閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

562 伊豆國熱海

 静岡県は東西に広い。律令下で云ふと西から遠江駿河、そして伊豆の三國にほぼ相当するから、大層なものである。明治の政府は何を考へて、一括りにしたのだらう。律令國がおほむね、制度が成り立つ前から在つた豪族の勢力範囲を、大和政権の行政単位に仕立て直した地域だと思へば、都道府県より合理的な区分ではなかつたらうか。

 …地方行政の話をしたいのではなかつた。
 伊豆國の端つこにあるのが熱海。"アツウミ"が転化したらしく、その"アツウミ"は熱い水が湧いてゐる場所だからといふ。八世紀頃には開湯の伝説があるさうだから、よほど旧い温泉郷と云つていい。

 初めて行つたのはいつだつたか、記憶に無い。手帖には何かしら残つてゐるのだらうが、確めるのが面倒なのである。
 わざわざ新橋驛から快速列車に乗つたのは覚えてゐる。熱海に行かうとなつた時に、頭の中で『鐵道唱歌』の

 汽笛一聲 新橋ヲ ハヤ我ガ汽車ハ 離レタリ
 愛宕ノ山ニ 入リ残ル 月ヲ旅路ノ 友トシテ

が聴こえた(気がした)からで、これは新橋から乗らずばなるまいと思つた。尤もこの時『鐵道唱歌』は熱海には行かないのは知らなかつた。最寄の驛は十二番で唄はれる酒匂小田原に近い國府津か、十六番の近年開けた豆相線路のわかれみちである三島辺りか。

 ここで本線を外れますよ。
 東海道を走る『鐵道唱歌』を作詞したのは大和田建樹。安政生れの伊豫人。同じ伊豫生れの正岡子規より十歳、年長である。新橋を發車して實に六十五番で神戸に着到、一泊し、六十六番で山陽道に入りませうといふところで終るこの長大な唄は、元々地理や土地に関はるあれこれを教へる目的で作られたといふ。成る程、富士川で源平合戰に触れ、熱田で三種の神器に触れ、京都で清涼紫宸殿に触れ、湊川楠公に触れてゐるのは、さういふ事情だつたのか。大和田は日本史を概観出來る視点を持つてゐたのだな。かれが酒匂小田原三島から、熱海伊豆下田へ向はなかつたのが残念である。
 本線に戻りませう。

 新橋驛午前九時台の快速列車(詰り愛宕山に入り残る月を友には出來なかつた)は東京驛始發である。東京驛からの先客…七、八人の仲間連れが、車内の一角を占め、おにぎりだのサンドウィッチだの裂き烏賊だのお煎餅だのを並べ、罐麦酒や罐酎ハイを林立させてゐたからびつくりした。酒席といふか宴會といふか、入線した列車に速やかに乗り、發車前から始めてゐたのは間違ひない。
 呆れればいいのか、こんな風になつてはならぬと考へるべきなのか、それとも負けてはなるかと思へばいいのか、戸惑つたのだから、当時のわたしは随分うぶだつたらしい。
 戸惑ひつつ(くだんの仲間連れの騒がしさに若干うんざりもしつつ)、兎に角辿り着いた熱海の第一印象は、ひどく窮屈さう、であつた。あすこは町全体が丘陵にへばり着き、麓はそのまま海岸に繋がつてゐるから、あながち誤つた印象でもないと思ふ。その分、少し高い場所に立つと眺望は大したもので、文人墨客を歓ばせたのは、こんなところに理由があつたのかと感じさせられた。

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 急坂の上リ下リは別として、熱海の町は狭い。驛前に観光客向けの商店街があり、下つた海岸近くにささやかな繁華街(をかしな云ひ方だけれど)があり、以上終り、といふ潔さがある。尤も潔いといふのは擦過者の感想であつて、熱海に根を張る人びとにとつてどうなのかは判らない。
 それなりに花やいで見えるのは、わたしのやうな訪問者を相手にする呑み屋くらゐ。海岸沿ひのホテルに部屋を取つてゐなければ、醉つて帰るのは面倒にちがひない。ちがひないと曖昧な云ひ方をするのは、最初に訪れて以來、熱海の夜は宿で呑むのが通例だからで、残念と云へば残念である。但し熱海を、歴史の深い清雅な温泉町と思ふと…實際その通りなのだが…、わざわざ呑みに出るのは野暮な気もする。
 尤もその一方、新橋から呑み始め、熱海で呑み續け、新橋まで呑み續けるのも惡くないと思ふわたしがゐるのもまた事實で、体に余力のあるうち一ぺんは試してやらう。その時の出發は勿論、愛宕の山に月の入り残る時間帯を撰ぶ。