いのは認めるが、十万円近い物体は無造作に持ち歩きにくい。貧乏性と笑はれるか知ら。
 
 ここから再び屁理窟に戻ると、上に書いた要素を満たし、気分の負担も軽い、またそこそこ冩る…と考へた時、GRデジタルⅣは中々魅力的である。
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(画像はリコーのウェブ・サイトから拝借)
 
 いや上の画像で"そこそこの冩り"と評するのは誤りか。わたし程度が使ふには今も十二分であつて、であれば手に入れて損にならないのは確實と思はれる。
 
 尤も入手した場合、気に入つて使ふ、使ふ内に再スタートを切つたGRが気になつて、近い世代のニコンCOOLPIX Aと富士フイルムのX-70も気になつて、勿論GRⅡとGRⅢが気になつてくるのは容易に想像がつく。愚者の物慾とはさういふものなんである。

562 伊豆國熱海

 静岡県は東西に広い。律令下で云ふと西から遠江駿河、そして伊豆の三國にほぼ相当するから、大層なものである。明治の政府は何を考へて、一括りにしたのだらう。律令國がおほむね、制度が成り立つ前から在つた豪族の勢力範囲を、大和政権の行政単位に仕立て直した地域だと思へば、都道府県より合理的な区分ではなかつたらうか。

 …地方行政の話をしたいのではなかつた。
 伊豆國の端つこにあるのが熱海。"アツウミ"が転化したらしく、その"アツウミ"は熱い水が湧いてゐる場所だからといふ。八世紀頃には開湯の伝説があるさうだから、よほど旧い温泉郷と云つていい。

 初めて行つたのはいつだつたか、記憶に無い。手帖には何かしら残つてゐるのだらうが、確めるのが面倒なのである。
 わざわざ新橋驛から快速列車に乗つたのは覚えてゐる。熱海に行かうとなつた時に、頭の中で『鐵道唱歌』の

 汽笛一聲 新橋ヲ ハヤ我ガ汽車ハ 離レタリ
 愛宕ノ山ニ 入リ残ル 月ヲ旅路ノ 友トシテ

が聴こえた(気がした)からで、これは新橋から乗らずばなるまいと思つた。尤もこの時『鐵道唱歌』は熱海には行かないのは知らなかつた。最寄の驛は十二番で唄はれる酒匂小田原に近い國府津か、十六番の近年開けた豆相線路のわかれみちである三島辺りか。

 ここで本線を外れますよ。
 東海道を走る『鐵道唱歌』を作詞したのは大和田建樹。安政生れの伊豫人。同じ伊豫生れの正岡子規より十歳、年長である。新橋を發車して實に六十五番で神戸に着到、一泊し、六十六番で山陽道に入りませうといふところで終るこの長大な唄は、元々地理や土地に関はるあれこれを教へる目的で作られたといふ。成る程、富士川で源平合戰に触れ、熱田で三種の神器に触れ、京都で清涼紫宸殿に触れ、湊川楠公に触れてゐるのは、さういふ事情だつたのか。大和田は日本史を概観出來る視点を持つてゐたのだな。かれが酒匂小田原三島から、熱海伊豆下田へ向はなかつたのが残念である。
 本線に戻りませう。

 新橋驛午前九時台の快速列車(詰り愛宕山に入り残る月を友には出來なかつた)は東京驛始發である。東京驛からの先客…七、八人の仲間連れが、車内の一角を占め、おにぎりだのサンドウィッチだの裂き烏賊だのお煎餅だのを並べ、罐麦酒や罐酎ハイを林立させてゐたからびつくりした。酒席といふか宴會といふか、入線した列車に速やかに乗り、發車前から始めてゐたのは間違ひない。
 呆れればいいのか、こんな風になつてはならぬと考へるべきなのか、それとも負けてはなるかと思へばいいのか、戸惑つたのだから、当時のわたしは随分うぶだつたらしい。
 戸惑ひつつ(くだんの仲間連れの騒がしさに若干うんざりもしつつ)、兎に角辿り着いた熱海の第一印象は、ひどく窮屈さう、であつた。あすこは町全体が丘陵にへばり着き、麓はそのまま海岸に繋がつてゐるから、あながち誤つた印象でもないと思ふ。その分、少し高い場所に立つと眺望は大したもので、文人墨客を歓ばせたのは、こんなところに理由があつたのかと感じさせられた。

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 急坂の上リ下リは別として、熱海の町は狭い。驛前に観光客向けの商店街があり、下つた海岸近くにささやかな繁華街(をかしな云ひ方だけれど)があり、以上終り、といふ潔さがある。尤も潔いといふのは擦過者の感想であつて、熱海に根を張る人びとにとつてどうなのかは判らない。
 それなりに花やいで見えるのは、わたしのやうな訪問者を相手にする呑み屋くらゐ。海岸沿ひのホテルに部屋を取つてゐなければ、醉つて帰るのは面倒にちがひない。ちがひないと曖昧な云ひ方をするのは、最初に訪れて以來、熱海の夜は宿で呑むのが通例だからで、残念と云へば残念である。但し熱海を、歴史の深い清雅な温泉町と思ふと…實際その通りなのだが…、わざわざ呑みに出るのは野暮な気もする。
 尤もその一方、新橋から呑み始め、熱海で呑み續け、新橋まで呑み續けるのも惡くないと思ふわたしがゐるのもまた事實で、体に余力のあるうち一ぺんは試してやらう。その時の出發は勿論、愛宕の山に月の入り残る時間帯を撰ぶ。 

561 甲斐國甲府

 都道府県の面積の順位は卅二位。案外と狭いから驚いた。
 山梨県
 参考までに順位のひとつ上は京都府、ひとつ下は富山県
 但し"ひとが住める範囲の面積"に限ると、順位は一ぺんに四十五位まで下がる。山岳が八割方を占める所為である。
 地図上で見ると、不恰好な馬鈴薯のやうな形をしてゐる。旧國制で云ふ甲斐國が、そのまま県の範囲になつてゐて、山國なのだなあと思はされる。

 歴史はふるい。ここで云ふ歴史は、史料で見られる可視的な記録くらゐの意味。甲斐國は律令制度下(概ね七世紀半ばから八世紀にかけて完成した)で成り立つた。但しそれ以前から住み、また支配もしてゐたらしい豪族を、大和が國造に任じ、その制度に組み入れたと思はれるから、古代は獨立した地域だつたのだらう。珍しい例ではない。上古の大和政権の"征服事業"は、(見方によつては)穏やかな政策…要するに米作をして、税を収めろといふだけの…でもあつたから、烈しい混乱は起きなかつたらう。
 畿内なら東國へ行く際の、重要な地域だつたらしい。甲斐武田氏の伸長と没落の後、天下を獲つた徳川が直轄またはそれに準じた形で差配したのは、そのひとつの證であらう。江戸を目指すには東海道を東に下るか、東山道信濃國から甲斐國を経るかだから、そこを押さへるのは理窟に適つてゐた。深く踏み込むのは本題ではないから避けるけれど、甲斐山梨は日本史を巨きな視点で眺めると(ことに源平期から戰國末期と幕末の最後の段階)、中々面白い地域なので、山梨県のウェブ・サイトが、この辺に触れないのは不思議で仕方がない。大々的に宣伝してもいいと思ふんだが。勿体無いよ。

 何の話をしたかつたのか知ら。
 ささやかな本函から、吉田健一の『汽車旅の酒』を取り出したのである。この批評家と小説家と呑み助と喰ひしん坊を兼ねたひとは、年に一度、夜行の急行列車で金沢を訪れるのがならはしであつた。シェリーや麦酒を呑みながらの列車行で、樂かつたらうな。
 (ちよつと触れると、『汽車旅の酒』はこの手帖の"本の話"で取上げてある)
 金沢は今のところ(残念ながら)訪れる機会に恵まれてゐないが、吉田にとつての金沢のやうな土地が、わたしには山梨…正確には甲府で、その話をしたかつたのだつた。
 云ふまでもなく甲府山梨県の中心にある都市。人口や経済の規模だけでなく、地理的にも眞ん中辺りに位置する。意味は"甲斐國ノ府中"で、武田信虎…晴信入道信玄の父…の命名といふ。念を押すと信虎の云ふ府中は"儂の國の中心"くらゐで、國衙(律令國の地方政府が置かれた場所)を指すわけではない。儂が甲斐を統べるのだといふ矜持の顕れだつたか。

 仕舞つた。また話が逸れる。

 甲府へ行くには、旧國鐵中央本線に乗る。外にも手段が無いわけではないが、この稿では省く。甲府を思ひ出した切つ掛けが吉田健一で、あのひとを眞似するなら、文章は無理だから、せめて呑むくらゐは見習ひたい。それで呑むには、訂正、呑むのを樂むには時間が要る。特別急行列車以外を使ふと、その時間をうまく得られない。
 尤も吉田の呑みつぷりを眞似出來るかと云へば、實は怪しい。乗車時間の長短は認めつつも、列車に乗つた早々、倶樂部から持ち出したシェリーを呑み、途中の驛で買つた麦酒を呑み、翌朝も麦酒を買ひ、列車を降りてから酒藏で呑み、懇意の宿に入つてまた呑むのだから、羨望の前に感嘆の聲が洩れてしまふ。それは文學的な誇張だらうと思へはするが、上記の本に収められた観世栄夫の一文(吉田への敬意が暖かな佳い文章です)を讀むと、どうやら誇張はごく小さなものらしい。豪傑だなあ。

 豪傑の話ではなかつた。
 さう。甲府
 霜月に行くのが例年のならはしだつたが、この三年ほど、足を運べてゐない。財布の都合と巷間の事情。がんらいが出無精だから、家に隠るのが苦痛とは云はないにしても、これだけの期間になると、何となく不満も感じられてくる。
 中央本線特別急行列車。
 新宿驛始發のあずさ號を使ふ。
 乗る前に驛構内で罐麦酒二本と葡萄酒半壜、それから幕の内弁当とチーズを買ふ。三鷹驛を通過した辺りから、幕の内弁当の蓋を開けてごはんを先に食べ、おかずをつまみに麦酒を呑む。麦酒がなくなつたら、葡萄酒とチーズを出して呑み續ける。甲府驛に着到するまで一時間半くらゐ。
 甲府に行くのは酒藏が主な目的で、併し甲府駅が最寄りとは限らない。勝沼ぶどう郷驛で降り、シャトー・メルシャンやまるき葡萄酒を訪れることがあれば、小淵沢驛で降りて、サントリー白州蒸溜所、山梨銘醸を訪ねることもある。甲府驛で降りれば、サドヤやサントリー登美の丘ワイナリーがあり、かう見ると山梨県は(失礼ながら)意外なくらゐ、酒精に恵まれた土地柄と云つていい。いつの頃からだらう。

 葡萄酒に限れば、比較的はつきりしてゐる。
 本格的な醸造が始まつたのは、勝沼で大日本山梨葡萄酒会社が設立されてからになる。明治十年。七ヶ月に及んだ西南戰争の年でもある。江戸、ぢやあなかつた、東京の大騒ぎを余所目に、優雅な苦辛をしてゐたのだな。
 山梨葡萄酒会社は僅か九年で解散に追ひ込まれるが、後の甲斐産葡萄酒醸造所(現在のメルシャン)や、まるき葡萄酒の源流はこの会社にある。もつと大きく國産の葡萄酒を遡つた源流と云つてもいい。
 ぢやあ甲府、山梨だつたのは何故かといふ疑問になつて、葡萄が好む土地…水捌けや寒暖差…だつたといふ単純な理由にあはせて、貯藏に適した気候でもあつたかららしい。さういふ見立てを最初にしたのがたれかは判らないが、我われ葡萄酒好きは炯眼に感謝しなくてはならない。

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 そこで。と話が山梨甲府に戻つてくる。
 霜月といふのはその年の新酒が出た直後くらゐになる。お祭りが終つて、訪れるひとがまばらになり、葡萄畑も枯れきつた頃であり、穏やかなのがいい。罐麦酒と半壜の葡萄酒と藏を見學した後の試飲でふはふはした頭に注ぐ陽射しには、数十日早く年の瀬がやつてきたやうな感じがされる。こんな時に観光は寧ろ邪魔になる。さつさとホテルに入り、續きに取りかかるのが望ましい。
 何を呑んでもいい。
 まるき、サドヤ、メルシャン、七賢、白州。
 吉田健一の金沢行ならそこに懇意の料理屋が手掛ける上々の食べものがついてくるのだが、こちらの立場では残念ながら、そこまで期待は出來ない。併し鶏もつ煮は廉で旨いし、信玄公に敬意を示せば煮貝があり、すこし気張れば富士櫻ポークといふ旨い豚も喰へる。"甲州富士桜ポーク"が正しい名称。定められた飼育を経て、認定基準に合格して名乗れる銘柄で、山梨県のウェブ・サイトによると、平成二年から研究がはじまり、同廿五年にブランドとして完成したといふ。飼育や検査が山梨県内に限られてゐるから、県外で食べるのは(今のところ)六づかしいと思ふ。

 と書いて、現代の山梨で味はへるのは、甲斐國造や守護は勿論、徳川譜代の大名や旗本も知らず、また想像もしなかつた種々で、遡れるのは煮貝とほうとうくらゐではないかと気が附いた。詰り飛び抜けて旨い…他國に喧伝されるほど…食べものは無かつた、と考へて誤りにはなるまい。但しそれを山梨…甲州の料理がまづいと結びつけるのも誤りで、そんなだつたら今ごろあすこは無人の地になつてゐる。
 そこにあるものを長く保存したい。
 更に旨く食べたい。
 といふ慾求はまことに当り前であるし、工夫を重ねるのもまた当然の態度でもある。それを千二百年余り續けたと思ふと、甲斐國の人びとの腰はまつたく粘り強い。さういふ樂みはお取り寄せだか何だかで實感出來るものではなく、土地の光や風や雨の匂ひを伴はなくてはならない。旅行の値うちはどうもそこに尽きるらしい。話を大きくするなら、金沢でも鶴岡でも事情は同じで、わたしの場合は偶々、甲斐國甲府がさうなんである。 

560 散髪屋の立ち呑み

 世の中には立呑屋といふのがある。
 廿歳を少し過ぎた頃、ある散髪屋の親仁さんが、バリカンを使ひながら
 「中々エエもンでつせ。きゆうきゆうに詰めて、ダーク・ダックスで呑みますねン」
さう教へてくれ、すぐさま奥さんに
 「アンタ、お兄ちやんに、ナニを云ふてンの」
と叱られてゐた…こつちは大笑ひをこらへたのだが…のを思ひ出した。譬へが判らない若い讀者諸嬢諸氏の為に、註釈を附けると、ダーク・ダックスは、狭い立ち呑みで、右肩をカウンタに突きだした様を指す。…まさかダーク・ダックスを知らない筈はありますまい。わたしが初めて立呑屋に入つたのは、その話を聞いて、十年以上が過ぎてからであつた。

 どうして立呑屋に行かうと思つたのかは忘れた。わたしのことだから知人に誘はれたか、話を聞いて羨ましいと思つたかに決つてゐる。
 最初に行つたのは大久保と記憶してゐる。十人も入れない狭さで、串焼きが主だつた。確かサッポロの赤ラベルで、串を何本かと小鉢をつまんだ。数人のお客は揃ひの赤ら顔なのが面白かつたが、こつちの面も変らなかつたらう。
 同じ大久保には別の立呑屋もあつて、そちらにも入つた。安チェーン店のひとつ。ただ同じチェーンの外とは店の造りが異なり、メニュも随分ちがふ箇所があつた。焼き場に立つお姉さんが、好きに工夫を凝らしてゐたらしい。つくねひとつでも、叩いた軟骨や刻んだ蓮根を混ぜ込んだりで、黑板に書かれたさういふメニュを眺めるのが樂みだつた。偶に"試しに焼いてみた"串の味見をさしてもらつたこともある。残念ながらここは改装に伴つて、お姉さんがゐなくなつた。

 併しまあ所詮は立ち呑みだからなあ。
 と呟くひとはゐるだらうし、さういふひとが立呑屋に來ないのは、それだけ混まなくなるから、都合も宜しい。
 立ち呑みだと足が痛くなるからなあ。
 さう嘆くひとはそもそも、立呑屋は一時間もゐれば長いのだと知らないのだらう。だらだら呑む場所ではない。

 といふことは、何軒かの立呑屋を巡る内に判つた。もつと云へば長居する場所でない代り、(気に入らなければ)直ぐに出られるのも立呑屋なので、獨りで呑む分には寧ろ具合が宜しいとも同時に知つた。
 でも立ち呑みなんだから、あんまり期待は出來ないよね。
 その不安は尤もである。が、わたしの知る範囲で、散髪屋の親仁が歓んだダーク・ダックス・スタイルの立呑屋…乱暴に云ふと、安ものの焼酎、謎めくもつ煮と串焼き…は、殆ど見掛けない。絶滅はしてゐないにせよ、絶滅危惧種なのは間違ひないと思はれる。
 何故か知ら。
 首を傾げるまでもなく、それ…要は廉価…だけでは六づかしくなつたからだらう。六づかしくなつたのは、廉価を賣りにする居酒屋チェーンの乱立にあふられてと考へていい。事の良し惡しは、居酒屋史の研究と批評に任せるとして、呑み助と喰ひしん坊を兼ねる人びとにとつて、この変化は厭ふべきでなかつたとは、附言してもいい。
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 気に入りの立呑屋は何軒かあつて、その性格は大きく二種類に分けられる。
 第一はおつまみに力を注ぐお店。狭い中にコンロを置き、鍋やフライパンを置き、註文を受けてから料る。待つ時間はあるけれど、チーズを織り込んだオムレツにマヨネィーズのソースとか、雪花菜を混ぜたポテト・サラドとか、少し手間を掛けたのが出てくるのが嬉しいし、それが旨くもある。
 第二は呑ませる方に特化したお店。パブのやうに麦酒やヰスキィを揃へたり、葡萄酒に集中したり、お酒に注目したりと、色合ひがはつきりしてゐる。おつまみは少く、但し味噌漬けのチーズだの、黑胡椒を挽いたオリーヴ油を添へた生ハムだの、それぞれにあはせた小皿があつて、それが旨い。
 両者はくつきり別々でなく、そこにグラデイションがあるのは勿論である。また優劣の話でないのも勿論で、わたしなぞは第一系統のお店でかろく食べてから、第二系統のお店に移つて呑む、なんていふことをする。腹具合や懐の都合で、その辺を調整し易いのが有難いので、腰掛け式だと中々さう気軽にはゆかない。時にあの散髪屋の親仁さんを誘つて
 「大したもンでんな」
と驚かせたいと思ふが、残念なことに親仁さんは、先に天國の立呑屋に行つて仕舞つた。 

559 揚げたカレーの麺麭

 本当かどうか、外ツ國から來た紳士淑女は、日本の惣菜麺麭を見ると、驚くらしい。好意的な驚きだと信じたいが
 「こいつら、一体何を考へてゐるんだらう」
と疑念を抱いてゐる可能性もある。コッペパンにスパゲッティ(それも炒めてケチャップで和へた)のを挟んだ挙げ句
 「ほら。ナポリタン・パンだよ」
と出されるのと、アボガドの薄切りをごはんの塊に乗せ
 「さあ。ジャパニーズ・スシをどうぞ」
と勧められるのと、どちらの衝撃が強いだらう。

 とは云ふものの、ナポリタン・パンもコロッケ・パンもハムカツ・パンも旨い。ポテト・サラドを乗せたり、生地にベーコンを混ぜ込んだのもいい。焼そばパンはちよつとどうかと思ふが、それでも決して不味いものではない。
 かういふ麺麭は外ツ國の紳士淑女には珍しいのか知ら。スパゲッティもクロケットもカットレットもポテト・サラドもベーコンも、出身はあちらの方面なのに。サンドウィッチから半歩の距離でもあるのに。

 それで惣菜麺麭の中で一ばん、外ツ國人の首を傾げさせるのは、カレーパンではないかと思つた(餡パンも判りにくさうだが、あちらは菓子麺麭と呼びたい)第一、何をもつてカレーパンと称すればいいのか。
 さう思つたら、いや、世界は広い。
 [日本カレーパン協会]といふ権威のありさうなウェブ・サイトが見つかつた。
 http://www.currypan.jp/
 そこに"カレーパンとは"と題された項があるので、全文を引用すると

 『カレーがパンに包まれており、焼くもしくは、揚げたもの。
 カレーパンとはカレーを具とする惣菜パンの一種である。
 主に衣を付けて揚げもしくは焼いて提供される。
 内部に入ったカレーはキーマカレーのようなものや、ビーフカレー、ゆで卵入りなど、それぞれに特色がある。
 なおカレーパンの内部には決して憎しみは入れてはいけません。
 人気のある惣菜パンであり、スーパーマーケットやコンビニエンスストアなどで大手メーカーの製品が販売される他、市中のパン屋の名物商品となっている場合も多い』

 と書いてある。余り上手な文章ではないね。仕方がないから無愛想に纏め直すと
 ・麺麭(生地)でカレーをくるみ
 ・くるんだ麺麭を揚げ乃至焼いて
出來上つたのがカレーパンで、中のカレーには色々な種類があり、更に具を追加することもある。
 うーむ、曖昧だなあ。
 併し欧州由來の麺と印度發英國経由のカレーを、日本式の揚げものの手法(但し源流は葡萄牙)で纏めたのがカレーパンなのだから、曖昧模糊は当然だし、寧ろその曖昧こそ、カレーパンの特色なのかも知れない。
 ではいつ頃、カレーパンは完成したのか。上記協会の"カレーパンの起源"を参考にすると、主に三つの説がある。

 ・大正五年:新宿中村屋
  インド獨立運動家ラス・ビハリ・ボースが伝へた純インド・カレーにヒントを得た相馬愛藏の發案。
 ・昭和二年:名花堂(現 カトレア)
  二代目中田豊治が實用新案登録した洋食麺麭。
  ※但しこれは、具の入つた麺麭をカツレツのやうに揚げるのが主旨で、カレーといふ言葉は用ゐられてゐなかつた。
 ・昭和九年:デンマークブロート
  創業者がカレー・サンドを發賣し、後に揚げる技法を思ひ附いてゐる。

 ほぼ十五年の幅があるが、協会では

 『このあたりは洋食が普及しつつあり、あらゆる業者が同時並行的に、日本的洋食メニューを工夫していた時代背景があったからのようです』

 かろく触れるに留めてゐる。賢明な判断でせうな。下手に云ひ切ると、どこから苦情が出るか、判つたものではない。
 さて。三つの發祥伝説の中で、中村屋を除く二軒が"揚げてゐる"ことに我われは注目したい。協会は"焼くもしくは、揚げたもの"と考へてゐるが、歴史的(?)に云へばカレーパンは揚げるのが正統的(!)な作り方なのだなと推測出來る。また揚げる手法に到つたのは、カレー・サンドだと、折角のカレーが麺麭の生地に染み込んだからだと思へる。バタを塗つたトーストを使へば、カレー・サンドでも平気な気もされるが、それだと揚げるより高くついたのか。
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 實のところ、カレーパンはさうさう口にしない。
 きらひなのではありませんよ。カレー(味)は懐が深く、饂飩やラーメンやスパゲッティ、煎餅やあられにも適ふ。もしかすると小麦との相性がいいのだらうか。だから麺麭とあはせて旨いのも当然である。

 では口にする機会が少いのは何故か。
 第一に、揚げパンといふのが、口に適はない。これは胃袋の事情といふより、馴れ乃至好みの問題。
 第二には、いつ食べればいいのか、よく判らない。
 第三を續けると、あはせて何を飲むかも判らない。

 寒い季節の朝に食べることがある。食パンにカレーを塗つてからトーストし、キヤベツの千切りなぞを乗せたやつ。カレーパンの正統遵守派からは
 「それはカレー・トーストである」
間違ひなく異端扱ひされる筈だが、商賣にはしてゐないから容赦を願ふ。
 この時には珈琲を飲む。何となく収まりが惡く感じるが、常識を弁へてゐるわたしは、朝から呑まない。仮に朝から呑むとして、そもそもカレーパンに似合ふ酒精は何なのか。それに朝を逃すと、どこで食べるのか。
 晝めしで主役は張れないし、晩ごはんで食べたいとは思へない。遡つて朝からカレーパンを食べたいと思ふのも稀で、おやつだとカレーの香りが食慾を無闇に刺戟するのが困る。詰り第二第三の理由はそのまま疑念に転じて仕舞ふ。
 だつたら食べない方法もあるよ、と云ふのは淺薄な見方であつて、わたしはここまで、カレーパンをまづいとも食べたくないとも云つてゐない。ただ自分の舌の上腹の中のどこに置けばいいか、決めかねてゐるだけなんである。カレーパン協会には今後、カレーパンの周辺にも気を配つた提案をここで期待したいが、他人任せな態度と叱られるだらうか。