閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

853 今年のお供の手帖の話

 手帖は例年、高橋書店のを買ふ。

 今年贖つたのはリシェル2といふやつで、ほぼ文庫本と同じ大きさをしてゐる。気になるひとの為に附けくはへると、月曜日始り、両面で一週間の横罫。

 以前にも触れた記憶があるんだが、私が手帖を使ふ目的は時間の管理といふより(いやその要素だつて無くはない)、記録(日記とは称しにくい)が主になる。

 食べためし。

 呑んだお酒。

 そんなことを書く。興味をそそられた催事(たとへば美術展)の予定や、スポーツの日程を書いておくこともある。などと云ふと、そんなだつたら

 「スマートフォンのカレンダーだつたりメモ帖だつたりの機能のが簡便ぢやあないか」

と指摘されるのは予想出來るし、一面は正しいとも思ふ。尤も別の一面を見れば、電池が切れたらただの板つ切れに過ぎないスマートフォンに、(えらさうな云ひ方と自覚はしてゐる)自分の時間の一部を預けるのはどうも気に喰はない。

 

 かういふのは合理性云々の前に嗜好が優先するものだ。

 

 と云ふ時私は、"ペンで紙に文字を書く行為"それ自体が既に、趣味の範疇なのではないかと思つてゐる。周章てて念を押すと、当り前に書き易いペンと紙の組合せならこちらに文句はない。筆墨硯紙に拘りを持つのが惡いとは云はないけれども、荷風山人や大谷崎のやうに、墨を摺つて筆を用ゐて和紙に書くなら兎も角、必要以上に踏み込むのは危ふいんではないか知ら。

 どこでも廉価に入手出來る。

 私が手帖に求めるのはこの二点で、高橋書店は双方を満たしてゐる。いや高橋書店以外にもあるのは知つてゐる。知つてゐます。さうなると後は馴れの問題となつて

 「そんなの、大して変らんですよ」

と思ふのは誤りである。前述したスマートフォンだつて、大体のところはどこだつて変らんでせう。それでも細かな差異はあるし、我われは屡々、その差異に引つ掛る。これも叉嗜好の顕れといつていい。

 その優先された嗜好の顕れであるところの手帖を、令和五年も使ふ。まあ書いた事どもが役に立つとしたら五年か十年か先の筈で、さてその時、私は生きてゐるかどうか。

852 令和四年末から五年三ヶ日の話

 令和四年師走廿八日。

 エヌから聯絡が入つた。翌廿九日に会つて游ぶ予定だつたのが、奥の方が武漢發と思はれる感染症の陽性判定が出て

 「濃厚接触者になつてしもた」

さうで、単身の赴任先から帰れなくなつた、すまん延期したいと云つてきた。エヌの責任でないのは勿論、奥の方に非があるわけでもない。御安全にと返事をした。

 

 師走卅日。

 ニューナンブの頴娃君と遠隔で呑み會。アサヒの[ジョッキ生]、銘とヴィンテージが曖昧な佛國の葡萄酒。お漬物におびいこ…醤油で焚き染めた縮緬山椒…にチーズ。

 例によつて莫迦話。そつちは省略して、令和五年は(様子を見つつ)何年振りかの甲州行を計劃したいものだと意見の一致を見た。二泊三日。甲府市内の呑み屋を訪ねるべし。

 勝沼のマルキとシャトー・メルシャン、甲府のサドヤ、北杜の白州と七賢。取捨撰択は六つかしいが、迷ふのも樂みのうちだと、こつちも意見の一致を見た。

 

 大晦日

 朝からいきなり、母親が体調を崩した。八十路を過ぎてゐるのだから、どこかここか、変になつたところで、寧ろ当然であらう。冷淡な言ひ種と云はれるやも知れないが、不安に思ふのとは別である。父親と近所のマーケットまで買物に出掛け、食事の用意だの片附けだのをした。

 早鮓と冷したお蕎麦。

 

 令和五年正月元日。

 御佛壇に新年の挨拶をして、お屠蘇代りに[野可勢]を一ぱい。蒲鉾、海老芋を焚いたの、それから棒鱈。お澄しにお餅はふたつ。實業團驛傳を観た。

 正月二日。

 父親と一緒にマーケットまで初賣りのお遣ひ。体調がやや戻つた母親向けに京風饂飩とゼリーとプリン。

 箱根の驛傳(往路)と大學のラグビーと高校のサッカーをテレ・ヴィジョンで見物。エヌから三日に盃を交はせないかと聯絡があつたが、母親の様子を見たい。四日にしてもらへまいかと云つたら諒との返信があつた。

 

 正月三日。

 箱根の驛傳(復路)を見物しつつ、今年の手帖…参考までに云ふと高橋書店の"リシェル2"…を用意。私の場合、手帖は管理より記録が主な目的になるのだけれど、予め書いておきたい事柄が無いわけでもない。

 驛傳を観てから、冷凍の炒飯(中々うまかつた)と蒲鉾を摘んで[スーパードライ]を一本呑んだ。それから昨日同様、マーケットへ。言ひつかつた稲庭饂飩と饂飩つゆ、銅鑼焼きは二種類。頼まれた鰈の煮つけは残念なことに賣り切れ。

 「湯豆腐なら、食べられさうな気がする」

と云ふ母親の見立てで、晩めしはさうなつた。焼豚で[ヱビス]をやつつけ、[野可勢]で湯豆腐をつついてゐたら、母親がいきなり椅子からずり落ちた。大晦日以來、食が極端に減つてゐた(京風饂飩を半玉とか、レトルトのお粥をお茶碗に三分ノ一くらゐ)から、体力は落ちてゐるし、貧血の気もあつたのか。兎も角も無理には動かさず、時間を空けてベッドに寝かし、エヌとの予定は取消しにしてもらつた。

 詰るところ、画に描いたやうな"無為徒食"であつた。

 例年、さうではないかと云はれたら、まことに御尤もと頷かざるを得ないけれども。

850 丸太花道、西へ~道行

 西へ上る。

 その前に師走廿四日の話。

 某所にあるお酒も摘みも旨い立呑屋がこの日で、令和四年の営業を終へるから、顔を出すことにした。出掛け序でに散髪(と云つてもおれの場合、ぐりぐりの丸坊主にするんだが)に行つたら、年内で廃業するんですと云はれて吃驚した。聞けばおれの親と同年代だと云ふからもつと驚いて、そんなら樂隠居したつて不思議には及ばないと思ひ直した。

 坊主頭になつて某所に出た。ちつと早かつたが、買物の必要があつたからで、気が逸つたのではない。ひよつとして、さうだつたのかも知れないが、ここは逸つてゐなかつたと強弁する。買物はそこそこに済ませた。目的の立呑屋が開くにはまだ時間があつた。ひどく寒かつたので、別のこれもうまいお店で、水餃子風のソップを摘みに[満月]のお湯割り。お代りには[浜千鳥乃詩]の水割りを呑んだ。旨かつた。

 そつちの常聯さんに年末の挨拶をして、目当ての立呑屋に潜り込んだ。こちらも既に何人かの常聯さんが、既にご機嫌も宜しくきこしめてゐる。先づサッポロの[赤ラベル]と炊いたレヴァ、白菜のお漬物から。それから鱈をあつさり炊いたの。お客さんが持ち込んだ[酔鯨]と湖池屋が藏と協業したらしいポテトチップス(鰹の酒盗味)を頒けてもらつた。面白い組合せで惡くない。更に後から來た別のお客さんが、クリスマス・ケイクを持ち込んできて、それも頒けてもらつた。紅茶ハイに移つて、クリーム・シチューと手羽先を摘んだら、何ともクリスマスらしい気分を味はへた。お勘定を済まし、佳い御年をと挨拶をした。いい言葉だなあ。

 

 廿七日、午前六時に起きて、珈琲と煙草を喫す。

 明るくなつてから洗濯と食器洗ひ。菓子パンを摘んで家を出た。途中で煙草と令和五年の手帖、大坂への土産と、東海道新幹線の切符を贖つた。腹積りを覆へし、のぞみ號の指定席を取つた。何故かと訊かれたら、さういふ気分になつたのだとしか応じにくい。中央総武緩行線で新宿まで。中央線快速に乗継いで東京驛に出た。

 席を取つたのは午后一時五十一分發。車内でお弁当を食べませうと決め、[日本橋幕の内弁当]を買つた。罐麦酒も二本買つた。ホームに上つたら、存外に混雑してゐて少々驚いた。師走も廿七日だもの、浮足立つのも当然だらうと思ひ、指定席を取つたのは正解だとも考へた。

 のぞみ十四號(N700A)が入線した。車内の片附けが終り次第、おれが乗客になる下リののぞみ號になる。それで新幹線の車内の片附けは外ツ國のひとから見ると、手際のよさが驚異的に映るらしいことを思ひ出した。外ツ國の特別急行列車に乗る機會に恵まれたことはないから、あちらの實際がどうだかは知らない。

 もしかすると、特別急行列車の清潔で快適な車輛とは、世界の列車事情から見て稀なのか知ら。

 さういふことを考へてゐたら、(世界に冠たる)車内の片附けが完了したので乗り込んだ。

 我がのぞみ號は恙無く發車。空腹だつたし、足の速いのぞみ號でもあるので、品川驛を出た辺りで[黒ラベル]とお弁当の蓋を開けた。梅干し。玉子焼き。鮭。佃煮。牛肉と牛蒡の炊合せに焼き豆腐。如何にも旧式の東京を狙つてゐる辺り、鼻につかなくもないが、決して惡くはない。尤も大枚千三百円をはたいたのだ、不味かつたらきつと苦情を入れたらう。

 併しどうも尻が落ち着かなくつていけない。

 おれが乗つたのぞみ號は、新横浜驛を出たら、次は名古屋驛まで停らない。下リの新幹線に掛る時間は、こだま號に馴染んでゐる。急かされてゐるみたいだなあと思つてゐたら、車内の案内板に

 「三島を通過しました」

と出たから吃驚した。あはせて車掌さんが、けふは天気がいいです、富士の全景が見えると思ふですとアナウンスして、更に吃驚した。

 ところでおれの坐つた席の前には親子連れがゐた。ご両親と赤ん坊、それから三歳くらゐ(だらうか)のお嬢ちやん。お嬢ちやんはいい子にしてゐたのだが、退屈するのも当然で、時折りママを相手にぐづつてゐた。我が儘といふより、構つてもらひたげな調子で、かういふのは気にならない。親御さんはたいへんだと考へてゐたら、通り掛りの警備員さんが、その子におどけた敬礼を見せたので感心した。近いお齢のお孫さんでもゐるんだらうか。

 [黒ラベル]はとうに呑み干してある。お代りにオリオンの[75]を開けた。オリオンは沖縄で呑むのが一ばん美味いのは云ふまでもないとしても、"新幹線で呑むオリオン"に限つたら、沖縄人は知らない味の筈なので、威張つておきたい。

 「内地のひとは、"ゆいレールで呑むオリオン"を知らないだらう」

と反論されたらこまるけれど、ゆいレールは云はぱローカル鐵道だから、あれは呑むための列車ではないのですと云へる余地はある。参考までに[75]はピルスナー仕立てで、口当りはごく穏やかであつた。かるいと云へばかるく、夏の夕方に似合ふ感じがされた。

 気がつけば我がのぞみ號は、間もなく新大阪驛に着かうとしてゐた。せはしないものだと思ひながら降りて、驛建物内の小さな呑み屋で、葡萄酒を二はい(赤と白と。銘から察するにどちらもイタリー。但しヴィンテージは判らない)を、ポテト・サラドと玉葱のロースト(肉味噌と白葱を乗せてあつて中々うまい)でやつつけて、西上は終つた。後は帰つてだらだらすれば、令和四年の年末と令和五年の年始である。

849 丸太花道、西へ~撰択

 西へ上る。

 西へ上つたら、旧い友人…この稿ではエヌと呼ぶが、星新一のショート・ショートに登場するエヌ氏とは別人なので、為念…と会ふ。思ひ返すと四十年に及ぶつきあひだから、旧いと称して、まちがひとは云はれまい。

 

 年末のどこか。

 晝前から落ち合つて、半日余りふらふら歩いて、夕方早めの時間から呑む。この何年かは[てぃだ]といふ奄美とドイツが混つた妙な呑み屋を気に入つてゐる。妙なと云ふのは組合せを指してゐる。

 「今年は、どないするンね」

 「安定しとるやろね、[てぃだ]が」

と意見が纏まるのは要するに呑み喰ひが美味いからである。[てぃだ]でなければ[ケラーヤマト]があつて、こつちは麦酒専門。料理が旨いのは当然だが、麦酒計り呑み續けるのは六つかしいから、バーに移ることになる。

 

 そのエヌに西上の聯絡をしたら、互ひにシニアの門を潜つてゐるのだから、気をつけて帰つて來玉へと返事があつた。五木寛之でもあるまいに。

 

 夕方早めの時間まで、ふらふら何をするのかと云へば、莫迦話をしつつ時々冩眞を撮る。序でにカメラ屋を冷かしもする。エヌはおれにカメラ趣味を教へた張本人である。冷かしはしても、買ふことはない。手持ちのカメラとレンズで大体のところは満足だからで

 「慾しいモンが無い、ちふのも、アレなンやが」

さうは云ひあつても、結局は

 「無理くり買オても、直き飽きるンは確實やしなあ」

といふ結論に達する。それにエヌもおれも爺、訂正、シニアの門を潜つてゐる。大きく重いカメラやレンズには視線が向かず、双方好みのスタイリングがあつて、その網の目を通り抜ける製品は中々見当らないのも事實である。

 

 兎も角も、カメラは持ち帰る。

 オリンパスE-PM2パナソニックの12-32ミリを附けてゆかうと思つてゐる。小振りでかるく、ズームが便利でもある。他に持ち帰るのも充電器とケーブルだけで済む。GRデジタルⅡならもつと小さくてかるいけれど、こつちは玩具の要素が強く、一緒に持ち帰りたいアクセサリが嵩張つてしまふからね。但しこの判断には、"今のところは"と注意書きをつけておく必要がある。

 兎も角もと云ひながら、撰択肢を残してあるのは、E-PM2パナソニックの12-32ミリ、或はGRデジタルⅡが最良…ではなくても好もしいかどうか、判断が出來かねてゐる所為である。極端なことを云ふなら、西上してからカメラを入手する方法だつて考へられる。ただこの案が成り立つのは、GRⅢを買ふ場合に限られるし、實行したらエヌからは

 「阿房な眞似を、するモンやな」

さう揶揄はれるにちがひない。